ウォルハイム『芸術とその対象』書評

Sep 21, 2020|美学・芸術の哲学

リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大訳、慶應義塾大学出版会、2020年)の書評が図書新聞3484号に掲載されました。

紙媒体だけだと読む人がかぎられてあれなので、草稿をここにあげておきます(もともとブログで書きたかったというのもあります。問題があればお知らせください)。


20世紀分析美学の金字塔

20世紀の分析美学(英語圏の美学・芸術哲学)を代表する哲学者を何人か挙げるとすれば、リチャード・ウォルハイムが含まれることは確実だ。アーサー・ダントーやネルソン・グッドマンなどと比べると、分野外でのウォルハイムの知名度は低いだろう。せいぜい「ミニマルアート」の命名者として知られている程度かもしれない。しかし、ウォルハイムが現代の分析美学に残したインパクトは計り知れない。

『芸術のその対象』はウォルハイムの主著だ。初版は1968年刊行だが、翻訳されたのは1980年刊行の第2版である。第2版では6編の補足論文が追加されている。補足論文もそれぞれ特筆すべきものだが、紙幅の都合上ここでは本編を取り上げよう。

本編は「芸術とは何か」という美学のおなじみの問いからスタートする。しかし、そこからストレートに芸術の定義論には進まない。かわりに「芸術作品はどのような存在のあり方をしているのか」という別の問いが設定される。この論点は、現在では「芸術作品の存在論」と呼ばれている分析美学の下位分野に属する。『芸術とその対象』は、グッドマンの『芸術の言語』と並ぶ初期の芸術作品の存在論の金字塔と言ってよい。

議論は「物的対象仮説」つまり芸術作品は物理的な物体(physical object)として存在しているという仮説の検討を軸に展開していく。まず早々に、物的対象仮説は文学や音楽には適用できないという限界が示される。文学作品は本という物体そのものではないし、音楽作品は演奏という出来事そのものではないからだ。個々の本を燃やしたからといって、あるいは個々の演奏が終わったからといって、当の文学作品や音楽作品が消えてなくなるわけではない。

そういうわけで、仮説の適用範囲は絵画や彫刻といった造形芸術に絞られることになる。しかし、ウォルハイムによれば、造形芸術に限定したとしても物的対象仮説に問題がないわけではない。絵画作品や彫刻作品は、物理的な物体としてのあり方とは両立しないような性質をしばしば持つとされるからだ。たとえば、絵画作品は「奥行きがある」とか「中央に空所がある」という性質を持つかもしれないが、物体としてのそれは平らだし穴も空いていない。あるいは、彫刻作品は悲しみや高貴さを持つかもしれないが、当然ながら大理石の物体にそうした心的な性質を帰属するのはおかしい。

問題になっているのは、「再現」(representation; 造形を通した表象のこと)や「表現」(expression; 感情の表出のこと)といった造形芸術作品が一般に持つ働きを、物的対象仮説を維持しながら説明できるのかどうかということだ。ここでウォルハイムは、存在論からいったん離れて、再現や表現の本性という美学のオーソドックスな論点について細かく論じている。とくに再現を説明する中で示される「うちに見る」という概念(正確にはこれは補足論文Vで深く論じられる)は、画像表象の本性を論じる描写の哲学の流れに大きな影響を与えた。

物的対象仮説の対抗説として、造形芸術作品すらも物理的ではないと考える立場がある。ウォルハイムは、そうした対抗説も検討した上でしりぞけている。取り上げられるのは、「観念説」つまり作品は作者の心の中にあるとする立場と、「直観説」つまり作品は直接に経験される現象そのものだとする立場である。この箇所が典型的だが、本書には、対立する説や想定反論を示しつつ、それを攻撃したりそれに応答したりする場面が少なからずある。敵対的な論争を通じて自説を練り上げていくところは、いかにも分析美学らしい議論のスタイルだろう。

音楽や演劇といった上演芸術の存在論についてもかなりの分量が割かれている。そこでウォルハイムは、いまや芸術作品の存在論の基本装備となっている「タイプ/トークン」という対概念を持ち出している。このチャールズ・サンダース・パース由来の対概念を芸術に応用したのはウォルハイムが最初ではないが、後続の存在論の土台になっているのはウォルハイムの議論だ。とくに「クラス」や「普遍」といった近接概念から「タイプ」を区別したのはウォルハイムの功績である。

本編の後半では、「芸術とは何か」という冒頭の問いがあらためて論じられる。そこでは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「生活形式」という概念が呼び出され、言語と同じく芸術もまた生活形式の一種だというテーゼが主張される。この議論は相当難解で正直なところ評者もよく理解できていないが、分析美学者がやりがちな必要十分条件による芸術の定義の試みを拒否しているのはたしかだ。一般的な条件を追求するかわりに、「この事物は芸術作品だ」と個別に判断するさいに人は何をやっているのか、その実践を見ることこそがこの問題を考える上で最適なアプローチだという立場を押し出している。

以上のように、本書では美学の典型的なトピックが相互に関連するかたちで幅広く扱われている。しかし、章分けがされていないこともあって、全体的な議論の流れが散漫に思える(古典らしいと言えば古典らしいが)。その点では、全体のアウトラインと各セクションの要約が示されている巻末の訳者解説が補助線として役立つだろう。また丁寧な訳註も有益だ。訳者の松尾大は評者の恩師なのだが、筆者は本書についた大量の訳註を読みながら、大学の授業で古今東西の美学や芸術論の豆知識を教えてくれる先生の姿を思い描いていたのだった。


あまりネガティブなことは書かなかったですが、本編のほうは正直かなり議論がわかりづらくて読むのがつらいと思います(訳の文体のせいも多少はあると思いますが、基本的に原著の問題)。最低限、冒頭の梗概と末尾の訳者解説で全体の構造を把握してから読んだほうがいいでしょう(それでもかなりきついが)。

その反面、補足論文はそれぞれトピックと論点が明確で、かなり読みやすいです。分析美学の雰囲気もよく出ているので、本編よりはそちらをおすすめします。とくに補足論文V「〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現」は描写の哲学の最重要文献のひとつで必読。

ちなみに『芸術とその対象』のレビューは、すでに銭さん、森さん、シノハラさんがそれぞれブログで書いています。いずれも議論の中身に踏み込んだ紹介をしているので、上記の文章より情報量があると思います。あわせてどうぞ。