『ゲーム化する世界』について (1/3)

Jun 09, 2013|ゲーム研究

読んだ。

2011年におこなわれた日本記号学会第31回大会の内容をもとにした本です。ゲームの特集号で、いろいろな論文や対談が収録されています(目次)。僕も大会では恥ずかしいかんじの発表をしたんですが、諸事情というか怠慢というかで論文は書いてません…。

日本発のアカデミックな人文系のビデオゲーム本はいまのところ皆無といってよいので、これは非常に貴重な成果だと思います。こういう本や論文がぽつぽつ出てくるようになるといいです。

こういう本が出ることにかんしては手放しでめでたいんですが、内容についてはいろいろ言いたいことがあるので書いておきます。

お前論文でやれよという話ではあるんですけど、軽いノリでコメントしたいのでブログに書きます。ちゃんとした議論は、そのうちちゃんとしたかたちで出せたら出します。

3回くらいに分けます。今回コメントするのは以下の論文。

  • 吉田寛「ビデオゲームの記号論的分析〈スクリーンの二重化〉をめぐって」

吉田さんは、「アイコン」と「オブジェクト」を区別することによってビデオゲームにおける「スクリーンの二重化」を定義している(pp.60-61)。そして、この区別をそのまま「意味論的次元/統語論的次元」という記号論的な区別にスライドさせる(p.64)。

アイコン」とは、「スクリーンの外側にあるものを指示する記号」であるとされる。これはパース的な意味での類似記号に限られたものではなく、「視覚的記号を包括的に指す語」である。たとえば、虚構的対象*としてのマリオを指示する記号。

一方「オブジェクト」とは、「プログラム内およびスクリーン上で一定の量〔ドット数〕と機能が定義される対象」であるとされる。たとえば、「縦16ドット、横12ドットの正方形群からなるスクリーン上(プログラム内)の『オブジェクト』」としてのマリオ。「プレイヤーはこのオブジェクトをゲーム世界内での『自己』に見立て、それを慎重に操作しながらゲームを進めていく」。

吉田さんは、この区別を用いることで、個別事例の構造分析、ゲームの上達過程の説明、ジャンルごとの両次元の関係のちがいの説明、それぞれの次元の「リアリティ」の定義などをおこなっている。

批判は以下3点。

(1) Juul (2005) が区別するような意味での「フィクション/ルール」と吉田さんの「アイコン/オブジェクト」の関係が明確でない。

挙げられた事例などを見るかぎりおおむね同じなのかなあという感じなのだが、どうもはっきりしないので、もうちょっと関係を明確にしてほしい。

Juulの「ルール」があいまいな概念ということであれば、Adams & Dormans (2012) の「メカニクス」でもいいし、「フィクション」の外延が不適当ということであれば、フィクションの代わりによく使われる「representation」にしてもいいが、いずれにせよ、この種の区別はゲーム研究やゲームデザインにおいてかなり多くの論者が認めている区別である。

にもかかわらず、それらについて触れずに、タークル、ジジェク、東らの「スクリーン」「スクリーンの背後」「イメージ」「シンボル」といった諸概念をひねって「アイコン/オブジェクト」という対概念をこしらえるのは問題があるのではないか。もちろん、「ルール/フィクション」の区別とは別物であるという主張はありだが、その場合でも関係ははっきりさせてほしいところ。

ただこれは先行研究との関係が明確でないというくらいの話で、それほどたいした難点ではない。決定的に問題なのは次の点。

(2) ルール上の対象は、画面上の要素(たとえばドットの集合)と同一視されるべきものではない(つまり統語論レベルのものではない)。

吉田さんの用語に引きつけて言えば、「プログラム内」で定義されているものと「スクリーン上」で定義されているものは概念的に異なるということである。

これはアドベンチャーゲームやノベルゲームといった空間的ルールをほとんど持たないジャンルを見れば端的に明らかだが、アクションやシューティングや落ち物のような空間的ルールをフィーチャーするジャンルであっても必ずしも画面上の要素とルール上の対象が一致するわけではない。たとえば、多くのアクションゲームでは対象の当たり判定の領域はその見た目とずれている。

kasuhoさんのツイートを勝手に引用しますが:

この「ドット絵の輪郭」は吉田さんにおける「スクリーン上」のものであり、「少し内側で跳ねる」というのは吉田さんにおける「プログラム内で定義された機能」に相当するものだろう*。吉田さんの「オブジェクト」という概念では、この区別が拾えない。

↑ポコポコ踏んでる動画が見つからなかったのでこれで ↓あった)

さらに言えば、画面上はいかなる出来事も生じさせないがルール上なんらかの出来事を生じさせるプレイ行為はいくらでもある。たとえば、コナミコマンドを入力しているとき画面は一切反応しないが、プレイヤーはボタンを押すたびにルール上の出来事を引き起こしているし、またそのことを意図している。

もちろん、〈「オブジェクト」はルール上の対象すべてを指すわけではなく、ルール上の対象のうちのとくにスクリーン上の要素と一致するもののみを指す〉というふうに再定義して整合性を保つことは可能である。しかし、その場合、その概念をつかって説明できるのは、おそらく、二次元の空間ルールを持つタイプのゲームのさらに特定の側面のみにかぎられる(吉田さんが挙げている事例はすべてこのタイプ)。

ここでの批判は、この区別を使って吉田さんがおこなっている諸々の説明に対する批判ではない。それらの説明にはおおむね同意する。問題は、その区別の定義の不十分さと、その定義に引っぱられてその区別を「統語論/意味論」という区別にスライドさせてしまう点にある。

画面上の諸要素は、虚構的対象を表す場合もあるし、ルール上の対象を表す場合もあるし、両者を同時に表す場合もある。「統語論/意味論」という由緒ある用語をつかうのであれば、〈ビデオゲームには二種類の意味論があり、画面上の諸要素はそれぞれの意味論に対応した二種類の統語論として機能する〉というのが適切な概念枠なのではないか*

(3) 「リアリティ」という用語のインフレ。

吉田さんによれば、「意味論的リアリティ」は「グラフィックの鮮麗さや、現実世界に正確に対応した設定など」であり、対して「統語論的リアリティ」は、たとえば「あるキャラクター(オブジェクト)の行為や動作がそのゲームのアルゴリズム内で十分な首尾一貫性や恒常性、必然性を持っているかどうかに関わるリアリティである」とされる(p.67)。

しかし、「意味論的リアリティ」で意味されるものは比較的ふつうの意味でのリアリティだと思うが、「統語論的リアリティ」で意味されるものはふつう「リアリティ」とは呼ばないだろう。「統語論的リアリティ」の事例を見るかぎり、むしろ「ゲームプレイの面白さ」やあるいは悪名高い「ゲーム性」といった名前で日常的に呼ばれているものであるように思える。

もちろん、ルールとフィクションのそれぞれに対して(しばしば互いに独立の)なんらかの一貫性や調和の評価基準があることには全面的に賛同する。ただ、それらを両方とも「リアリティ」と呼ぶことには概念的混乱のリスクが伴う。そのリスクを犯してもなお「リアリティ」という語を拡張して使うためには、なんらかの積極的な理論的動機を示す必要があるのでは。


最後に批判ではないけどいっこだけ。

吉田さんは、「意味論的次元と統語論的次元の二重性に依拠して〔…〕『ゲーム』なるものを(再)定義する」可能性を示している。「訓練」に使われるドライビングシミュレータやフライトシミュレータでは両者の食い違いが許容されないが、「遊び」としての野球ゲームでは許容される。それゆえ、「統語論的次元と意味論的次元のズレや乖離こそがゲームをゲームたらしめているのではないか」と(pp.68-69)。

ここで言われているシミュレータとゲームのちがいは、目的のちがいであるように思われる。シミュレータは、訓練のためであれなんであれ、現実をシミュレートすることを目的としており、そのために現実の特定の側面(吉田さんがいう「意味論的次元」)とルール(吉田さんがいう「統語論的次元」)とが同型であることが要求される。一方、ゲームにはそのような目的がなく、現実とルールの同型性にかんしてそのような実用的な要求がない。

言うまでもなく、ここには遊びの特徴づけのひとつとして伝統的に主張されてきた〈現実からの分離性テーゼ〉が響いている(この分離性はさまざまな名前で呼ばれる。「magic circle」や「negotiable consequences」などもバリアントだし、さかのぼれば当然「無関心性」に行き着くだろう*)。

その意味で吉田さんの洞察は古典的な見解と部分的に一致するものだし、個人的にも部分的に同意する。「ゲーム」がその定義項に「遊び」を含むかぎりは、分離性もなんらかのかたちで定義に入ってこざるを得ないだろうと思う(単独十分条件ではあり得ないが)*

『ゲーム化する世界』について (2/3) へつづく。

Footnotes

  • 吉田さん自身は「虚構的対象」といった言葉はつかっていないが、そのようにしか取りようがない(指示対象を現実のものに限定しているようには見えないので)。

  • ちなみにこの「幽霊のコア」というのは明らかに虚構的対象についての記述である。つまりこれは「アイコン」だけでなくルール上の対象のふるまいも虚構的対象の特徴づけに寄与している例である。

  • 死に舞さん(RGN-u#05)による「統語論=ルール」と「意味論=再現表象or物語」という用語法(区別自体ではなく)に対して私が反対しているのもまったく同じ理由による。本人は文字通りの「統語論/意味論」ではなくあくまで比喩だと言っていたと思うが、比喩だとしても用語法上の弊害が甚だしい。

  • 西村先生(『遊びの現象学』)ならたぶん「仮象論」という名のもとにさらにいろいろひっくるめるだろう。

  • 井上さんとかは分離性要件を否定する気がする。分離性要件は、ゲーミフィケーションの発想とぱっと見相性が悪い。井上さんついでにCritique of Gamesから当たり判定に関するいい記事はっておきます:

References

  • Adams, E. & J. Dormans (2012). Game Mechanics: Advanced Game Design. Indianapolis: New Riders. (邦訳
  • Juul, J. (2005). Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds. Cambridge, MA: The MIT Press.