『ビデオゲームの美学』の「シミュレーション」について

Dec 27, 2023|ゲーム研究

murashitさんによる以下の『ビデオゲームの美学』紹介記事への反応です。

Twitterで書いたように、書評も含めてこれまで見たものの中でもっとも正確かつ詳細に、それも著者の意図を十分に汲みつつ、当の本をまとめている文章だと思う。大変ありがたいです。

記事の最後で第12章の「シミュレーション」についていまいちわからない点があるという指摘がされている。自分でもきちんと書けていなかったところだという自覚があるので、こういうつもりで書いたというのを少し補足しておきたい。正直あまり自信がないので、補足を踏まえてもやっぱりちょっとおかしいんじゃないかというつっこみはあるかもしれない。

前提

murashitさんの記事を読めばポイントはおおむねわかるが、あらためて第12章の前半で「シミュレーション」がどんな概念として導入され、特徴づけられているか、それについてどんなことが書かれているかを必要な範囲でまとめておく。

  • シミュレーションは表象の一種である。
  • シミュレーションを一言で定義するとすれば、動的システムによる挙動(のルール)のモデル化である。
  • シミュレーションにおけるモデル化の対象を「対象システム」、それをモデル化する動的システムを「モデル」と呼んでおく。
  • モデル化とは、部分的な類似による表象である。
  • ここで「部分的な類似による表象」とは、記号の持つ性質の一部が、内容として抽出されることを意味する。ようするにモデル化では、記号の特徴の一部がそのまま表象内容になる(抽出されるのが構造的な特徴の場合は、準同型的表象になる)。
  • シミュレーションにおける記号は動的システムなので、その内容も動的に(しばしば作り手が予想しないようなあり方で)変化する。
  • 対象システムが実在物である必要はない。
  • シミュレーションは、現実的表象であることもフィクションであることもある。それは表象内容をどう使うかによる。
  • ある種のビデオゲーム作品は、ゲームメカニクスをモデルとして虚構世界上の何かの挙動をモデル化しているという意味で、フィクションであるタイプのシミュレーションである。

疑問

murashitさんの記事から引用:

まず、モデルの挙動によって対象(の挙動)についての知識が引き出されるのはそのとおりだとおもう。それが、「表象内容」があらかじめ定まっておらずその都度生成されるからというのもたしかにそうだとおもうのだが、とはいえこのようにいうと、このモデル化という表象における「対象システム」ってのはなんなのかよくわからなくなってくる。

対象システムを表象するモデルを作り、そのモデルが改めて「表象内容」を表象する、みたいなのが想定されていて、ここの前者の表象と後者の表象は別って理解でいいのだろうか?(自分のシミュレーションに対する直観としてはそういうことになってるような気がするが、本章序盤の話からするとズレてるような気もする)

あるいは、対象システムの一定の特徴(挙動のルール)をとりだしてモデルをつくっている(この時点で対象システムと表象内容がズレる)ので、その記号としてのモデルの挙動は対象システムとは重ならない(シミュレーションというのはたしかにそういうものだ)ということ? でもそれだと「対象システムを表象する」という言い方はおそらくできない。

3節末の以下のまとめをみれば、たしかに対象システムと表象内容を区別している。

疑問のポイントは、〈「モデルによって表象される対象システム」と「モデルの表象内容」がどうも区別されているらしいものの、それはどういう区別なのか、また仮にそうだとすると「表象」が2つある(「対象を表象する」と「内容を表象する」の2つがある)ということにならないか〉ということかと思われる。本をちゃんと読み返したわけではないが、おそらく自分でもあまり整理した書き方ができておらず、無用の混乱を引き起こすような文章になっているのだろうと思う。あるいは、ただ文章が悪いだけではなく、根本的なところで議論に何か難がある可能性もある。

以下、どういう脳内理解のもとで書いたかを説明する。

説明

基本的な考え方として、言語哲学で言うところの指示と述定の働きに近いものが、ここでは想定されている(本文ではまったく言及していないが)。シミュレーションにおける指示のターゲットが「対象システム」であり、それに述定されるものが「モデルの表象内容」である。

指示と述定とはどういうことか。文を例にすれば、たとえば「土星は太陽系の惑星である」という文では、指示対象である土星に「は太陽系の惑星である」という述語の内容(性質であれ集合であれなんであれ)が述定されている。あるいは、述語「は太陽系の惑星である」が表す命題関数に土星が適用されていると言ってもよい。指示対象が実際に備える性質や分類を述語がきちんと言い当てていれば、その文は真だとか正確だということになる。

シミュレーションにもこれと似た関係がある。太陽系を何か動く模型でシミュレートすることを考えよう(物理的な模型でなくコンピュータプログラムを使ってもいいし、惑星役の人を何人か決めて一定のルールのもとに太陽役の人の周りをぐるぐる回るという人力モデルでもよい)。その模型=モデルは、実際の太陽系を指示している。つまり、太陽系についての(about)表象になっている。一方で、そのモデルは、それ自体が持つ諸特徴とふるまい(いくつの要素を含んでいるか、それぞれの要素はどのように配置されているか、それぞれの要素はどのように動くか、その挙動の背後にどのような法則性があるか、etc.)を、当の指示対象に述定される内容として表してもいる(「表している」が不自然であれば「体現している」や「例示している」と言い換えてもよい)。ようするに、「太陽系ってこんなだよ」の「こんな」の部分を、そのモデル自体の性質が担っている。

もちろん、モデルが持つ性質のすべてが述定の内容になるわけではない。たとえば、模型の絶対的なサイズは、通常の解釈では「太陽系ってこんなだよ」の「こんな」にはとくに含まれないだろう(相対的なサイズは、各惑星の大きさの差を十分気にしている模型なら述定の内容になるかもしれない)。それは別の見方をすれば、モデルの表象内容の真偽や正確不正確を評価する際に、対象システムが持つすべての側面がその内容と比較されるわけではないということでもある

というわけでまとめると、モデルの表象内容と対象システムはたしかに区別されている。しかし、2つの(2種類の)表象があるという話ではなく、ひとつの文が指示と述定の働きを持つのと同じように、ひとつのモデルが対象システムを指示しつつ、表象内容をそれに述定するという働きを持つということである。モデルの表象内容は当のモデルが持つ性質の一部(あるいは一側面)であり、そしてそれが対象システムの(実際の、あるいは虚構的にそうだとみなされている)あり方と比較されることで、真偽や正確さといった評価がなされる。これが『ビデ美』第12章の前半で言おうとしていたことである。

余談:用語法上のよくない点

議論の中身とは別に、言葉遣いの上でミスリーディングな点が少なくとも2つあると思われる。

1つめ。ある種の文脈では、「モデル」は意味論上の措定物として言われるのが普通である(たとえば形式意味論などを想定すればわかりやすい)。一方、『ビデ美』における「モデル」は、シミュレーションという表象において記号としての役割を果たすものとされている。もちろん、意味論上の措定物としてのモデルも現実そのものではないし、『ビデ美』のモデルも結局は別の記号(グラフィックなど)によって表されるものなので両者の用語法にそこまで距離があるわけではないが、どちらかというと『ビデ美』における「モデルの表象内容」のほうを「モデル」と呼んだほうが本来自然かもしれない。このあたりは書いていた当時はちゃんと考えていなかった。

2つめ。これはmurashitさんが指摘していることだが、「表象」という語をけっこういいかげんに使っているところがある。

ここで、「シミュレーション」を虚構的な対象に適用することの妥当性についても軽く検討されている。結論からいえば、モデル化という概念には対象が実在しているという限定はないのだから、とくに問題ないということになる。……それはいいのだが、この節の後半の話がどうもむずかしい。たとえば下記。

モデルは表象内容を持つ。その内容を使って虚構世界が想像される場合には、そのモデルはフィクションであり、その内容を使って現実について何かが主張される場合には、そのモデルは真偽の判定が可能な現実的表象である。

言いたいことはわかる気がするんだけど、前掲の用語法にしたがえばモデルはモデル化に使われるシステムであって表象という関係項ではなかったはずで、フィクションや現実的表象であるというのはなんかおかしくないだろうか。「そのモデル化は」なら意味が通るのでそういうこと? それともなにか勘違いしている?

『ビデ美』では「表象」は記号と内容の関係を指す用語として導入されているはずだが、ここではモデルが現実的表象であると言われていて、なんかおかしいんじゃないか、という指摘だと思われる。これは適切な指摘で、「モデルは現実的表象の働きを持っている」とか「モデルは現実的表象の記号として使われている」と書いたほうが正確だっただろう。

正直なところ、「フィクション」の対立語としてどの語を使うかは少し悩んだところで、「ノンフィクション」を使うのはいくつかの意味で気が引けるので結果的に「現実的表象」を採用したのだが、「フィクション」が記号(の集まり)に与えられる役割や機能や身分を指すのに対して、「現実的表象」が何を指すのかがいまいちはっきりしないという問題が生じてしまったのだと思う。

こういうのは用語を厳密に運用すればするほど文章がゴテゴテして読みづらくなりがちなので、ほどほどのいいかげんさで済ますということをわりとやってしまうのだが、厳密に読む読者相手だとそういう不徹底は容易に見抜かれるのがわかってよかった。逆に言えば、そうした厳密な読みに応えうるような文章だという想定のもとに読んでいただいているわけで、それはそれで大変ありがたいことだなと思う。

おわり。

Footnotes

  • ちゃんと考えているわけではないが、モデルとその内容の関係は、類似による表象というよりはグッドマン的な意味での例示(exemplification)として考えるとすっきりするのではないかと思っている。難波さんのツイートとそれへのリプライを参照。

  • いま書いていて思ったが、記号・内容・対象の3項があったときに、「抽出」や「部分的な類似」は、記号の特徴と内容のあいだにも言えるし、内容と対象の特徴のあいだにも言える。ワイスバーグらが問題にしているのは後者かもしれない。これは区別すべき事柄だが、『ビデ美』ではその点がごっちゃになっているせいで議論がおかしくなっている可能性がある。murashitさんの疑問の根っこもそこにあるのかもしれない。