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  <title>9bit</title>
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  <description>ゲーム研究と美学についてのノート</description>
  <lastBuildDate>Sat, 06 Jan 2024 12:51:39 GMT</lastBuildDate>
  <language>ja</language>
  <copyright>© Ninja Tools Inc.</copyright>
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    <item>
    <title>続『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>以下のエントリーの補足。とくに注1に関して。</p>
<ul>
<li><a href="https://9bit.99ing.net/Entry/113/" target="_blank">『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について - 9bit</a></li>
</ul>
<p>このエントリーでは、指示と述定という言語哲学的な考え方がモデルと対象システムの関係にも適用できるという発想のもとで本を書いていたということを述べた。それに近いことを言っている論者もいたはずと思って、その後SEPで関連項目をいくつか読んでいたが、私がぼんやり思っていることをほぼそのまま洗練されたかたちで主張しているものがあったので、簡単に紹介しておく。</p>
<ul>
<li><a href="https://plato.stanford.edu/entries/scientific-representation/" target="_blank">Scientific Representation (Stanford Encyclopedia of Philosophy)</a></li>
</ul>
<p>この項目の7.2にあるRoman FriggとJames Nguyenによる「DEKI説」が、私の発想にかなり近い考え方を提案している。この説は、グッドマンの「トシテ表象」と「例示」という概念を援用して、科学におけるモデルの働きを説明しようというものだ。基本的なアイデアはグッドマンの弟子であるエルギンがすでに提案しており、DEKI説はその洗練バージョンという位置づけだと思われる<span class="note">*</span>。</p>
<p>トシテ表象（representation-as）は、グッドマンが『芸術の言語』で言及して以来、描写の哲学その他の文脈で頻繁に持ち出される例のあれである。たとえばチャーチルを人面ブルドッグとして描く絵のようなケースで、一般に〈何かをしかじかの特徴を持ったものとして表象する〉という働きを持つ。以下の記事の2.4～2.5あたりを参照。</p>
<ul>
<li><a href="https://9bit.99ing.net/Entry/85/" target="_blank">描写内容の理論 - 9bit</a></li>
</ul>
<p>例示（exemplification）も、グッドマン美学に出てくる例のあれである。色見本や生地見本といったサンプルは、それ自体が備える性質の一部を例示するという働きを持つ。この働きは、一般に〈当の事物が例化している性質の一部への選択的な記号作用〉として特徴づけられる。グッドマン自身は例示とトシテ表象をとくに結びつけていないはずだが、エルギンはトシテ表象の2つの側面である〈representation of x〉と〈x-representation〉のうち、後者を例示で説明している。</p>
<p>DEKI説は以下の通り。日本語のほうがわかりにくいので原文もあわせて引用しておく。</p>
<blockquote>
<p>M = ⟨X, I⟩をモデルとする。ここで、Xは物<span class="note">*</span>、Iは解釈である。Tをターゲットシステムとする。MがTをZとして表象するのは、次の条件がすべて満たされるとき、かつそのときに限る：</p>
<ol style="list-style-type: lower-roman;">
<li>MはTを指示する<span class="note">*</span>。</li>
<li>MはZ性質｛P1, ..., Pn｝を例示する。</li>
<li>Mは性質集合｛P1, ..., Pn｝を、（場合によってはそれと同一の）性質集合｛Q1, ..., Qm｝に結びつけるキー<span class="note">*</span>を備えている。</li>
<li>Mは性質集合｛Q1, ..., Qm｝の少なくともひとつをTに帰属させる<span class="note">*</span>。</li>
</ol>
<p>Mが(i)～(iv)で定義されている意味でTをZとして表象するとき、かつそのときに限り、MはTの科学的表象である。</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>Let M = ⟨X, I⟩ be a model, where X is an object and I an interpretation. Let T be the target system. M represents T as Z iff all of the following conditions are satisfied:</p>
<ol style="list-style-type: lower-roman;">
<li>M denotes T.</li>
<li>M exemplifies Z-properties {P1, &hellip;, Pn}.</li>
<li>M comes with key K associating the set {P1, &hellip;, Pn} with a (possibly identical) set of properties {Q1, &hellip;, Qm}.</li>
<li>M imputes at least one of the properties {Q1, &hellip;, Qm} to T.</li>
</ol>
<p>M is a scientific representation of T iff M represents T as Z as defined in (i)&ndash;(iv).</p>
</blockquote>
<p>「DEKI」のDは指示（denotation）、Eは例示（exemplification）、Kはキー（key）、Iは帰属（imputation）をそれぞれ意味するらしい。(ii)～(iv)のところのポイントがわかりづらいが、ようするに、モデルは特定の解釈のもとで初めてそれとして機能する、モデルの持つ性質の一部だけがピックアップされる（サンプルが備える性質の一部だけが例示されるのと同様）、モデルは基本的にターゲットシステムを代理する（surrogate）ものとして解釈される（それゆえモデルを通してターゲットシステムについて推論することが可能である）といった事実がカバーされている。</p>
<p>(i)はモデルの表象的性格を述べている。類似ベースの説明、つまりターゲットとの類似をモデルの要件に持ち込む説だと、モデルがしばしば間違いうるという事実（誤表象可能性）が説明しづらい。DEKI説では、ターゲットとの類似を条件に組み込まないことで、誤表象可能性を無理なくカバーしている。</p>
<p>『ビデオゲームの美学』は、類似ベースの説明であるワイスバーグらの議論を引用しつつ、実際に背後にある発想はDEKI説に近いという点で、いろいろと整合的でない説明になっているのかもしれない。このへんを勉強していれば、もう少し整理された書き方ができた気がする。</p>
<p>『ビデオゲームの美学』で言うところの「モデルの表象内容」は、DEKI説の図式における｛Q1, ..., Qm｝に相当するだろう。それはターゲットシステムが実際に持つ性質ではなく、ターゲットシステムに「帰属される（imputed）」性質の候補、それが持つと主張される性質の候補である。そして、その帰属候補の諸性質は、モデル自体が備えかつそれがモデルとして働く際に有意味な諸性質｛P1, ..., Pn｝から何らかのかたちで引き出される。『ビデオゲームの美学』の第12章前半は、この2つの性質集合間の関係を「部分的な類似」として説明しようとしている点で、murashitさんが指摘しているようによくわからない議論になってしまったのだと思われる。</p>
<h2>追記（2024.01.08）</h2>
<p>DEKI説の元テキストを確認したらわかりやすい図が載っていた（Frigg and Nguyen, <i>Modelling Nature</i>, 150<span class="note">*</span>）。</p>
<div class="image_box_transparent"><img src="https://9bit.99ing.net/File/representation-as.png" /></div>
<p>これはトシテ表象の一般的な図示だが、モデル、それが例示する諸性質（Z性質）、ターゲットシステムの三項関係がどうなっているかがよくわかる。</p>
<p>科学的表象は、モデルが例示する性質をターゲットシステムにそのまま帰属させるのではなく、それをいくらか変換して帰属させる場合がある。それゆえ、DEKI説では、上の図式にさらに、Z性質から「キー」によって引き出される諸性質｛Q1, ..., Qm｝（最終的にターゲットシステムに帰属される性質）の段階も追加され、四項関係として図示される（この図も上記のテキストの中にあるが、他の情報もいろいろ詰め込まれていて煩雑なので省略）。</p>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p>ちなみにDEKI説は項目執筆者たち自身の説なので、いかにも説得的に見えるように紹介されている面があるかもしれない。とはいえそれを差し引いても、まさにこういうことが言いたかったという感じの内容ではある。</p>
</li>
<li>
<p>『ビデオゲームの美学』では"target system"を「対象システム」と訳しているので、"object"を「対象」と訳すとややこしくなる。ここでの"object"は、ターゲットではなく、モデルとして機能する事物（具体物か抽象物かはともかく）のほうである。</p>
</li>
<li>
<p>『芸術の言語』の邦訳にあわせて、"denote"は「指示する」と訳しておく。以下余談。"denote"に「表示する」を当て、"refer to"に「指示する」を当てるのが標準的な作法ではあるだろうが、『芸術の言語』の邦訳ではそれぞれの訳語対応が逆転しており、最悪なことになっている（もちろん私にもその事態の責任はあるが）。実際のところ、グッドマンの議論における"denote"は、言語哲学的な指示と述定の対比における指示だけでなく述語の機能もすべてひっくるめたもので、その点では「指示」と訳すのはあまりよくないのだが、外延主義的な前提があるわけなので（この点はラッセルと同様だが、グッドマンは述語や記述の働きを単純に固有名の働きと同種のものとして考える）、「指示」と訳すこと自体に大きな問題があるとは思えない。ついでに言えば、グッドマンの"refer to"の用法はかなり異常であり、むしろこちらを「指示」と訳すことのほうに問題があると思う。とはいえ、訳語選択が最高にミスリーディングであることに変わりはないので、このへんの事情はどこかに書いておいたほうがいいかもしれない。</p>
</li>
<li>
<p>"key"という語が使われている理由やそのニュアンスはよくわからないが（関係データベースの「キー」と同じ用法なのかどうなのか）、ようするに、モデルが例示している性質のどれが、ターゲットシステムに帰属される性質のどれに対応しているかを決める何らかのメカニズムが"key"と呼ばれている。</p>
<p><b>追記（2024.01.08）：</b>"key"という考え方と用語は、地図から来ているようだ（Frigg and Nguyen, <i>Modelling Nature</i>, 175）。たとえば、縮尺25,000分の1の地図は、それが例化かつ例示している地図上の2点間の距離を25,000倍した距離をターゲットに帰属する。地図の凡例が示すもの（地図上のアイテムや特徴と地理的特徴の対応規則）を"map key"とか"key on a map"と言うらしい。関係データベースは関係なかった。</p>
</li>
<li>
<p>ここでの"impute"に術語としての用法や定訳があるかどうかわからない。「代入」は文脈に沿わないので「帰属」にしてあるが、〈仮にこれこれだということにしておく〉くらいのニュアンスだと思われる。</p>
<p><b>追記（2024.01.08）：</b>"impute"はエルギンが使っている用語のようで、FriggとNguyenはそれが"ascribe"と交換可能な語である（あるいは少なくとも前者が後者で分析できる）ことを明示的に書いている（Frigg and Nguyen, <i>Modelling Nature</i>, 149, 179）。なので"imputation"は「帰属」と訳しておいてとくに問題ないだろう。</p>
</li>
<li>
<p>書誌情報：Roman Frigg and James Nguyen, <i>Modelling Nature: An Opinionated Introduction to Scientific Representation</i> (Cham: Springer, 2020). <a href="https://doi.org/10.1007/978-3-030-45153-0" target="_blank">https://doi.org/10.1007/978-3-030-45153-0</a>.</p>
</li>
</ul>
</section>
<aside id="related_page">//9bit.99ing.net/Entry/76/</aside>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/114/</link>
    <pubDate>Sat, 06 Jan 2024 12:51:38 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/114</guid>
  </item>
    <item>
    <title>『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について</title>
    <description>
    <![CDATA[<div class="image_box_transparent margin" style="height: 30rem;"><img style="width: 100%; height: 100%; object-fit: cover;" src="https://9bit.99ing.net/File/space_solar_system.png" /></div>
<p>murashitさんによる以下の『ビデオゲームの美学』紹介記事への反応です。</p>
<ul>
<li><a href="https://murashit.hateblo.jp/entry/2023/12/23/141545" target="_blank">わたしたちが『ビデオゲームの美学』を読むこと - 青色3号</a></li>
</ul>
<p><a href="https://twitter.com/zmzizm/status/1739298078887428219" target="_blank">Twitterで書いたように</a>、書評も含めてこれまで見たものの中でもっとも正確かつ詳細に、それも著者の意図を十分に汲みつつ、当の本をまとめている文章だと思う。大変ありがたいです。</p>
<p>記事の最後で第12章の「シミュレーション」についていまいちわからない点があるという指摘がされている。自分でもきちんと書けていなかったところだという自覚があるので、こういうつもりで書いたというのを少し補足しておきたい。正直あまり自信がないので、補足を踏まえてもやっぱりちょっとおかしいんじゃないかというつっこみはあるかもしれない。</p>
<h2>前提</h2>
<p>murashitさんの記事を読めばポイントはおおむねわかるが、あらためて第12章の前半で「シミュレーション」がどんな概念として導入され、特徴づけられているか、それについてどんなことが書かれているかを必要な範囲でまとめておく。</p>
<ul>
<li>シミュレーションは表象の一種である。</li>
<li>シミュレーションを一言で定義するとすれば、動的システムによる挙動（のルール）のモデル化である。</li>
<li>シミュレーションにおけるモデル化の対象を「対象システム」、それをモデル化する動的システムを「モデル」と呼んでおく。</li>
<li>モデル化とは、部分的な類似による表象である。</li>
<li>ここで「部分的な類似による表象」とは、記号の持つ性質の一部が、内容として抽出されることを意味する。ようするにモデル化では、記号の特徴の一部がそのまま表象内容になる（抽出されるのが構造的な特徴の場合は、準同型的表象になる）。</li>
<li>シミュレーションにおける記号は動的システムなので、その内容も動的に（しばしば作り手が予想しないようなあり方で）変化する。</li>
<li>対象システムが実在物である必要はない。</li>
<li>シミュレーションは、現実的表象であることもフィクションであることもある。それは表象内容をどう使うかによる。</li>
<li>ある種のビデオゲーム作品は、ゲームメカニクスをモデルとして虚構世界上の何かの挙動をモデル化しているという意味で、フィクションであるタイプのシミュレーションである。</li>
</ul>
<h2>疑問</h2>
<p>murashitさんの記事から引用：</p>
<blockquote>
<p>まず、モデルの挙動によって対象（の挙動）についての知識が引き出されるのはそのとおりだとおもう。それが、「表象内容」があらかじめ定まっておらずその都度生成されるからというのもたしかにそうだとおもうのだが、とはいえこのようにいうと、このモデル化という表象における「対象システム」ってのはなんなのかよくわからなくなってくる。</p>
<p>対象システムを表象するモデルを作り、そのモデルが改めて「表象内容」を表象する、みたいなのが想定されていて、ここの前者の表象と後者の表象は別って理解でいいのだろうか？（自分のシミュレーションに対する直観としてはそういうことになってるような気がするが、本章序盤の話からするとズレてるような気もする）</p>
<p>あるいは、対象システムの一定の特徴（挙動のルール）をとりだしてモデルをつくっている（この時点で対象システムと表象内容がズレる）ので、その記号としてのモデルの挙動は対象システムとは重ならない（シミュレーションというのはたしかにそういうものだ）ということ？ でもそれだと「対象システムを表象する」という言い方はおそらくできない。</p>
<p>3節末の以下のまとめをみれば、たしかに対象システムと表象内容を区別している。</p>
</blockquote>
<p>疑問のポイントは、〈「モデルによって表象される対象システム」と「モデルの表象内容」がどうも区別されているらしいものの、それはどういう区別なのか、また仮にそうだとすると「表象」が2つある（「対象を表象する」と「内容を表象する」の2つがある）ということにならないか〉ということかと思われる。本をちゃんと読み返したわけではないが、おそらく自分でもあまり整理した書き方ができておらず、無用の混乱を引き起こすような文章になっているのだろうと思う。あるいは、ただ文章が悪いだけではなく、根本的なところで議論に何か難がある可能性もある。</p>
<p>以下、どういう脳内理解のもとで書いたかを説明する。</p>
<h2>説明</h2>
<p>基本的な考え方として、言語哲学で言うところの指示と述定の働きに近いものが、ここでは想定されている（本文ではまったく言及していないが）。シミュレーションにおける指示のターゲットが「対象システム」であり、それに述定されるものが「モデルの表象内容」である。</p>
<p>指示と述定とはどういうことか。文を例にすれば、たとえば「土星は太陽系の惑星である」という文では、指示対象である土星に「は太陽系の惑星である」という述語の内容（性質であれ集合であれなんであれ）が述定されている。あるいは、述語「は太陽系の惑星である」が表す命題関数に土星が適用されていると言ってもよい。指示対象が実際に備える性質や分類を述語がきちんと言い当てていれば、その文は真だとか正確だということになる。</p>
<p>シミュレーションにもこれと似た関係がある。太陽系を何か動く模型でシミュレートすることを考えよう（物理的な模型でなくコンピュータプログラムを使ってもいいし、惑星役の人を何人か決めて一定のルールのもとに太陽役の人の周りをぐるぐる回るという人力モデルでもよい）。その模型＝モデルは、実際の太陽系を指示している。つまり、太陽系についての（about）表象になっている。一方で、そのモデルは、それ自体が持つ諸特徴とふるまい（いくつの要素を含んでいるか、それぞれの要素はどのように配置されているか、それぞれの要素はどのように動くか、その挙動の背後にどのような法則性があるか、etc.）を、当の指示対象に述定される内容として表してもいる（「表している」が不自然であれば「体現している」や「例示している」と言い換えてもよい<span class="note"></span>）。ようするに、「太陽系ってこんなだよ」の「こんな」の部分を、そのモデル自体の性質が担っている。</p>
<p>もちろん、モデルが持つ性質のすべてが述定の内容になるわけではない。たとえば、模型の絶対的なサイズは、通常の解釈では「太陽系ってこんなだよ」の「こんな」にはとくに含まれないだろう（相対的なサイズは、各惑星の大きさの差を十分気にしている模型なら述定の内容になるかもしれない）。それは別の見方をすれば、モデルの表象内容の真偽や正確不正確を評価する際に、対象システムが持つすべての側面がその内容と比較されるわけではないということでもある<span class="note"></span>。</p>
<p>というわけでまとめると、モデルの表象内容と対象システムはたしかに区別されている。しかし、2つの（2種類の）表象があるという話ではなく、ひとつの文が指示と述定の働きを持つのと同じように、ひとつのモデルが対象システムを指示しつつ、表象内容をそれに述定するという働きを持つということである。モデルの表象内容は当のモデルが持つ性質の一部（あるいは一側面）であり、そしてそれが対象システムの（実際の、あるいは虚構的にそうだとみなされている）あり方と比較されることで、真偽や正確さといった評価がなされる。これが『ビデ美』第12章の前半で言おうとしていたことである。</p>
<h2>余談：用語法上のよくない点</h2>
<p>議論の中身とは別に、言葉遣いの上でミスリーディングな点が少なくとも2つあると思われる。</p>
<p>1つめ。ある種の文脈では、「モデル」は意味論上の措定物として言われるのが普通である（たとえば形式意味論などを想定すればわかりやすい）。一方、『ビデ美』における「モデル」は、シミュレーションという表象において記号としての役割を果たすものとされている。もちろん、意味論上の措定物としてのモデルも現実そのものではないし、『ビデ美』のモデルも結局は別の記号（グラフィックなど）によって表されるものなので両者の用語法にそこまで距離があるわけではないが、どちらかというと『ビデ美』における「モデルの表象内容」のほうを「モデル」と呼んだほうが本来自然かもしれない。このあたりは書いていた当時はちゃんと考えていなかった。</p>
<p>2つめ。これはmurashitさんが指摘していることだが、「表象」という語をけっこういいかげんに使っているところがある。</p>
<blockquote>
<p>ここで、「シミュレーション」を虚構的な対象に適用することの妥当性についても軽く検討されている。結論からいえば、モデル化という概念には対象が実在しているという限定はないのだから、とくに問題ないということになる。&hellip;&hellip;それはいいのだが、この節の後半の話がどうもむずかしい。たとえば下記。</p>
<p class="quote_indent">モデルは表象内容を持つ。その内容を使って虚構世界が想像される場合には、そのモデルはフィクションであり、その内容を使って現実について何かが主張される場合には、そのモデルは真偽の判定が可能な現実的表象である。</p>
<p>言いたいことはわかる気がするんだけど、前掲の用語法にしたがえばモデルはモデル化に使われるシステムであって表象という関係項ではなかったはずで、フィクションや現実的表象であるというのはなんかおかしくないだろうか。「そのモデル化は」なら意味が通るのでそういうこと？ それともなにか勘違いしている？</p>
</blockquote>
<p>『ビデ美』では「表象」は記号と内容の関係を指す用語として導入されているはずだが、ここではモデルが現実的表象であると言われていて、なんかおかしいんじゃないか、という指摘だと思われる。これは適切な指摘で、「モデルは現実的表象の働きを持っている」とか「モデルは現実的表象の記号として使われている」と書いたほうが正確だっただろう。</p>
<p>正直なところ、「フィクション」の対立語としてどの語を使うかは少し悩んだところで、「ノンフィクション」を使うのはいくつかの意味で気が引けるので結果的に「現実的表象」を採用したのだが、「フィクション」が記号（の集まり）に与えられる役割や機能や身分を指すのに対して、「現実的表象」が何を指すのかがいまいちはっきりしないという問題が生じてしまったのだと思う。</p>
<p>こういうのは用語を厳密に運用すればするほど文章がゴテゴテして読みづらくなりがちなので、ほどほどのいいかげんさで済ますということをわりとやってしまうのだが、厳密に読む読者相手だとそういう不徹底は容易に見抜かれるのがわかってよかった。逆に言えば、そうした厳密な読みに応えうるような文章だという想定のもとに読んでいただいているわけで、それはそれで大変ありがたいことだなと思う。</p>
<p>おわり。</p>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p>ちゃんと考えているわけではないが、モデルとその内容の関係は、類似による表象というよりはグッドマン的な意味での例示（exemplification）として考えるとすっきりするのではないかと思っている。<a href="https://twitter.com/deinotaton/status/1540648833830440960" target="_blank">難波さんのツイートとそれへのリプライ</a>を参照。</p>
</li>
<li>
<p>いま書いていて思ったが、記号・内容・対象の3項があったときに、「抽出」や「部分的な類似」は、記号の特徴と内容のあいだにも言えるし、内容と対象の特徴のあいだにも言える。ワイスバーグらが問題にしているのは後者かもしれない。これは区別すべき事柄だが、『ビデ美』ではその点がごっちゃになっているせいで議論がおかしくなっている可能性がある。murashitさんの疑問の根っこもそこにあるのかもしれない。</p>
</li>
</ul>
</section>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/113/</link>
    <pubDate>Wed, 27 Dec 2023 13:12:06 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/113</guid>
  </item>
    <item>
    <title>井奥『近代美学入門』の感想</title>
    <description>
    <![CDATA[<div class="item_link_recommend">
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480075844/zmz-22" target="_blank"> <img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4480075844.jpg" /> <span>井奥陽子『近代美学入門』筑摩書房、2023年</span></a></div>
</div>
<p>ご恵投いただいたもの。いい本なので宣伝も兼ねてレビューする。</p>
<h2>全体の感想</h2>
<p>本当の初学者（たとえば学部一年生）でも十分に理解できる程度の易しさで書かれている。構成がわかりやすく、言葉づかいや文体もするっと読めて、それでいて重要なポイントがどこかがはっきりわかるようになっている。出てくる例もわかりやすい。</p>
<p>概して帯文はオーバーだったり嘘をついていたりするものだが、この本の「<b>難しいと思っていた美学が、よくわかる</b>」は偽りのない宣伝文句だと思う。</p>
<p>本書には、「読者はこういう理解をしているかもしれないけど、そうじゃなくてこうだよ」というかたちで、想定される誤読をあらかじめていねいに防いでいる箇所がけっこう多い。これはたとえば佐々木『美学への招待』などと比べたときの、本書の際立った美点のように思う。</p>
<p>美学（あるいは哲学全般）は、問題意識や議論の内容が初学者にとってなかなか理解しづらいらしく、結果としてテキストに書いていないことを読者のほうで勝手に読み込んでしまうタイプの誤読が生じることが少なくない印象があるのだが（これは自分の経験として日々感じていることである）、その点本書では、ていねいな誘導によってその種の誤読をかなり避けられるような工夫がなされている。この工夫は、今後自分が入門的な文章を書く際や授業をする際にも参考になりそう。</p>
<h2>類書との比較</h2>
<p>オーソドックスな美学や美学史について概説した入門書のうち、このレベルの難易度設定のものだと、おそらく他には佐々木『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121917413/zmz-22" target="_blank">美学への招待</a>』くらいしかない。小田部『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4130120581/zmz-22" target="_blank">西洋美学史</a>』や佐々木『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4130802003/zmz-22" target="_blank">美学辞典</a>』ははるかに難しいし、源河『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121027132/zmz-22" target="_blank">「美味しい」とは何か</a>』は難易度は近いが内容の方向がだいぶ違う。</p>
<p>『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480075844/zmz-22" target="_blank">近代美学入門</a>』は、『美学への招待』と比べても読みやすい文体だし（一文一文が短くすっきりしており、年寄りくさいだらだらした文章になっていない）、話の流れもポイントもわかりやすい。</p>
<p>加えて、あくまで「近代の」美学をメインに紹介しますという一貫したコンセプトによって、たとえば現代アートがどうのアートの制度がどうのみたいな美学の入門にとってノイズになりがちな論点<span class="note">*</span>をはじめからある程度除外している点も、おそらくわかりやすさに寄与している。これは、近代美学の入門書としてだけでなく、美学の入門書としてもいいことだと思う。「芸術」や「美的」や「趣味」や「天才」といった美学のコアにある（そしていまだに民間美学では幅を利かせている）conceptionsは、結局のところ、その成立期である18世紀前後に出揃うわけなので。</p>
<p>そういうわけで、本書はとりあえず初学者に一番最初にすすめられる美学入門書の新しいスタンダードになるのではないか。</p>
<h2>各章のポイントといいところ</h2>
<p>以下、各章のレビューを簡単に書いておく。この記事自体、美学でどういう論点が扱われているかを部分的に紹介できればいいという意図で書いているので、本書の内容に加えてそれを補足する記述も含めている。</p>
<h3>第1章 芸術</h3>
<p>「芸術」という括り（カテゴリー）がどのようにして成立してきたかを主に説明している章。</p>
<p>このトピックが論じられる場合、言葉の問題に注意が向けられることが多いのだが（「アート」の語源はラテン語の「アルス」で、それはギリシア語の「テクネー」から来ていて～という例のやつ）、本書は、あくまでグルーピング（カテゴライゼーション）の変遷という観点から、近代的な芸術概念の成立史を整理している点が非常によい。具体的には、古代ギリシアにおける模倣（ミメーシス）の技術という括り、中世におけるリベラルアーツとメカニカルアーツの区別、メカニカルアーツの中での三造形芸術（建築・彫刻・絵画）の地位向上と新旧論争を経て、「美しい諸技術（ボザール）」という近代的な括りの成立へという、教科書的な内容が書かれている。</p>
<p>これらは基本的にはクリステラーによる古典的な議論に沿った説明だと思うが、その定説に対する最近の異論（＋その異論についての著者のコメント）を含めている点もとてもよいと思う。</p>
<p>概念史に加えて、現代的な芸術定義論（分析美学でなされてきたようなプロフェッショナルな定義論というよりは、民間美学でさかんになされる素朴な「～は芸術である／でない」言説のほう）とどう付き合うかについても多少言及されている。いいパラグラフがあったので引用しておく。</p>
<blockquote>
<p>ちなみに私は和菓子が芸術かどうか決定したいわけではありません。「～は芸術か／芸術である／芸術でない」ということが人々のあいだで実際によく語られる以上は、芸術の可能性を狭めないようにしながら思考を整理することが、美学に携わる者の務めだと考えています。そしてその整理のために、近代的な芸術の概念はひとつの目安として有効だと思います。（p. 72）</p>
</blockquote>
<h3>第2章 芸術家</h3>
<p>アーティスト（その能力や行為）に帰属されることの多い美学的な諸概念（天才、オリジナリティ、クリエイティビティ、インスピレーション、自己表現、etc.）の成立史を主に取り上げている章。最後の節で、意図論争や「作者の死」を含む作品解釈をめぐる議論が少し紹介されている。</p>
<p>自分があまり勉強していないトピックが多い章なので正確なレビューができないが、おおよそ他の文献で読んだことのある内容がわかりやすくまとめられているので、スタンダードな教科書的説明と考えて問題ないと思う。とりわけ、現代における典型的な「アーティスト」像が近代に構築されたものだというのは、少なからぬ人がはっとさせられる話ではないかと思われる<span class="note">*</span>。</p>
<p>美学にはじめて触れる人にとってとくに知っておくべき重要なポイントは、新旧論争でも問題になっていたような自然科学と芸術の違いが、「天才」の種類の違いとして（ようするに使われる能力の違いとして）語られるようになったという部分かもしれない。この論点は、その「技」が理論化・規則化できるかどうかも含めて、第3章の美の特徴づけの話にもつながるもので、美学という分野のもっとも根本にあるconceptionだと言っていいだろう。カントの見解を紹介している箇所を引用しておく。</p>
<blockquote>
<p>近代美学の古典『判断力批判』（1790）のなかで、彼〔カント〕は次のように言います。自然科学の天才は、ニュートンが『プリンキピア』（1687）を執筆したように、自分の発見を理論にできる。それによって他の人も学べるのだから、ニュートンと弟子には程度の差があるにすぎない。しかし芸術ではそうはいかない。それゆえ芸術家こそ天才と呼ばれるにふさわしい、と。（p. 100）</p>
</blockquote>
<p>あとエイブラムズ『鏡とランプ』がわりとしっかり紹介されていてよかった。</p>
<h3>第3章 美</h3>
<p>美は主観的か客観的か、規則化可能か規則化不可能か、といった美学の根幹にある論点を取り上げる章。美を感じる能力としての趣味（センス）の話は当然言及されるが、加えていわゆる「美の自律性」（自己目的性）の話もこの章で扱われている。</p>
<p>他の章と同じく、どちらの立場が正しいかを論じるかのではなく、それぞれの見解（あるいはその中間の見解）が歴史的にどのように形成されてきたかの言説史を追うという構成になっている。かなりわかりやすく書かれており<span class="note">*</span>、話題としても面白いので、個人的に一番おすすめの章。</p>
<p>前半は「客観主義」と呼びうる立場がいろいろ紹介され、ピュタゴラス主義に代表されるようなプロポーション理論の説明（美はいい感じに釣り合った比率によって決まる）、「多様の統一」概念の説明（要素がたくさんあって複雑だが、全体としてはまとまりがあるのが美）、プロポーション理論が人体の美を範例として考えられていたことの説明、黄金比と美の関係の歴史についてのちょっとしたコメント、といった内容になっている。</p>
<p>後半は、大まかには「主観主義」と呼びうる立場が近代になって登場してきた（そしてそれが現代にも受け継がれている）という内容。まず、主観主義への傾きを後押しした同時代的な状況として、科学革命とイギリス経験論の勃興が挙げられ<span class="note">*</span>、経験論者（具体的にはバークとヒューム）による美についての議論が紹介される。</p>
<p>ヒュームのうちにすでに客観主義的な成分（正確には、美の根拠は対象のうち<b>にも</b>あるという譲歩）が含まれていることを確認したのちに、それを引き継いで主観主義と客観主義の「調停」をした論者（そしてその後の近代美学を方向づけた論者）としてカントの議論が紹介される<span class="note">*</span>。</p>
<p>このへんは教科書的な内容ながら初学者にとっては相当難しい話だと思われるが、具体例も含めてかなりわかりやすく書かれている。美は主観主義と客観主義のはざまにあるという考えがなぜ一定の説得力を持つのかを示す具体例を出している部分を引用しておく。</p>
<blockquote>
<p>普段の生活のなかで、あるものについて美しいかどうか、論争とまでは言わなくても会話したくなるときがあると思います。</p>
<p>誰かと一緒に美術館や映画館に行ったあと、感想を話していて意見が食い違ったとき、相手が自分の感じ方に最終的には共感してくれることを期待しませんか。また、夕陽に染まる空に思わず見惚れたときなどに、その場にいる他の人々も同じように感じることを前提に「きれいですね」と言い合うことがありませんか。そうしたときには「きっと昔の人も同じように空を見上げたはずだ」とさえ思うかもしれません。</p>
<p>こうした言動はすべて虚しいことなのでしょうか。美は徹底して孤独なものなのでしょうか。カントを読めば、これに対してひとつの答え方を知ることができます〔&hellip;&hellip;〕。（p. 171）</p>
</blockquote>
<p>美学という研究分野が独立して存在するひとつの理由は、まさに美（美的なもの）が備えるこの独特の特徴<span class="double">―</span>主観的に感じるものでありながら、他人との共有ができる（少なくともそれができると期待される）という特徴<span class="double">―</span>にあると言ってよいと思う<span class="note">*</span>。</p>
<h3>第4章 崇高</h3>
<p>美とは異なるタイプの美的性質としての崇高が取り上げられる章。初学者にとって「崇高」とか言われてもそれだけではぴんとこないと思うが、具体例がいろいろ出されて、こういうのが美学で問題にされてきた崇高という感情（感じ）ですよ、という説明が十分になされている。</p>
<p>ある種のこわさ、畏怖、理解のできなさといった（通常は）ネガティブな気持ちと、すごさ、すばらしさ、偉大さといったポジティブな気持ちがないまぜになっているのが崇高というものだが、そういうある種の「美的な感じ」が近代ヨーロッパにおいてどのように自覚され、そしてそれが自然（たとえば山）や廃墟を美的に鑑賞するという同時代の文化的実践とどのように結びついていたかという文化史的な側面が主に扱われる。ここらへんはまともに勉強していないので、なるほど勉強になりますという気持ちで読んだ。</p>
<p>そのうえで、バークやカントによる崇高の特徴づけ（美との対比も含め）が紹介されている。私が崇高の話が苦手というのもあるかもしれないが、そもそもの議論の内容の難しさもあって、ここの記述はやはりちょっと難しく思える（とくにカントの議論）。</p>
<p>この章と次の章は全体的に具体例と図版が豊富で、その点で楽しめるところは多いかもしれない。</p>
<h3>第5章 ピクチャレスク</h3>
<p>崇高に続き、美とは異なる近代的な美的カテゴリーとして、ピクチャレスクが取り上げられる章。5章のうちの1章をまるまるピクチャレスクに割くのは、美学の入門書としてはけっこう特色のあることだと思う。</p>
<p>この本全体を通じて意識的に採用されているスタイルなのだと思うが、この章でも、同時代的な文化的実践（具体的には、風景画というジャンル、旅行、造園など）と関係づけながら、ピクチャレスクという概念の成立史がたどられている。</p>
<p>導入部分では、「絵になる」や「フォトジェニック」といった自然に対して適用されがちな現代の美的述語がまず取り上げられ、ピクチャレスクもそれに近いが多少違う概念であることが説明される。ピクチャレスクもまた、崇高と同じように、自然を美的に鑑賞する実践と密接に結びついた概念だが、崇高と違って、こわさとか無秩序さの側面に注目するのではなく、むしろ穏やかさや調和に注目する点では美に近い質だとされる。</p>
<p>私はピクチャレスクへの関心はあまりないのだが、個別の美的性質の特徴を取り上げる際の論じ方としてピクチャレスクについての議論が参考になる面が少なからずある。近代に比べれば、現代では個別の美的性質（とそれを指す美的述語）が圧倒的に多様化している（そしてそれがパターン化・概念化されたかたちで整理されることもしばしばある）<span class="note">*</span>。そのそれぞれをどのように特徴づけ、美学的な議論の対象にすることができるか（あるいはできないか）ということを考えるときに、ピクチャレスクについての議論はいろいろと役立つかもしれない。</p>
<p>最後に、自然と芸術の関係について、古典的な考え方に見られるような自然を芸術が模倣するという方向だけでなく、芸術（風景画）が自然の見方を左右するという方向もあるという話題が取り上げられている。本書では詳しく取り上げられていないものの、これもまた美学史上繰り返される論点のひとつであり、たとえば<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4766422244/zmz-22" target="_blank">グッドマン</a>も有名なオスカー・ワイルドの警句（とされるもの）<span class="note">*</span>を引きながらそういうことを論じている。</p>
<div class="item_link_recommend">
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480075844/zmz-22" target="_blank"> <img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4480075844.jpg" /> <span>井奥陽子『近代美学入門』筑摩書房、2023年</span></a></div>
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121917413/zmz-22" target="_blank"> <img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4121917413.jpg" /> <span>佐々木健一『美学への招待』増補版、中央公論新社、2019年</span></a></div>
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121027132/zmz-22" target="_blank"> <img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4121027132.jpg" /> <span>源河亨『「美味しい」とは何か』中央公論新社、2022年</span></a></div>
</div>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p>「ノイズになりがち」というのは別に現代アートをディスっているわけではなく、スタンダードな美学を知るうえであまり関係のない話になりがちということ。もちろん、それを「スタンダード」と見なすことに対する批判はあってしかるべきだが、入門の段階でそんな話をされても読者はこんがらがるだけである。これは「哲学入門」と称していきなりポストモダンから入るみたいなやり方が、教育としてろくに機能しないというのに近い（これも何が「よい教育」かについての考え方次第で異論はありえるだろうが）。加えて、『近代美学入門』では、近代美学の権威性とそれを批判的に見ることの重要性についても、それなりに配慮のある記述がなされている（その点についての記述が十分だとは思わないが、それは他の文献で読んだり、自分で考えればいいことである）。</p>
</li>
<li>
<p>そういう思想上の変化の背後には、明らかに啓蒙主義（神概念に担わせる役割を相対的に低下させつつ、人間の諸能力およびその涵養可能性／不可能性を関心の中心にすえる思想）の潮流があるはずだが、そして当然著者はそのことについても十分に了解しているはずだが、本書にはそのへんについての踏み込んだ記述はない。入門書としての性格上そうなるのは仕方ないものの、美学に関連するconceptionsの重要な特徴はこの点を深掘りすることで見えてくる面が少なくないだろう。</p>
</li>
<li>
<p>著者自身は、あくまで「大きな流れを図式的に説明」するという言い方で、そのわかりやすさによって正確さが多少犠牲になっていることに十分注意を促している。このトレードオフは入門書や概説を書くときには避けられないものなので、とくに本書にとってのマイナス面になることはないだろうが、読者がわかりやすい図式に引きずられないようにあらかじめ釘を刺しておくというのは必要な工夫だと思う。</p>
</li>
<li>
<p>ここで、客観主義的な美の理論に疑いが持たれ始めたことと、17世紀の科学革命（とくに天文学上の新知見）を関係づける記述があるのが興味深い。たとえば、天体運行の観測および理論化の進展によって、惑星の軌道が真円ではなく楕円であることなどがわかった結果、従来の幾何学ベースの宇宙観が否定され、それに同期するかたちで美についての思想も決定的に変化したというストーリーだ。そんなに単純化していいものなのかどうかはわからないが、大きく見ればイギリス経験論も17世紀科学革命に同調する思想的動向の一部と言えなくはないので、その意味では科学革命と客観主義の否定を結びつけることはそれほど不自然ではないかもしれない。</p>
</li>
<li>
<p>流れ的にうまくはまらなくて削ったのだろうと推測するが、著者の専門である<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/476642655X/zmz-22" target="_blank">バウムガルテン</a>まわりの話がここらへんでまったく登場しないのがちょっと面白い。</p>
</li>
<li>
<p>この論点をめぐる現代美学の状況が知りたければ、ひとまず源河『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121027132/zmz-22" target="_blank">「美味しい」とは何か</a>』がおすすめ。</p>
</li>
<li>
<p>具体的には、たとえば<a href="https://aesthetics.fandom.com/wiki/List_of_Aesthetics" target="_blank">Aesthetic Wiki</a>のリストに挙げられている大量のaestheticは、そのそれぞれがピクチャレスクと同列に並べられるものだろう。それらの個別の美的性質を取り上げて何かを論じることにどんな美学的な意義がありえるのか（あるとしてどの程度まであるのか）は、正直よくわからない。個々のaestheticの歴史的な変遷や成立過程の話なら（少なくともそのaestheticに関心がある人にとっては）それなりに論じる意義のあることだとは思うが。</p>
</li>
<li>
<p>「芸術が人生を模倣するのではない、人生が芸術を模倣するのだ」というやつ。私自身もわりとこの立場に同意している（正確に言うと、芸術が備えるそういう側面に無頓着な人が多くてうんざりしているので、意識的に必要以上に強調するようにしている）。</p>
</li>
</ul>
</section>]]>
    </description>
    <category>美学・芸術の哲学</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/112/</link>
    <pubDate>Sun, 08 Oct 2023 05:11:06 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/112</guid>
  </item>
    <item>
    <title>上野「ゲームにおける自由について」の感想</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>今月に出たらしい以下の論文を読んだ。</p>
<ul>
<li>上野悠「ゲームにおける自由について：行為の創造者としてのプレイヤー」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』68号、2023年 <a href="https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2023/03/UENO-Yu_0615-0631.pdf" target="_blank">https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2023/03/UENO-Yu_0615-0631.pdf</a></li>
</ul>
<p><a href="https://twitter.com/zmzizm/status/1638812125476048897" target="_blank">Twitterでも少し感想を書いた</a>が、他にも気になったことが複数あるのでブログでまとめておく。</p>
<p>トータルの評価としては、主張の説得力、先行研究のまとめの的確さ、得られる示唆の多さといった点で優れた論文だと思う。その一方で、論点の整理と議論の運び方の点で不十分・不明瞭ではないかと思える点が複数ある。一言でいえば、論文全体として何を問題にしているのかがわかりづらく、節ごとに論点が散らかっているように見える。そのへんを中心に長めにコメントする（このブログ記事自体も論点が散らかっているかもしれない）。</p>
<h2>遊戯論の「自由」との関係について</h2>
<p>伝統的な遊戯論の中で遊びやゲームの特徴のひとつとして挙げられる場合の「自由」は、基本的には参加の自由のことである。おそらく「自発性」「非‐被強制性」「非義務性」などと言い換えたほうがポイントがわかりやすい。ホイジンガが遊びの「形式的特徴」のうちの第1特徴として挙げている「自由」もこの意味だし、カイヨワの定義論における第1項の「自由」もこの意味である<span class="note">*</span>。</p>
<p>ホイジンガ自身も少し言及しているように、この意味での「自由」は、ゲームのルールが一般に持つ強制力（それもかなり強力な強制力）と一見相反するように見えるかもしれない（少し考えればとくに相反するものではないことがわかるし、「弁証法」的なプロセスがつねに起きるわけでもないと思うが）。上野論文の前半で言及されるデ・ムルや吉田が「自由」およびその対立項としての「規則」という語で何を問題にしているのかはあまりはっきりしないものの、おそらく、このぱっと見の食い合わせの悪さをどう整合的に説明できるか、あるいは「ルールにもとづく自由」あるいは「ルールの範囲内での自由」というゲームが一般に持つ特徴をどのように理解し、そこからさらなる考察を進められるか、といった問題設定のもとで議論を展開しているのだと思われる。</p>
<p>おそらくこの論点についてスマートな解決を与えている論者は、バーナード・スーツだろう。有名な&ldquo;lusory attitude&rdquo;という概念<span class="note">*</span>は、ゲームルール（そのゲームの参加者に対して強力な強制力を持つもの）の受け入れが自発的になされることを、ある種の独特な心的態度としてとらえるものだ。ようするに、ゲームにおいて、ルールそのものは（それが受け入れられているかぎりで）強制的だが、そのルールを受け入れるかどうかは自由になるということだ。スーツは、この心的態度をゲームをプレイすることの定義的特徴のうちに組み込んでいる。</p>
<p>&ldquo;lusory attitude&rdquo;の概念は、一般にゲームのルールが道徳的価値や日常的な有用性のもとで評価するかぎりは非合理的なものである（言い換えれば、当のゲームの外では何の意義もなければ何の役にも立たない）という常識的な事実をうまく説明している。これは、スーツが他の論文で明示的にその語を使っているように、ゲームが一般に持つ「自己目的性」を説明する概念だと言い換えてもいいだろう<span class="note">*</span>。</p>
<p>ここまでは教科書的な話である。上野論文で最初で引っかかったのは、そこで論じられる「自由」が上記の意味での「自由」とは別の話題に見える点だ。そうなっている理由のひとつは、デ・ムルや吉田の問題設定（およびそのもとでの「自由」という語の用法）を引き継いでいるからだと思われる。著者によれば、デ・ムルや吉田が論じている「自由」は、〈<b>①規則からの逸脱やその転覆</b>〉としての「自由」や、〈<b>②ゲームメカニクスを自分のものにしていると感じる経験</b>〉としての「自由」だということだが、いずれの「自由」も上記の「自由」とは明らかに意味が違う。</p>
<p>著者も適切に接続しているように、①はシカールによる「流用」の議論に直結するものであり、その意味で伝統的な遊戯論の「自由」についての議論との接点は多少あるかもしれないが（とはいえ「自己目的性」と「流用」は別概念だし、どちらかがもう一方を含意する関係でもないが）、②はまるで関係のない話だと思う。②はむしろ、ゲームをプレイしているときの「自在さ」あるいは&rdquo;mastering&rdquo;といった言い方で記述できるような一人称的経験の話だろう。その点で、②はチクセントミハイの「フロー」により近い話題だと言ってもいいかもしれない。</p>
<p>もちろん、自己目的性や自発性に関わる意味での「自由」を問題にしているのではないことは著者も承知の上だろうが、であれば、論文冒頭の「遊びやゲームをめぐる議論において〔&hellip;〕おそらく多くの場合は、遊びの本性が自由概念と密接な関わりがあると考えられている一方で、ゲームはむしろルール（規則）があることによって可能になるものであると考えられていることが焦点となっている」といった書き出し<span class="note">*</span>はミスリーディングだろう。遊戯論で問題にされてきた意味での「自由」は、この論文内でまったく扱われていないように思えるからだ。</p>
<p>そういうわけで、「この論文では「自由」という言葉を取り上げるものの、その語のもとで従来論じられてきたのとは全然別の話をします」と明確に書いてくれたほうがわかりやすい（これは吉田の議論にも言える）。</p>
<h2>「自由」という語に焦点をあわせることについて</h2>
<p>著者は、ゲームにおける「自由」についてのさらに別の理解として、オープンワールドジャンルのビデオゲーム作品についてのライターの文章を持ち出している。そこで問題にされているのは、乱暴に単純化すれば、ひとつは〈<b>③あるゲーム（のある場面）におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ</b>〉としての「自由」であり、もうひとつは〈<b>④ゲーム上の事柄を自分事として（あるいは自分の行為に「意味」を与えるものとして）感じられること</b>〉としての「自由」である。③は俗に「自由度」と呼ばれるものであり、④は俗に「没入」や「感情移入」（英語であれば&ldquo;identification&rdquo;や&ldquo;agency&rdquo;や場合によっては&ldquo;ownership&rdquo;）と呼ばれるものだと思われる。やはりいずれも、上に挙げた遊戯論における「自由」とは直接には関係のない話だ（④は②には関係するかもしれない）。</p>
<p>著者は論文の冒頭で「自由度が高い／低い」という言葉づかいに言及しつつ、それがゲームにおける「自由」を考える際の参考材料のひとつになりえるかのように書いているが、③を指す用語としての「自由度」は日本ローカルなスラングであって、英語その他の言語でそのような表現をすることは（少なくとも確立した用語法としては）ないと思う。むしろ&ldquo;immersive&rdquo;という語が（④のニュアンス込みで）③に結びつけられることのほうが多いかもしれない（それはそれで変な用語法だとは思うが）。</p>
<p>ようするに、〈プレイヤーに与えられる選択肢の幅の広さ〉という概念と「自由」という語は、たまたま日本語の俗語において結びついているだけで、そこにとくに深堀りすべき論点はないだろうということだ。無用の混乱を少なくしたいなら、ゲームや遊びにおける何らかの重要な意味での「自由」の話と、俗語の「自由度」の話は、基本的に混ぜないほうがいいだろう。</p>
<p>また、「自由」という語で④の経験を指し示すのは、かなりの突飛さを感じる。引用されているライターの渡邉卓也が「自由／不自由」という語を使って④について論じているのは事実そうなのだろうが、引用者には、その用語法がまともに引き受けるべきものなのかどうか（ひいてはその用語法のもとで論じられている問題を自分の議論のうちに引き込むことが自分の関心にとって必要なのかどうか）をまず検討する責任があるはずである。第4節の文章を読むかぎり、「自由／不自由」という語が使われているから引用してみたというふうにしか見えず、それまでの論点との内在的なつながりが見えない。</p>
<p>上で書いたこともそうだが、これらの難点は、この論文の問題設定がもっぱら<b>「自由」という言葉</b>にもとづいていることに起因していると思われる。言葉にこだわっているおかげで、ゲームや遊びをめぐる議論において「自由」という語がいろいろな文脈においていろいろな意味で使われているということの説明がまとまりなく続くはめになっているのではないかということだ。</p>
<p>この種の哲学的な議論で重要なのは、特定の言葉に焦点をあわせるにせよそうでないにせよ、とにかく自分の問題意識（何に関心を持って何を論じたいのか）を十分に整理したうえで、論文内でそれを明示することである。仮に「自由」という言葉の多義的な用法に関心があるなら、いろいろな用法を延々と挙げていくことが重要になるだろうが、おそらく著者の関心はそこにはないだろう（もしそういう関心のもとで書かれているのであれば、不要な部分が大量にある）。むしろ、「自由」や場合によってはそれ以外の言葉で指し示される、ゲーム（や遊び）に関連する何らかの事実や経験や現象やそれらのパターンこそが関心の対象ではないのか。</p>
<p>実際のところ、第4節の最後で著者は次のように書いている。</p>
<blockquote>
<p>以上の議論を踏まえて、本論では「ゲームにおける自由」を「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」として考えることとする。</p>
</blockquote>
<p>おそらく、この意味での「ゲームにおける自由」がこの論文における著者自身の関心の対象なのだと思われる。とはいえ、論文内でこの問題設定を提示するために必要なのは、せいぜい渡邉の議論以降だけであって（あるいは吉田の議論を少し引いてもいいかもしれないが）、それ以前の議論はほぼすべて不要だろう。加えて、そのようにしかじかを「実感できること」という経験を「自由」という語で呼ぶことの合理性もまったくないように見える（渡邉がそれを「自由」と呼んでいること以外に）。</p>
<p>「自由」という言葉をキーワードとして持ち出さなければ、この問題関心はもっとスマートに提示できたはずだ。繰り返しになるが、「自由」という言葉にこだわって議論を進めているせいで、全体としてのまとまりがなくなっているのではないかと思う。</p>
<h2>プレイスタイルの哲学</h2>
<p>論文全体の中で、最後の第5節は著者のオリジナルの主張がもっとも明確に示されている箇所に見える（それは論点が明確だということでもある）。ここでは、前節の最後で示された問題関心を引き継いで、「ゲームにおける自由」＝「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」はどのような条件のもとで成立するのかを考えるという内容になっている。</p>
<p><a href="https://twitter.com/zmzizm/status/1638813723065462785" target="_blank">Twitterにも書いた</a>が、「ゲーム行為は「何を」するのかという見方と「どのように」するのかという見方の二つの側面から理解することが可能」であり、かつ〈それら2つの側面の区別は目的／手段の区別とは異なる〉という著者の主張はもっともだし、啓発的でもある。行為の哲学の中でそれに近い話はあるかもしれないが、ゲームをプレイする行為の話題でその区別を指摘しているものはこれまで見たことがない。そして、2つのうちの「どのように行為するか」の側面のほうが、「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」という経験に関係するという主張も十分に説得的だと思う。</p>
<p>これもTwitterに書いたように、ここでの「何を／どのように」の区別（著者の用語だと「行為の抽象的内容／行為の実質的内容」）は、美学における美的性質についての議論や上演芸術の上演とのアナロジーを援用すればもう少し概念的に整理したかたちで言い換えられる（そしてさらなる議論につなげられる）とは思うが、それはともかく、この区別を明確に提示している点、またゲームのプレイにおいて「行為の実質的内容」のレベルが自己実現や自己表現の媒体になりえることを指摘している点は、この論文の成果として非常に重要である。</p>
<p>ゲームのプレイを通した自己表現・自己実現というテーマは、「プレイスタイル」という言い方で論じられることがたまにあるが<span class="note">*</span>、これは突き詰めればゲームをプレイする意味（さらに突き詰めれば人生の意味）につながる話だろう。著者がそこまで見通しているかどうかはわからないが、このテーマの射程はかなり長く、またそれは生産的な方向だと思う。その点では、この論文で示されたアイデアを引き継ぎつついろいろ考えたいと思わせてくれる論文だった。</p>
<p>おわり。</p>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p>もっとさかのぼれば、シラーがベースにしているカント『判断力批判』における有名な「悟性と構想力の自由なたわむれ」における「自由」も、通常の認識モードに課される目的と制約から解放されたかたちで認識能力たちが「遊ぶ」という意味で使われているという点では、ある程度近い意味だと言ってよい。実際、カントによる趣味判断の特徴づけのこの箇所は、文字通りの遊びやゲームについて言われる意味での「自己目的性」にきわめて近い発想だと思う。</p>
</li>
<li>
<p>余談：前から言っているが、『キリギリス』の邦訳だと&ldquo;lusory attitude&rdquo;は「ゲーム内部的態度」と訳されているが、意味的には「ゲーム参加の態度」などと訳すべきである（スーツ独自の言葉づかいなので訳が難しいのはわかるが）。少なくとも「内側の」のようなニュアンスを持つ訳語は誤読を招く。「内部的」を「内側に入る際の」と読み替えられるならいいかもしれないが、「内部的」という語からそのような読みは普通できないだろう。</p>
</li>
<li>
<p>余談：スーツによれば、&ldquo;lusory attitude&rdquo;はゲームの目的にいたる諸手段に対するルール＝制約を自発的に受け入れる態度だとされている。一方、拙著『ビデオゲームの美学』における「ゲーム行為」の特徴づけでは、目的およびそこから生じる手段系列の全体が自発的に受け入れられるという話になっている。一種のメタレベルの行為あるいは態度（ゲームに参加する行為・態度）がゲームをプレイするという行為の特徴づけにとって決定的に重要だと考えている点では、スーツと私の立場は一致しているが、自己目的性の説明が手段の制約ベースか目的手段の系列ベースかという点では異なっている。</p>
</li>
<li>
<p>ついでに、この書き出しの内容そのものについてもコメントしておく。論文の構成（第2節から第3節の流れ）にも関わる話だが、「遊び」と「ゲーム」を対比させた上でそれぞれの「自由」について何かを論じる議論は、少なくともホイジンガやカイヨワにはない（これはオランダ語、ドイツ語、フランス語の語彙の事情によるものでもある）。実際、それぞれの邦訳書で「遊び」と訳されているものを「ゲーム」と読み替えたほうがしっくりくる場面が少なくないだろう（とくにホイジンガの議論ではそうである）。上野論文の注1で引用されているように、たしかにカイヨワは「ルドゥス／パイディア」という古典語を借用した独自の用語法を使ってルールによる縛りが強いタイプの遊びとそうでないタイプの遊びを区別しているが、ルールの縛りが少ないことと「自由」を結びつけているわけではない（少なくとも『遊びと人間』第1章の定義論の箇所では）。端的に言えば、ホイジンガやカイヨワの議論において、「自由」は（ルールによる縛りが少ないものとしての）「遊び」だけでなく（十分にルールによって制約されているタイプの）「ゲーム」の特徴としても言われているのである。</p>
</li>
<li>
<p>主張やその背後にあるゲーム観には同意できないものの、プレイスタイルの大事さを教えてくれる論文（についてのやりとりのまとめ）：</p>
<ul>
<li>
<p><a href="https://togetter.com/li/960236" target="_blank">プレイスタイルにこだわると勝てないというジレンマをめぐる議論 - Togetter</a></p>
</li>
</ul>
</li>
</ul>
</section>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/111/</link>
    <pubDate>Fri, 24 Mar 2023 14:24:39 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/111</guid>
  </item>
    <item>
    <title>MDAフレームワークの論文の全訳（訳注付き）</title>
    <description>
    <![CDATA[<div class="image_box_transparent margin"><img src="https://9bit.99ing.net/File/mda.png" /></div>
<p><b>MDAフレームワーク</b>を提示した2004年の有名な論文を全訳しました。PDFをオープンアクセスで公開します。</p>
<ul>
<li>日本語訳：<a href="https://drive.google.com/file/d/1PHFB3j0bRarEb4_V_uHLwX2vYFpW272R/view?usp=sharing" target="_blank">MDA：ゲームデザインとゲームリサーチへの形式的アプローチ（v.1.0）</a></li>
<li>原文：<a href="https://users.cs.northwestern.edu/~hunicke/MDA.pdf" target="_blank">MDA: A Formal Approach to Game Design and Game Research</a></li>
</ul>
<p>MDAフレームワークは、ゲームデザイン分野でよく知られた理論のひとつです。「<b>メカニクス／ダイナミクス／エステティクス</b>」という3つのレベルを区別するやつですね。おそらく日本での知名度はいまいちですが、ゲーム開発者にとってもゲーム研究者にとっても知っておいて損はない理論だと思います。</p>
<p>論文の最初のほう（「MDA」という節の手前まで）は抽象的な物言いばかりで、おそらくぴんとこない人が多数だと思われるので、初見では飛ばしてもいいと思います。</p>
<p>大量の脚注はすべて訳者による補足・推測・疑問などです。細かい話に興味がある方は、本文とは別の独立したテキストとして読んでいただけるとさいわいです。</p>
<p>日本語訳の利用に際しては、下記の注意点を読んでください。</p>
<h2>利用上の注意など</h2>
<ul>
<li>著者の確認はとってありますが、権利的にいまいちはっきりしないところがあるので、何かクレームがつけば公開を取りやめる可能性があります（原文もオープンアクセスなので問題ないとは思いますが）。</li>
<li>
<p>引用および参照指示は<a href="https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=345AC0000000048#Mp-At_32" target="_blank">著作権法第32条</a>に従って適切に行ってください。参照指示する際の書式は、たとえば以下のようにしてください。（一例です。必要な情報が書かれていれば問題ありません。）</p>
<blockquote>
<p>ロビン・ハニキ、マーク・ルブラン、ロバート・ズベック「MDA：ゲームデザインとゲームリサーチへの形式的アプローチ」松永伸司訳、9bit、2022年 <a href="https://9bit.99ing.net/Entry/110/" target="_blank">https://9bit.99ing.net/Entry/110/</a></p>
</blockquote>
</li>
<li>訳文しか読んでいないのに原文のみを参照指示するみたいな不誠実なことはやめてください。</li>
<li>参照指示する際は、GoogleドライブのURLに直接リンクしないでください。ファイルの再アップロードやバージョンの更新などでURLが変わる可能性があるためです。</li>
<li>必要があれば適宜バージョンを更新します。</li>
</ul>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/110/</link>
    <pubDate>Thu, 22 Sep 2022 08:30:37 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/110</guid>
  </item>
    <item>
    <title>ゲームにおける3つの「フィクション」</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>「フィクション」という語には複数の使われ方があるという話。よく聞かれることなので、整理もかねてまとめておきます（以下の内容は『ビデオゲームの美学』におおむね書いていますが、読むのが大変だと思うので）。以下「ゲーム」は、ビデオゲームとそれ以外のゲームの両方を含みます。</p>
<h2>A. 虚構世界を表すもの</h2>
<p>いわゆるフィクション作品のこと。映画、演劇、小説、マンガといった芸術形式の作品の大半はこの意味でのフィクション（以下フィクション（A））であり、フィクションの哲学が論じているのもこれである。</p>
<p>フィクション（A）は、「虚構世界を表すもの」として特徴づけてもいいかもしれない。この特徴づけはあまり正確ではないと思うが（たとえば、世界を持たないフィクション（A）はどうするのか、虚構世界とは何か、フィクショナルキャラクターの指示の話はまた別なのか、といった疑問がありえる）、だいたいの意味と外延は伝わるという意味で十分だろう。ポイントは、虚構世界やそこでの出来事は普通の意味で現実の空間に存在しない（とわれわれが見なしている）ものだということである。</p>
<p>一部のゲームは明らかにフィクション（A）の側面を持つが、すべてのゲームがそうであるわけではない。たとえばアブストラクトゲームにはこの側面がほとんどない。ユールが『ハーフリアル』で言うように、ビデオゲームは伝統的なゲームに比べてフィクション（A）の側面がかなり強い傾向にある。</p>
<h2>B. 制度</h2>
<p>貨幣、法律、交通ルール、試験、組織内の決まり、ローカルなマナー、etc. これらは一般化すると「制度」と言っていいが、そうした制度全般を「フィクション」と呼ぶ言葉づかいがある（あるいはもうちょっと一般化して、構築物全般かもしれない）。</p>
<p>この言葉づかいは、大ざっぱな議論では頻繁に目にするものだが（たとえば、ハラリ『サピエンス全史』）、制度についての専門的な議論ではあまり見かけない印象がある（日本語と英語圏とで違う可能性もある）。たとえば、サール『社会的世界の制作』では、制度と制度的事実は「構成的規則」や「共同信念」といった概念で説明されており、「フィクション」や「メイクビリーブ」は持ち出されていない。</p>
<p>ビデオゲーム以外のゲーム、たとえばボードゲームやスポーツは、この制度としての性格をわかりやすく持っている。制度や規範の本性を考えるための題材としてそうした伝統的なゲームが取り上げられることもある。マルチプレイのビデオゲームにもフィクション（B）の側面はそれなりにあるだろう。</p>
<p>一方で、シングルプレイのビデオゲームがフィクション（B）としての側面を持つかどうかは議論がわかれるところかもしれない。個人的には、シングルプレイのビデオゲームにも制度の側面があるとは思うが、ボードゲームやスポーツなどと比べればかなり限定的だとは思う。</p>
<h2>C. 日常生活からの分離</h2>
<p>さまざまな制度のうち、日常生活から相対的に切り離されて成り立っているものがある。儀式などがわかりやすい例だが、古典的な遊び論では、遊び・ゲームもまたこの性格を持つものとして特徴づけられてきた。この特徴を指すのに、悪名高い「マジックサークル」という語が使われることも多い。</p>
<ul>
<li>拙稿「<a target="_blank" href="https://books.google.co.jp/books?id=JNOaDwAAQBAJ&amp;pg=PA267&amp;lpg=PA267&amp;dq=%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%86%85%E3%81%A8%E5%A4%96%EF%BC%9F+%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%86%8D%E8%80%83&amp;source=bl&amp;ots=OJi4DAoIn3&amp;sig=ACfU3U2ZBCcjEhznJem05visCHcwmD3Yrw&amp;hl=ja&amp;sa=X&amp;ved=2ahUKEwil0MuG_-zzAhVBxIsBHR4FC-cQ6AF6BAgSEAM#v=onepage&amp;q=%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%86%85%E3%81%A8%E5%A4%96%EF%BC%9F%20%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%86%8D%E8%80%83&amp;f=false">ゲームの内と外？ マジックサークル再考</a>」参照。</li>
</ul>
<p>遊び論の文脈では、この特徴はしばしば「現実からの分離」や「二次的現実」などと呼ばれてきた。つまり、「現実」との対比で語られてきた。その意味で、この特徴を「フィクション」や「虚構」と呼びたくなる人はいるだろうし、実際にそういう言葉づかいを使う人もいるだろう（カイヨワなどはこの点ではかなり慎重な言葉づかいをしているのだが、とくに注意せず読むと「二次的現実」と「虚構」を同じ意味で使っているように読めてしまう）。</p>
<p>ある制度がフィクション（C）であるかどうかは、それが日常的な利害関心からどれだけ切り離されているか、ほかの諸制度とどれだけ強く結びついているかいないかという話であり、相対的な程度の問題である。現代社会で生活をするうえで貨幣制度に巻き込まれないということはなかなか難しいが、校則や就業規則は組織に所属するあいだのみ機能するものであって、組織を辞めてしまえば制度から離脱できる。子どもたちがプレイするスポーツやボードゲームの制度は、その場の参加者が規範を守っているかぎりでのみ維持される（それもスポイルスポートが発生すれば容易に瓦解する）。白線を踏み外したら死ぬ1人遊びは、自分の心の持ちようでどうとでもなる制度である。</p>
<p>よく言われることだが、フィクション（C）をゲーム一般の特徴と見なしてしまうと、プロスポーツなどが説明しづらくなる。ビデオゲームの場合でも、シングルプレイはともかく、マルチプレイのゲームにこの特徴をストレートに当てはめることに違和感を覚える人はいるだろう（「マジックサークル」の批判者の多くはこの観点から批判している）。いずれにせよ、多くのゲームがこの特徴を持つ傾向にあるとしても、あらゆるゲームに言えることではないし、そもそも程度差の問題であるという理解をしておくのがいいと思う。</p>
<h2>疑問への応答</h2>
<p>以上の違いはわかるものの納得できないという人は、おそらく以下のいずれかだと思われる。</p>
<ul>
<li>① なじんでいる言葉づかいを変えることのハードルが高い。</li>
<li>② 「フィクション」という語の使い方にこだわりがある。</li>
<li>③ 違いはわかるが大きく考えれば同じに思える。</li>
</ul>
<p>それぞれに対する応答は以下の通り。</p>
<ul>
<li>①に対して：応答はとくにないが、コミュニケーションが難しそう。</li>
<li>②に対して：①と同じく言葉づかいの問題でしかないが、もし分野間で術語としての使い方が違っているなら、お互いに譲れないということになるかもしれない。とはいえ、その場合でも、お互いにお互いの用語法を理解しておけばたいした問題は起きないだろう。</li>
<li>③に対して：制度に関する虚構主義をとりたがる（メイクビリーブで説明したい）人はそれなりにいるようだが、正直モチベーションが二重の意味でわからない。
<ul>
<li>制度概念で十全に説明できているものについてメイクビリーブを持ち出す意味がわからない。そもそも、ウォルトンの理論自体が、フィクション（A）の受容実践をある種の制度（ウォルトンの言い方だと「ゲーム」！）として考えるというプロジェクトのはずで、説明の方向が逆だと思う。「想像」や「共同信念」が制度一般に必要という話ならそのように言えばいいのであって（というか人間生活のかなりの部分で必要だと思うが）、「フィクション」や「メイクビリーブ」という概念を持ち出す必要はまったくないように思える。</li>
<li>明らかに別々に取り扱えるものをまとめて考えられる上位概念が仮にあるとして、それが言えて何がうれしいのかわからない。「これとこれは似てる」と言えるとうれしいということなんだろうか。</li>
</ul>
</li>
</ul>
<h2>余談</h2>
<p>もうひとつ、上記のABCに加えて、表象作品全般を「フィクション」と呼ぶ言葉づかいもある（いわゆるウォルトフィクション）。これはたんに無茶な用語法を理論的に導入しているというだけの話なので無視してよいものだが、ウォルトンがフィクションの哲学の代表者とされるかぎりで弊害は小さくない。</p>
<p>おわり。</p>
<div class="item_link_recommend">
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4326154454/zmz-22" target="_blank"><img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4326154454.jpg" /><span>清塚邦彦『フィクションの哲学』勁草書房、2017年</span></a></div>
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4326154551/zmz-22" target="_blank"><img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4326154551.jpg" /><span>ジョン・サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、2018年</span></a></div>
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4815808376/zmz-22" target="_blank"><img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/4815808376.jpg" /><span>ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』田村均訳、名古屋大学出版会、2018年</span></a></div>
</div>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/109/</link>
    <pubDate>Thu, 28 Oct 2021 06:25:23 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/109</guid>
  </item>
    <item>
    <title>単数形のgame mechanic</title>
    <description>
    <![CDATA[<div class="image_box_transparent margin"><img src="https://9bit.99ing.net/File/mechanics.png" /></div>
<p>「game mechanic」をどう訳すかについて。ボードゲーム作品やビデオゲーム作品の特徴記述において使われる「メカニクス／ゲームメカニクス」という用語<span class="note">*</span>になじみがある人向けの記事です。</p>
<hr />
<p>前から思っていたことではあるが、最近複数の場面（ボードゲームやビデオゲーム関係の研究会など）で以下の趣旨のことを言っている。</p>
<ul>
<li>単数の"(a) game mechanic"は「ゲームメカニクス」ではなく「ゲームメカニック」と訳したほうがよい。</li>
<li>さらに言うと、その意味でのgame mechanicが複数あることを示す複数形"game mechanics"も、「ゲームメカニクス」ではなく「複数のゲームメカニック」などとした訳したほうがよい。</li>
</ul>
<p>完全に同意されることは少ないのだが、たしかに「メカニック」と訳すことの難点は多少あると思う。以下のTwitterでのやりとりは懸念や問題のポイントをわかりやすく示してくれた。</p>
<ul>
<li><a href="https://togetter.com/li/1772577" target="_blank">単数の"game mechanic"をどう訳すか - Togetter</a></li>
</ul>
<p>以下ちょっと調べたことの整理。結論はとくにないです。</p>
<h2>基本的な前提</h2>
<p>以下の点で議論するつもりはない。明らかな間違いや不足があれば教えてください。</p>
<ul>
<li>名詞の"mechanics"は一般に〈仕組み〉（the way something works）を指すのに使われるが、この用法の場合はつねに"s"がつく（いわゆるplural-only noun）。<span class="note">*</span></li>
<li>"mechanic"が名詞で使われる場合は、普通〈整備工〉の意味（もちろん整備工が複数人いれば"mechanics"となる）。日本語で「メカニック」と言う場合も普通はこの意味。</li>
<li>ある種のテクニカルタームとして、個々のゲームの特徴記述において"mechanic / game mechanic"という単数名詞が使われるケースがある。たとえば「このゲームはxxxというmechanicを持つ」、「このゲームはyyyとzzzという2つのmechanicsをうまく組み合わせている」みたいな言い方。</li>
<li>個々のgame mechanicをどのように切り分けるか（どれを「ひとつ」と見なすか）は、個別化と分類の実践に依存する。上記のTogetterを参照。ポイントは、どのように切り分けるにせよ、切り分けられたものは「ひとつ」としてカウントされる（それゆえ単数形で表現される）ということ。これは英語における実際の言葉遣いがそうなっているというだけの話であって、規範的な主張ではない。</li>
</ul>
<h2>用法の由来</h2>
<p>次のようなRedditのトピックがあった。いつごろからこの単数の用法が出てきたのかという話題。</p>
<ul>
<li><a href="https://www.reddit.com/r/etymology/comments/7dzcah/when_did_the_singular_mechanic_come_to_have_a" target="_blank">When did the singular "mechanic" come to have a meaning like "mechanism"? e.g. "dice rolling is a cool game mechanic" : etymology</a></li>
</ul>
<p>調べようとしていたことがそのまま疑問として出されていて面白かった。きろまさんも書いていたが、英語話者にとっても変な言葉遣いに感じられるらしい。</p>
<p>質問者の記述を信じるかぎり、遅くとも1990年代後半にはすでにこの用法があったようだ（標準的な言葉遣いとして定着していたかどうかはまた別の話だが）。それ以前はわからないが、リプライによるとOEDにもうちょっと前の用例があるらしい。おそらく"<a href="https://www.oed.com/view/Entry/115543" target="_blank">mechanic</a>"の項目にある以下の用例のことだと思われる。</p>
<blockquote>
<p><b>1988</b> <i>Grocer</i> 22 Oct. 155/1<br />
Advertisements..will invite readers to sample the brand through two mechanics. The first will reward 20,000 respondents who ring a special hotline with a free miniature through the post.</p>
</blockquote>
<p>複数形ではあるが、明らかに単数のものが2つあって複数形になっているケースだ。これは広告の仕掛けの話だと思うが、おそらくゲームの仕組みを指す1990年の用例もあった。</p>
<blockquote>
<p><b>1990</b> <i>Games Rev</i>. Jan. 51/1<br />
This is a neat game mechanic which should have been ripped off by more games designers.</p>
</blockquote>
<p>もとの文脈を見ないと正確な意味合いはわからないが、ぱっと見現行の用法にかなり近いと思われる。</p>
<h2>頻度の変遷</h2>
<p>Ngram Viewerで"game mechanic(s)"、"game mechanism(s)"がそれぞれどれくらい使われてきたかの変遷を出してみた。</p>
<ul>
<li><a href="https://books.google.com/ngrams/graph?content=game+mechanic%2Cgame+mechanics%2Cgame+mechanism%2Cgame+mechanisms&amp;year_start=1971&amp;year_end=2019&amp;corpus=26&amp;smoothing=3" target="_blank">Google Ngram Viewer [game mechanic, game mechanics, game mechanism, game mechanisms]</a></li>
</ul>
<p>"game mechanic"は2000年代以降漸増している。"game mechanics"も2000年代後半あたりから着実に増えているが、テクニカルタームとしての単数用法の複数形のケースがそのうちの一定の割合を占めていると思われる。</p>
<p>調べるのが大変そうなので調べてないが、もともとボードゲームの世界で広まった用法がビデオゲームにも適用されたという順番なのかどうかは気になる。</p>
<h2>&ldquo;mechanic&rdquo;か&ldquo;mechanism&rdquo;か</h2>
<p>Redditの別のトピックで次のようなのもあった。</p>
<ul>
<li><a href="https://www.reddit.com/r/boardgames/comments/2azgmt/mechanic_vs_mechanics_vs_mechanism/" target="_blank">"Mechanic" vs "Mechanics" vs "Mechanism" : boardgames</a></li>
</ul>
<p>このトピックでは、単数"mechanic"はありかなしか、"mechanic(s)"なのか"mechanism(s)"なのか、"mechanism"に対応するのは"mechanic"ではなく"mechanics"なのではないか、といった言葉遣いそのものが問題になっていて、目下の関心（日本語での訳語をどうするか）により近い話かもしれない。このトピックが2014年のポストであるという点は示唆的だ。おそらく2021年現在では単数用法の"mechanic"が浸透しすぎていて、もはや論点にならないのではないかと思う。</p>
<p>ちなみに<a href="https://boardgamegeek.com/wiki/page/mechanism" target="_blank">BoardGameGeek</a><span class="note">*</span>では、"mechanic(s)"と"mechanism(s)"が交換可能な語として説明されている。ついでに言うと、『<a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4798164739/zmz-22" target="_blank">ゲームメカニクス大全</a>』の原題は"Building Blocks of Tabletop Game Design: An Encyclopedia of <b>Mechanisms</b>"である。</p>
<p>ほかにもいろいろそれを支持する材料があるが、用語として区別することが明示的に宣言されているのでないかぎりは、"game mechanic(s)"と"game mechanism(s)"は同義で使われていると考えて問題ないだろう。</p>
<h2>&ldquo;game mechanics&rdquo;の別の用法</h2>
<p>以上の意味での"game mechanic(s)"とは別の意味でplural-onlyの"game mechanics"を使う用法がある。これを説明する用意もあるが、けっこう地獄なのでまたの機会に。</p>
<p>あまりきれいな整理とは思えないが、アキ・ヤルヴィネンやミゲル・シカールも"game mechanics"の多義性について多少整理している。ヤルヴィネンやシカール自身が採用する用法もまた単数形を許容するものだが、それらが現行の用法とぴったり一致するかどうかはかなり微妙（部分的にオーバーラップするのはたしかだが）。</p>
<ul>
<li><a href="http://urn.fi/urn:isbn:978-951-44-7252-7" target="_blank">Aki J&auml;rvinen, <i>Games without Frontiers: Theories and Methods for Game Studies and Design</i> (Tampere: Tampere University Press, 2008).</a></li>
<li><a href="http://gamestudies.org/0802/articles/sicart" target="_blank">Miguel Sicart, &ldquo;Defining Game Mechanics,&rdquo; <i>Game Studies</i> 8, no. 2 (2008).</a></li>
</ul>
<p>こういうめんどくさい事情を考えると、『ビデオゲームの美学』で「ゲームメカニクス」をテクニカルタームとして導入したのは失敗だったかもしれない。</p>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p>BoardGameGeekでの"game mechanic(s)"や『ゲームメカニクス大全』での「ゲームメカニクス」がこの用法のわかりやすい例。ややこしいことだが、拙著『ビデオゲームの美学』における用法も含めて、"game mechanics"や「ゲームメカニクス」という語にはこれとは別の（とはいえ完全に別とも言えない）用法もある。</p>
</li>
<li>
<p><a href="https://www.oed.com/view/Entry/115556" target="_blank">OED</a>などを見ると、抽象的な働きを指す用法のほかに、働きをもたらす具体的な部品群（機構）を指す用法もある。この場合は"mechanism"と交換可能だろう。"game mechanic"もこの用法の派生なのかもしれない。</p>
</li>
<li>
<p>このページでは"gameplay mechanism"という日本語では目にしない書き方が見られる。"gameplay"もある種のテクニカルタームだが、カタカナ語としてどれだけ浸透しているかはあやしい。</p>
</li>
</ul>
</section>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/108/</link>
    <pubDate>Fri, 10 Sep 2021 19:31:17 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/108</guid>
  </item>
    <item>
    <title>『キリギリスの哲学』読書メモ（全章分）</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>去年の暮れから今年の2月くらいまで、<a href="https://twitter.com/aysgstr/status/1387393106593476612" target="_blank">キリギリスの会</a>でバーナード・スーツ『キリギリス』の読書会をしていた。</p>
<ul>
<li><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/1554812151/zmz-22" target="_blank">Bernard Suits, <i>The Grasshopper</i>, 3rd edition (Peterborough: Broadview Press, 2014).</a></li>
<li><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4779509246/zmz-22" target="_blank">バーナード・スーツ『キリギリスの哲学』川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年</a></li>
</ul>
<p>毎回読書メモを作っていたので、全章分をまとめて公開しておきます。内容は、章ごとの細かめのまとめと、訳が微妙と思われる箇所についてのコメント。</p>
<ul>
<li><a href="https://docs.google.com/document/d/1Q2GG2sbLFuCXTYY1kOo5PCd1z_pAF3jWleMQhQpSQck/edit?usp=sharing" target="_blank">キリギリスの哲学 メモ① 1～3章</a></li>
<li><a href="https://docs.google.com/document/d/1Z8gCc3ZfWmyu5V6VUUG-x7H8InYCmXksKZHLn04fbug/edit?usp=sharing" target="_blank">キリギリスの哲学 メモ② 4～8章</a></li>
<li><a href="https://docs.google.com/document/d/1MEtvNsdskQQLO4YQz6fMiq0wgSFLsQ40UGF03e61_QY/edit?usp=sharing" target="_blank">キリギリスの哲学 メモ③ 9～12章</a></li>
<li><a href="https://docs.google.com/document/d/17DMS-cKlyBv-M61-VitErrN7OFNMpfGYzolLGD6Oqz0/edit?usp=sharing" target="_blank">キリギリスの哲学 メモ④ 13～15章</a></li>
<li><a href="https://docs.google.com/document/d/1NHr2SP0llKOYJ5E-YKCwqI39FckrpdjZlDvmjxAaBkA/edit?usp=sharing" target="_blank">キリギリスの哲学 メモ⑤ 付論1～2</a></li>
</ul>
<p>ゲームという題材や対話篇という語り口から取っ付きやすそうに見えるかもしれないが、内実は本格的な哲学書と言ってよい。なので哲学者以外にはあまりおすすめしない（いい意味で）。</p>
<p>3章が有名なゲーム定義論の部分。この本を引用する文献の大半はこの章だけを引用するわけだが、実際ちゃんと読んでみると、それ以外の部分でもかなり面白い議論をしているなという感想だった（正直議論を追うのがかなり大変だが）。</p>
<p>個人的に一番面白かったのは、9～12章あたりのごっこ遊びはスーツのゲームの定義に当てはまるのかどうかというところ。スーツはごっこ遊びをゲームに含めようとしているように一見読めるのだが（読書会でもそう読んでいる人が多かった気がするが）、よく読むと、<b>ごっこ遊びの一部のケースが、ごっこ遊びであるというのとは別の点において、いくらか拡張した意味での「ゲーム」に含まれる</b>、というくらいのことしか言っていないと思う。キリギリスの語調（訳にはあまり反映されてない）から言っても、スーツがごっこ遊びはゲームだと積極的に主張しているとは思えない。</p>
<p>この本は一貫してゲームにフォーカスしてはいるものの、根底にあるテーマは明らかに人生の意味だ。なのでその道の詳しい人にも感想を聞きたいところ。そういうのも含めてスーツ研究をやりますという人がもっといてもいいと思う。</p>
<div class="item_link_recommend">
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/1554812151/zmz-22" target="_blank"><img src="https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/P/1554812151.jpg" /><span>Bernard Suits, <i>The Grasshopper</i>, 3rd edition (Peterborough: Broadview Press, 2014).</span></a></div>
<div><a href="https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4779509246/zmz-22" target="_blank"><img alt="キリギリスの哲学" src="https://9bit.99ing.net/File/grasshopper_j.jpg" /><span>バーナード・スーツ『キリギリスの哲学』川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年</span></a></div>
</div>
<aside id="related_page">//9bit.99ing.net/Entry/81/</aside>]]>
    </description>
    <category>ゲーム研究</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/107/</link>
    <pubDate>Tue, 18 May 2021 15:02:17 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">9bit.99ing.net://entry/107</guid>
  </item>
    <item>
    <title>倍速の美学</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>Twitterに書こうと思ったが、長くなったのでこちらで。以下の銭さんによる映画の倍速視聴擁護の記事と、森さんによる倍速視聴批判の記事を読んで思ったこと<span class="note">*</span>。</p>
<ul>
<li><a href="https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074">映画を倍速で見ることのなにがわるいのか｜obakeweb｜note</a></li>
<li><a href="https://morinorihide.hatenablog.com/entry/2021/03/30/011218">映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀</a></li>
</ul>
<p>一般的な話として、作者の意図に沿わない／失礼な／正当でない鑑賞を「回復可能性」で擁護するという銭さんの筋は説得的だった。汎用性があるので別の話題でも使えると思う。</p>
<p>一方で、映画の倍速視聴（少なくとも何倍速か以上）に関してそれが言えるという主張にはあまり同意できない（まったく同意できないわけでもないが）。森さんが書いているように、作品鑑賞にとってクリティカルな面の少なからずが回復できないケースが多いと思う。エモーショナルな面はとくにそうだろう<span class="note">*</span>。</p>
<p>これは「取りこぼす」というのとはおそらくちょっと違う。取りこぼしている（つまり本来の鑑賞で得られたはずの経験が減っている）という減算的な面ももちろんあるが、倍速にすることで等倍速にはなかった質（美的性質と言ってよい）の経験が新たに付け加わっているという面もある。倍速の美学にとってより重大なのは、この加算的な面だと思われる。</p>
<p>単純な例を出せば、一定以上の倍速にすると動きやしゃべりがコミカルに見える傾向があるというのは比較的共有されている感覚だろう。このコミカルさという質は、感動やサスペンスやホラーような質との両立が一般に難しい。この手のケースにおける回復は、コミカルさを除去したうえで感動やホラーを想像・追体験することだということになるだろうが、それをやるのは相当奇妙な能力を持ってないと困難なのではないか（たとえばコミカルさに対して極度に鈍感であるというような）<span class="note">*</span>。</p>
<p>何もない状態から特定の美的性質を想像することはそれなりに簡単にできるかもしれないが、すでにある美的性質を無視して別の美的性質を想像することがそれほど簡単に達成されるとは思えない。銭さん自身、音楽は倍速では聴かないと書いているが、それもテンポによって音楽の美的性質が大きく変わるせいだと考えれば同じ話として理解できるだろう。料理のアナロジーが持ち出されがちなのもそういうことかもしれない。すももがなった木を見てすももの味を想像することはできるだろうが、カレーが口に入った状態ですももの味を想像できるかということだ（よくないたとえ）。</p>
<p>ようするに、倍速否定派が持ち出すべき論点は「倍速で泣ける／怖がれる／ドキドキできるのか？」よりもむしろ「倍速で生まれる変な質が気にならないのか？ その質が好きというならわかるがそうなのか？」である。これは失礼説や意図主義を持ち出さなくても言える。</p>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p>一応注記しておく。銭さんも適切に予防しているが、「時短になるからよい」「人それぞれでよい」みたいなしょうもない話（美学的な意味で）はここでは問題にしない。また、たとえ論法が実質的に無意味というのも完全に同意する。</p>
<p>余談。おそらく倍速視聴の実践が美学の問題になりえるのは、倍速で見た人にその作品を批評する権利があるかどうかに関わるという一点においてである。ネタバレ論争とはこの点で違う。ネタバレの場合も正当な鑑賞とは何かという問題が部分的に関わるが（とくに森さんは主にそれを問題にしているだろう）、それに加えて異なる芸術観が互いに阻害しあう関係にあるという点でも美学的に興味深い問題になっている。この後者の面は倍速論争にはいまのところない（「倍速批評」みたいなのが一般的になってくれば文化間の対立として表立ってくるかもしれないが）。</p>
</li>
<li>
<p>一方で、話の筋みたいなのはほとんど問題なく回復できると思われる。倍速肯定派の中には、話の筋だけを重要視している人もいるかもしれない。この点は深堀りしたところで美学的な鉱脈はとくに何も出てこない。映画鑑賞（というかフィクション鑑賞一般）において話の筋だけを気にするような態度は個人的には趣味が悪いと思うが、それこそ人それぞれの好みや生き方の問題であり「そうですか」で終了の話である。ただ上の注で書いたように、そういう人が作品の「批評」をしようとしてきた場合はちょっと待てと言わざるをえない。</p>
<p>余談2。ネタバレ論争でネタバレ否定派が気にしているのは基本的に話の筋の問題である（オチを先に知りたくないという）。それゆえ、話の筋のみを重視する倍速肯定派の人がネタバレを否定するのか（話の筋は順を追うことが重要だから）、あるいは肯定するのか（ある意味で最高の倍速だから）は興味深い。</p>
</li>
<li>
<p>ある意味での「想像」はできるかもしれないが、それはかなり「冷めた」というか三人称的な想像になるだろう。もちろん冷めていても（あるいは冷めていてこそ）真正な鑑賞なんであると言えるケースは少なくないとは思うが、それが言いづらいケースも多いだろうし、そもそも倍速否定派が気にしているのは後者のケースだと思われる。</p>
</li>
</ul>
</section>]]>
    </description>
    <category>雑記</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/106/</link>
    <pubDate>Tue, 30 Mar 2021 02:41:13 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>「メディア」の多義性について</title>
    <description>
    <![CDATA[<p>以下の記事の続きです。前の記事では主に「メディア芸術」という言葉の起源を問題にしたんですが、そもそもそこでの「メディア」はどういう意味で使われているのかについてもう少し整理しておきます。</p>
<ul>
<li><a href="http://9bit.99ing.net/Entry/104/">「メディア芸術」の「メディア」って何ですか - 9bit</a></li>
</ul>
<p>一般に「メディア（medium/media）」はきわめて多義的な言葉です（英語でも日本語でも）。この言葉は芸術関係の話題で頻出しますが、その文脈に限ってもまだ多義的です。なので美学芸術学周辺の人であれば、この語の用法が複数あることを十分意識しておいたほうがよいと思われます。</p>
<p>以下3つの用法を挙げますが、いずれも情報や内容の〈媒介者（中間物）〉という本来の語義<span class="note">*</span>をそれなりに引き継いでいるとは思います。</p>
<h3>①作品や表現の物質的な支えを指す場合</h3>
<p>たとえば、絵画におけるキャンバスや絵の具、映画におけるフィルムなどを指すのに、「medium」という語が使われる場合があります。日本語だと「媒体」「メディウム」「メディア」などと訳されることが多いかもしれません。あるいは作品を作るための道具（絵筆やカメラなど）を含める場合もあります（日本語だと道具は含めないほうが多いように思います）。</p>
<p>この用法は造形芸術（いわゆるアート）の文脈で主に見かけるものですが、たとえば光学ディスクを「（記録）メディア」と呼ぶ場合は、この①のニュアンスが入っていると思います（③も入ってるかもしれませんが）。</p>
<h3>②作品や表現のフォーマットやカテゴリーを指す場合</h3>
<p>たとえば、文学、絵画、彫刻、音楽、建築、映画、演劇、ダンス、写真、マンガなどのそれぞれを指すのに「a medium」（複数を指す場合は「media」）という語が使われる場合があります。つまり「芸術形式（art form）」とおおよそ同義の用法です（これは古い言い方だと「ジャンル（genre）」と呼ばれたりもしますが、現代における「ジャンル」はより小さいカテゴリーを指すのに使われるのが標準だと思います）。</p>
<p>英語だとこの②の用法は頻繁に目にします。この場合の「medium」は日本語だと「表現形式」などと訳すのがわかりやすいと思いますが、これを「メディア」と訳しているケースもよく見ます（「メディア」が多義的であることを考えれば、まったくおすすめできない訳ですが）。「メディアミックス」の「メディア」などは、この②の用法でしょうね。</p>
<p>この意味でのmediumは、①とちがって物質的なレベルに限定されません。とにかく作品（あるいは作品鑑賞の文化）が属するカテゴリー自体のことなので、受容の慣習や場合によっては公開・頒布の形式もその同一性に含まれます。たとえば、紙の活字の本と紙のマンガは①の意味では大差ないかもしれませんが、②の意味ではまったく別物です。同じように、紙のマンガと電子書籍のマンガは①の意味では相当ちがいますが、②の意味ではそれなりに（場合によっては代替物になりえる程度には）近いものです。</p>
<h3>③視聴覚メディアを指す場合</h3>
<p>とくに映像や音声を再生する表現形式（②）や媒体（①）を限定的に指すのに「メディア」という言葉が使われる場合があります。つまり「視聴覚メディア」の省略ということです。コンピュータもふつう含まれますが、映画館で流される映画には適用されない気がするので、エンドユーザーが操作可能なものに限定して使われるのかもしれません。</p>
<p>きちんと調べたわけではないですが、この③の用法は日本語だけだと思われます。香川県のゲーム規制条例の問題の際に少し話題になっていた「ノーメディアデー」などは明らかにこの用法ですね。翻案（とくに映像への翻案）の意味で使われる謎語「メディア化」<span class="note">*</span>などもこの用法を引いたものかもしれません。</p>
<p>完全な憶測ですが、③はもともとマスメディアや報道機関を指すものとしての「メディア」から来た用法なのかなと思います（これ自体は英語にもある用法です。注1も参照）。20世紀後半のマスメディアの中心がテレビやラジオといった視聴覚メディアだったことから、この用法ができたのかもしれないということです。</p>
<p>前回の記事で書いたように、「メディア芸術」という名称は、少なくとも当初は主に③の意味を想定してつけた名前なんだろうと思います。結果的にマンガの位置づけが微妙になっているというのは前回書いた通りです。</p>
<p>ついでに言うと、メディア芸術にかぎらず、2000年前後あたりから、大学の新しく作られる学科名や科目名などに対しても「メディアなんとか」という名づけがされることが多くなってきたんじゃないかという印象があります。それらも基本的には③のニュアンスなのかもしれません（同時に①や②やマスメディアやコミュニケーション一般も包括できるという意味で、内実を特定しないで済むワイルドカードとして使われているような気もしますが）。</p>
<p>ちなみに、メディア芸術の一翼にもなっている現代アートの一分野としてのメディアアートは、本来は「ニューメディアアート」と呼ぶべきものだそうで（英語だとふつうに「new media art」が通用している）、その意味では③の用法に近いと思います（そこで言う「ニューメディア」は視聴覚メディアに限定されるわけではないでしょうが、少なくとも20世紀後半以降の新しい技術の大半は視聴覚メディアなので）。</p>
<p>というわけで「メディア芸術」も「メディアアート」も和製語なわけですが、結果としてメディア芸術の下位カテゴリーとしてメディアアートがある（それぞれ英語に訳すと「media art」となる）みたいな地獄みたいなことになっています。関係者であればおそらく全員理解している話なので、そのかぎりではとくに混乱はないと思いますが、部外者とコミュニケーションするときに本来無用の労力が必要になることがあるんじゃないかと思います<span class="note">*</span>。</p>
<p>おわり。</p>
<section class="footnotes">
<h2>Footnotes</h2>
<ul>
<li>
<p><a target="_blank" href="https://www.oed.com/view/Entry/115772?redirectedFrom=medium#eid">OED</a>や<a target="_blank" href="https://www.etymonline.com/word/medium">Online Etymology Dictionary</a>によると、本来の意味は〈（程度や立場の点で）中間にあるもの〉だが、転じて〈何かと何かのあいだを取り持つもの（媒介物や媒介経路）〉という意味が16～17世紀あたりに確立したらしい。そしてそれがさらに転じて印刷出版を指す用法ができたらしい。英語でも日本語でもマスメディアを「メディア」と呼ぶ用法があるが、それはこの印刷出版を指す用法を引き継いだもののようだ。</p>
</li>
<li>
<p>余談だが、「メディア化」で少し検索してみたら地獄が広がっていた。ビジネス関係だと、プラットフォームの意味で「メディア」を使っているケースもまあまあ見つかる。いずれにしても「コンテンツ」の対立項として持ち出されているのだろうと思う。</p>
</li>
<li>
<p>メディアアートをメディア芸術というカテゴリーに組み込む（結果としてマンガやビデオゲームなどのポピュラーカルチャーと並置し、伝統的な造形芸術や現代アートの他分野から分離する）ことの功罪については、以下の論文が読み甲斐があった。</p>
<ul>
<li>廣田ふみ「「メディアアート」と文化政策、この20年」『<a target="_blank" href="https://www.iamas.ac.jp/iamasbooks/wp-content/uploads/2017/04/kiyou_vol.7-2.pdf">情報科学芸術大学院大学紀要</a>』7巻、2015年、pp. 41&ndash;46.</li>
</ul>
<p>指摘されている問題点については著者に同意する。もっと言うと、メディア芸術というのは名称も含めて単純に個々のカルチャーの特質を十分に理解していないことによる筋悪なカテゴライゼーションだと思う（その行政上のカテゴライゼーションによってそれぞれの文化が利益を得る面があるとしても、センスのなさや筋の悪さが帳消しになるわけではない）。もちろん行政側の事情や言い分は別にいろいろあるだろうが、既存の政策にしたがうにしろ新しく政策を立案するにしろ基本的に共有しておくべき前提なので、こういうことは言うべきポジションの人が率直に言っていったほうがよい。以下も参照。</p>
<ul>
<li><a target="_blank" href="https://www.gamebusiness.jp/article/2020/02/28/16804_2.html">文化としてゲームが研究される状況のいま&hellip;「メディア芸術連携促進事業・研究成果マッピングシンポジウム」レポート 2ページ目 | GameBusiness.jp</a></li>
</ul>
</li>
</ul>
</section>]]>
    </description>
    <category>その他</category>
    <link>https://9bit.99ing.net/Entry/105/</link>
    <pubDate>Fri, 04 Dec 2020 10:49:02 GMT</pubDate>
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