「ゲーム性」を美学的に分解する

Jun 25, 2013|ゲーム研究

海道賢仁さんの以下の記事(とくに2)をネタに考えたことなど。

これまでに見た「ゲーム性」概念の用法の整理のなかでは、圧倒的にクオリティが高い(井上明人さんの某卒論もすごいが、言説史的アプローチなのでまたちょっと毛色がちがう)。

海道さんの基本的な考えは以下。

「ゲーム性」という用語を使う場合、その文脈によって以下の3つの意味に大別できると考えています。

  1. 広義のゲーム性 = fun factor
  2. 狭義のゲーム性 = core game play mechanics
  3. 面白さを表す尺度 = ゲーム度(※個人差あり)

http://kenjikaido.blogspot.jp/2013/06/17.html

「1. 広義のゲーム性」は「そのゲームが提供する楽しさ」であり、「このゲーム、なにがおもしろいの?なにが楽しめるの?どういった体験ができるの?と問うたときに返ってくる答え」であるとされる。

「2. 狭義のゲーム性」は「そのゲームの楽しさをどうやって?作り出しているか、というメカニズム」であり、「ゲームルールやゲームシステム、操作性やUIなど、ゲームを構成する各要素やその噛み合いなど」であるとされる。

「3. 面白さを表す尺度」は、「そのプレイヤーにとってそのゲームまたはゲーム要素がどのぐらい?面白いかを表す尺度」で、いわば「ゲームおもしろ度」であるとされる。

で、「ゲーム性」という言葉が、文脈次第で、これら複数の側面ないし成分のどれかひとつを指したり全部ごっちゃにして指したりするので、用語上の混乱が起きる(バズる)というのが海道さんのおそらく言いたいところで、その点はまったく同意する。

以下、美学的な話。

上記のような区別は、美的性質とその基盤性質、美的性質(あるいは美的経験)と美的価値の区別や関係などを考える美学者にとっては馴染みが深い(『分析美学入門』3・4章を読もう)。

たとえば、上記の三区分は、ある絵画作品の色彩と形態(基盤性質)、そのダイナミックさ(美的性質)、その良さ(美的価値)という区別とかなり近しいものがあるように感じる。

しかし、これらがそのままパラレルに(1)~(3)に対応するかというとそういうわけでもない。美的価値と面白さはほぼパラレルだとしても、他のニ者は微妙にずれる。(1)と(2)の関係は、美的性質と基盤性質の関係ではないからだ。

むしろ、美学的には、(1)のうちに、美的性質(に類する性質)とその基盤性質をさらに区別すべきだろうと思う。つまり、たとえば、あるゲームプレイが持つ「ぬるぬる感」と、それが依存している特定の運動感覚的性質(おそらく視聴覚的性質と触覚的性質の連動によるもの)の区別である(もしかしたら海道さんは、この区別を「fun factor」と「gameplay」の区別として捉えようとしているのかもしれない)。

で、その「ぬるぬる感」は、たとえば「すばらしい」とか「面白い」といった対象の価値判断(3)の理由になる。この理由関係は、美的性質と美的価値の関係とほとんどパラレルと考えていいだろう。

では(2)はなんなのかということになるが、これも美学的に扱える道具立ては揃っている。

(2)(ふつう「ゲームメカニクス」と呼ばれるもの)は、それとプレイヤーがインタラクトすることで特定のゲームプレイが生じるところの潜在的構造と考えていいだろう。つまり、それ自体は静的な対象だが、プレイヤーとのインタラクションによって特定のプロセスを生じさせるものである。

それゆえメカニクスは、上演芸術における作品タイプ(特定のパフォーマンスによって例化されるところの潜在的なもの)にかなり近いように思われる。実際、ビデオゲームを上演芸術と(存在論的に)同じようなものとして考える美学者はまあまあいる(e.g. Meskin & Robson; Tavinor)。その考えによれば、作品(メカニクス)は、それが特定のパフォーマンス(ゲームプレイ)を生むことができ、かつそのパフォーマンスが特定の美的性質を持つという点において美的に評価されることになる。

そのように考えると、美学的な枠組みのなかで、上記の(1)~(3)は以下のように再整理できるんではないか。

(1a)ゲームプレイの基盤性質
プレイヤーによるメカニクスの例化によって生じたプロセスが持つ性質。

(1b)ゲームプレイの美的性質
(1a)に依存し、(3)の理由になるもの。

(2)メカニクス
プレイヤーとのインタラクションによってゲームプレイを生み出す静的対象。

(3)メカニクスの美的価値
(1b)を生むという点において(2)に帰属される価値。

たしかに、「ゲーム性」という言葉は、文脈によって、これらのいずれかを、あるいは複数をごっちゃにして指すものとして使われているように思える。

もちろん以上は分析としてはぬるいので、もうちょっと精度の高い議論をすることは可能だし必要。たとえば、基盤性質と美的性質の関係みたいなのが本当にゲームプレイに言えるのか、ゲームメカニクスの価値やゲームプレイの性質は「美的」と呼べるのか等々。

ただまあこのへんは美的性質とか存在論プロパーな人が(具体的には死に舞さんなどが)やったほうがいいのではないかと思う。僕はこの論点を論文にする予定はいまのところないので(というか、ないからブログに書いてるわけだけど)、ぬるい問題提起だけで終わります。

追記

書かれてないが、もしかすると海道さんは有名なMDAフレームワーク(Hunicke, LeBlanc & Zubek 2004)を想定しつつ「ゲーム性」の用法のちがいを区別してるのかもしれない。(1)~(3)は、D, M, Aとパラレルな区別になっているように見えなくもない。