続『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について
Jan 06, 2024|ゲーム研究
以下のエントリーの補足。とくに注1に関して。
このエントリーでは、指示と述定という言語哲学的な考え方がモデルと対象システムの関係にも適用できるという発想のもとで本を書いていたということを述べた。それに近いことを言っている論者もいたはずと思って、その後SEPで関連項目をいくつか読んでいたが、私がぼんやり思っていることをほぼそのまま洗練されたかたちで主張しているものがあったので、簡単に紹介しておく。
この項目の7.2にあるRoman FriggとJames Nguyenによる「DEKI説」が、私の発想にかなり近い考え方を提案している。この説は、グッドマンの「トシテ表象」と「例示」という概念を援用して、科学におけるモデルの働きを説明しようというものだ。基本的なアイデアはグッドマンの弟子であるエルギンがすでに提案しており、DEKI説はその洗練バージョンという位置づけだと思われる*。
トシテ表象(representation-as)は、グッドマンが『芸術の言語』で言及して以来、描写の哲学その他の文脈で頻繁に持ち出される例のあれである。たとえばチャーチルを人面ブルドッグとして描く絵のようなケースで、一般に〈何かをしかじかの特徴を持ったものとして表象する〉という働きを持つ。以下の記事の2.4~2.5あたりを参照。
例示(exemplification)も、グッドマン美学に出てくる例のあれである。色見本や生地見本といったサンプルは、それ自体が備える性質の一部を例示するという働きを持つ。この働きは、一般に〈当の事物が例化している性質の一部への選択的な記号作用〉として特徴づけられる。グッドマン自身は例示とトシテ表象をとくに結びつけていないはずだが、エルギンはトシテ表象の2つの側面である〈representation of x〉と〈x-representation〉のうち、後者を例示で説明している。
DEKI説は以下の通り。日本語のほうがわかりにくいので原文もあわせて引用しておく。
M = ⟨X, I⟩をモデルとする。ここで、Xは物*、Iは解釈である。Tをターゲットシステムとする。MがTをZとして表象するのは、次の条件がすべて満たされるとき、かつそのときに限る:
- MはTを指示する*。
- MはZ性質{P1, ..., Pn}を例示する。
- Mは性質集合{P1, ..., Pn}を、(場合によってはそれと同一の)性質集合{Q1, ..., Qm}に結びつけるキー*を備えている。
- Mは性質集合{Q1, ..., Qm}の少なくともひとつをTに帰属させる*。
Mが(i)~(iv)で定義されている意味でTをZとして表象するとき、かつそのときに限り、MはTの科学的表象である。
Let M = ⟨X, I⟩ be a model, where X is an object and I an interpretation. Let T be the target system. M represents T as Z iff all of the following conditions are satisfied:
- M denotes T.
- M exemplifies Z-properties {P1, …, Pn}.
- M comes with key K associating the set {P1, …, Pn} with a (possibly identical) set of properties {Q1, …, Qm}.
- M imputes at least one of the properties {Q1, …, Qm} to T.
M is a scientific representation of T iff M represents T as Z as defined in (i)–(iv).
「DEKI」のDは指示(denotation)、Eは例示(exemplification)、Kはキー(key)、Iは帰属(imputation)をそれぞれ意味するらしい。(ii)~(iv)のところのポイントがわかりづらいが、ようするに、モデルは特定の解釈のもとで初めてそれとして機能する、モデルの持つ性質の一部だけがピックアップされる(サンプルが備える性質の一部だけが例示されるのと同様)、モデルは基本的にターゲットシステムを代理する(surrogate)ものとして解釈される(それゆえモデルを通してターゲットシステムについて推論することが可能である)といった事実がカバーされている。
(i)はモデルの表象的性格を述べている。類似ベースの説明、つまりターゲットとの類似をモデルの要件に持ち込む説だと、モデルがしばしば間違いうるという事実(誤表象可能性)が説明しづらい。DEKI説では、ターゲットとの類似を条件に組み込まないことで、誤表象可能性を無理なくカバーしている。
『ビデオゲームの美学』は、類似ベースの説明であるワイスバーグらの議論を引用しつつ、実際に背後にある発想はDEKI説に近いという点で、いろいろと整合的でない説明になっているのかもしれない。このへんを勉強していれば、もう少し整理された書き方ができた気がする。
『ビデオゲームの美学』で言うところの「モデルの表象内容」は、DEKI説の図式における{Q1, ..., Qm}に相当するだろう。それはターゲットシステムが実際に持つ性質ではなく、ターゲットシステムに「帰属される(imputed)」性質の候補、それが持つと主張される性質の候補である。そして、その帰属候補の諸性質は、モデル自体が備えかつそれがモデルとして働く際に有意味な諸性質{P1, ..., Pn}から何らかのかたちで引き出される。『ビデオゲームの美学』の第12章前半は、この2つの性質集合間の関係を「部分的な類似」として説明しようとしている点で、murashitさんが指摘しているようによくわからない議論になってしまったのだと思われる。
追記(2024.01.08)
DEKI説の元テキストを確認したらわかりやすい図が載っていた(Frigg and Nguyen, Modelling Nature, 150*)。
これはトシテ表象の一般的な図示だが、モデル、それが例示する諸性質(Z性質)、ターゲットシステムの三項関係がどうなっているかがよくわかる。
科学的表象は、モデルが例示する性質をターゲットシステムにそのまま帰属させるのではなく、それをいくらか変換して帰属させる場合がある。それゆえ、DEKI説では、上の図式にさらに、Z性質から「キー」によって引き出される諸性質{Q1, ..., Qm}(最終的にターゲットシステムに帰属される性質)の段階も追加され、四項関係として図示される(この図も上記のテキストの中にあるが、他の情報もいろいろ詰め込まれていて煩雑なので省略)。
Footnotes
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ちなみにDEKI説は項目執筆者たち自身の説なので、いかにも説得的に見えるように紹介されている面があるかもしれない。とはいえそれを差し引いても、まさにこういうことが言いたかったという感じの内容ではある。
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『ビデオゲームの美学』では"target system"を「対象システム」と訳しているので、"object"を「対象」と訳すとややこしくなる。ここでの"object"は、ターゲットではなく、モデルとして機能する事物(具体物か抽象物かはともかく)のほうである。
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『芸術の言語』の邦訳にあわせて、"denote"は「指示する」と訳しておく。以下余談。"denote"に「表示する」を当て、"refer to"に「指示する」を当てるのが標準的な作法ではあるだろうが、『芸術の言語』の邦訳ではそれぞれの訳語対応が逆転しており、最悪なことになっている(もちろん私にもその事態の責任はあるが)。実際のところ、グッドマンの議論における"denote"は、言語哲学的な指示と述定の対比における指示だけでなく述語の機能もすべてひっくるめたもので、その点では「指示」と訳すのはあまりよくないのだが、外延主義的な前提があるわけなので(この点はラッセルと同様だが、グッドマンは述語や記述の働きを単純に固有名の働きと同種のものとして考える)、「指示」と訳すこと自体に大きな問題があるとは思えない。ついでに言えば、グッドマンの"refer to"の用法はかなり異常であり、むしろこちらを「指示」と訳すことのほうに問題があると思う。とはいえ、訳語選択が最高にミスリーディングであることに変わりはないので、このへんの事情はどこかに書いておいたほうがいいかもしれない。
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"key"という語が使われている理由やそのニュアンスはよくわからないが(関係データベースの「キー」と同じ用法なのかどうなのか)、ようするに、モデルが例示している性質のどれが、ターゲットシステムに帰属される性質のどれに対応しているかを決める何らかのメカニズムが"key"と呼ばれている。
追記(2024.01.08):"key"という考え方と用語は、地図から来ているようだ(Frigg and Nguyen, Modelling Nature, 175)。たとえば、縮尺25,000分の1の地図は、それが例化かつ例示している地図上の2点間の距離を25,000倍した距離をターゲットに帰属する。地図の凡例が示すもの(地図上のアイテムや特徴と地理的特徴の対応規則)を"map key"とか"key on a map"と言うらしい。関係データベースは関係なかった。
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ここでの"impute"に術語としての用法や定訳があるかどうかわからない。「代入」は文脈に沿わないので「帰属」にしてあるが、〈仮にこれこれだということにしておく〉くらいのニュアンスだと思われる。
追記(2024.01.08):"impute"はエルギンが使っている用語のようで、FriggとNguyenはそれが"ascribe"と交換可能な語である(あるいは少なくとも前者が後者で分析できる)ことを明示的に書いている(Frigg and Nguyen, Modelling Nature, 149, 179)。なので"imputation"は「帰属」と訳しておいてとくに問題ないだろう。
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書誌情報:Roman Frigg and James Nguyen, Modelling Nature: An Opinionated Introduction to Scientific Representation (Cham: Springer, 2020). https://doi.org/10.1007/978-3-030-45153-0.