VRの哲学

Sep 04, 2020|美学・芸術の哲学

※ちょっと調べただけです。ちゃんと勉強してません。

「バーチャルなもの」の存在論はゲームスタディーズでも前からあるが(e.g. Aarseth 2007)、2017年にデイヴィッド・チャーマーズが「The Virtual and the Real」という論文を出して以降、哲学者が本格的に参入している感じがある。VRデバイス/コンテンツの浸透も関係なくはないのかもしれない。

チャーマーズの論文は、ナンバさんとシノハラさんがそれぞれブログでまとめてますね。

PhilPapersGoogle Scholarでチャーマーズの論文の被引用を見ると、最近いろいろな論文が出ているのがわかる。とくに2019年にオンラインの哲学ジャーナル『Disputatio』でVR特集がされたようだ。タイトル的に気になる論文が多い。イェスパー・ユールもいますね。

中身はまだ読んでないのでいいかげんな感想だが、タイトルを眺めるかぎり「バーチャルな存在は、リアルなのか、フィクショナルなのか、どちらでもないのか」というキャッチーな問いをめぐっていろいろな立場が出されている感じなのかなと思う。

この素朴な問いに対してとりうる立場は(現実的と虚構的が互いに排他だとすれば)論理的に言って以下のどれかだろう:

  • 虚構的でも現実的でもない第三の何か
  • 現実的なものの一種
  • 虚構的なものの一種
  • 場合または側面によってちがう

自分の立場はいまのところ明確で、VRも言語・画像・映像などと同じく表象メディアの一種である以上、使い方によって現実的表象にも虚構的表象にもなるという以上の話ではないと思っている(『ビデオゲームの美学』12章で部分的にそういう話を少ししている)。

おそらく多くの人が気にしていると思われるVRナラデハの特徴は、いわゆるプレゼンスの経験、つまり「表象対象が現前しているかのように感じられる/表象された空間に居合わせているかのように感じられる」ということだと思うが、これは存在論の問題ではなくリアリズム(写実性)の質と程度の観点で十分説明できるだろう。

哲学的に微妙な問題があるかもしれないと思うのは、VRはたとえば写真のように、使い方に依存しない情報を持つのかどうか、持つとすればどういうかたちでどの程度持つのかというところだ。グラント・タヴィナー(Tavinor 2019)がまさにそういう話をしている。このへんはVRというよりARも含めたより広いカテゴリーの話になると思う。

『Disputatio』の特集以外に気になったものだと、いわゆる「ゲーマーのジレンマ」関連の論文が少しあった。たとえば以下とか:

ゲーマーのジレンマは、バーチャルな殺人とバーチャルなペドフィリアとでは、ぱっと見で悪さに差がある(後者のほうが悪いように思える)という哲学者が好みそうなパズルのことで、ビデオゲームにおけるプレイヤーの行為を道徳的に評価することについての一般的な議論につながる(『ビデオゲームの美学』11章にも多少の説明がある)。これも「バーチャル」という用語で語られるのが普通なのだが、この論点とVRの問題はけっこう距離がありそう。Vtuberの「バーチャル」もまたちょっと別のニュアンスだろうし*

「バーチャル」と一言でいってもいろいろですねというあたりまえの話だが、同じ言葉は同じものを指すという臆見は人類にわりと広まっているようで、人と話をするときには多少整理しておく必要があるかもしれない。

Morton Heilig's Sensorama. Image source.

References

  • Aarseth, E. 2007. “Doors and Perception: Fiction vs Simulation in Games.” Intermédialités 9: 35–44.
  • Chalmers, D. 2017. “The Virtual and the Real.” Disputatio 9(46): 309–352.
  • Ramirez, E. 2020. “How to (Dis)solve the Gamer’s Dilemma.” Ethical Theory and Moral Practice 23: 141–161.
  • Tavinor, G. 2019. “On Virtual Transparency.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 77(2): 145–156.

Footnotes

  • ちなみに「virtual」が「潜勢的/潜在的」という意味で使われる文脈もあるが(「actual」と対比される)、バーチャルリアリティの「バーチャル」とは意味的にぜんぜん関係ない(もちろんバーチャルメモリにもバーチャルYouTuberにも関係ない)。なので、両者の用法を関係づけて何かを言おうとしている言説が仮にあれば、ダジャレ扱いでいいと思う。ダジャレはつまらないが、ひとつの言葉がどういう経緯でいろいろな意味を持つことになったのかという問題は興味深い。