「メディア」の多義性について
Dec 04, 2020|その他
以下の記事の続きです。前の記事では主に「メディア芸術」という言葉の起源を問題にしたんですが、そもそもそこでの「メディア」はどういう意味で使われているのかについてもう少し整理しておきます。
一般に「メディア(medium/media)」はきわめて多義的な言葉です(英語でも日本語でも)。この言葉は芸術関係の話題で頻出しますが、その文脈に限ってもまだ多義的です。なので美学芸術学周辺の人であれば、この語の用法が複数あることを十分意識しておいたほうがよいと思われます。
以下3つの用法を挙げますが、いずれも情報や内容の〈媒介者(中間物)〉という本来の語義*をそれなりに引き継いでいるとは思います。
①作品や表現の物質的な支えを指す場合
たとえば、絵画におけるキャンバスや絵の具、映画におけるフィルムなどを指すのに、「medium」という語が使われる場合があります。日本語だと「媒体」「メディウム」「メディア」などと訳されることが多いかもしれません。あるいは作品を作るための道具(絵筆やカメラなど)を含める場合もあります(日本語だと道具は含めないほうが多いように思います)。
この用法は造形芸術(いわゆるアート)の文脈で主に見かけるものですが、たとえば光学ディスクを「(記録)メディア」と呼ぶ場合は、この①のニュアンスが入っていると思います(③も入ってるかもしれませんが)。
②作品や表現のフォーマットやカテゴリーを指す場合
たとえば、文学、絵画、彫刻、音楽、建築、映画、演劇、ダンス、写真、マンガなどのそれぞれを指すのに「a medium」(複数を指す場合は「media」)という語が使われる場合があります。つまり「芸術形式(art form)」とおおよそ同義の用法です(これは古い言い方だと「ジャンル(genre)」と呼ばれたりもしますが、現代における「ジャンル」はより小さいカテゴリーを指すのに使われるのが標準だと思います)。
英語だとこの②の用法は頻繁に目にします。この場合の「medium」は日本語だと「表現形式」などと訳すのがわかりやすいと思いますが、これを「メディア」と訳しているケースもよく見ます(「メディア」が多義的であることを考えれば、まったくおすすめできない訳ですが)。「メディアミックス」の「メディア」などは、この②の用法でしょうね。
この意味でのmediumは、①とちがって物質的なレベルに限定されません。とにかく作品(あるいは作品鑑賞の文化)が属するカテゴリー自体のことなので、受容の慣習や場合によっては公開・頒布の形式もその同一性に含まれます。たとえば、紙の活字の本と紙のマンガは①の意味では大差ないかもしれませんが、②の意味ではまったく別物です。同じように、紙のマンガと電子書籍のマンガは①の意味では相当ちがいますが、②の意味ではそれなりに(場合によっては代替物になりえる程度には)近いものです。
③視聴覚メディアを指す場合
とくに映像や音声を再生する表現形式(②)や媒体(①)を限定的に指すのに「メディア」という言葉が使われる場合があります。つまり「視聴覚メディア」の省略ということです。コンピュータもふつう含まれますが、映画館で流される映画には適用されない気がするので、エンドユーザーが操作可能なものに限定して使われるのかもしれません。
きちんと調べたわけではないですが、この③の用法は日本語だけだと思われます。香川県のゲーム規制条例の問題の際に少し話題になっていた「ノーメディアデー」などは明らかにこの用法ですね。翻案(とくに映像への翻案)の意味で使われる謎語「メディア化」*などもこの用法を引いたものかもしれません。
完全な憶測ですが、③はもともとマスメディアや報道機関を指すものとしての「メディア」から来た用法なのかなと思います(これ自体は英語にもある用法です。注1も参照)。20世紀後半のマスメディアの中心がテレビやラジオといった視聴覚メディアだったことから、この用法ができたのかもしれないということです。
前回の記事で書いたように、「メディア芸術」という名称は、少なくとも当初は主に③の意味を想定してつけた名前なんだろうと思います。結果的にマンガの位置づけが微妙になっているというのは前回書いた通りです。
ついでに言うと、メディア芸術にかぎらず、2000年前後あたりから、大学の新しく作られる学科名や科目名などに対しても「メディアなんとか」という名づけがされることが多くなってきたんじゃないかという印象があります。それらも基本的には③のニュアンスなのかもしれません(同時に①や②やマスメディアやコミュニケーション一般も包括できるという意味で、内実を特定しないで済むワイルドカードとして使われているような気もしますが)。
ちなみに、メディア芸術の一翼にもなっている現代アートの一分野としてのメディアアートは、本来は「ニューメディアアート」と呼ぶべきものだそうで(英語だとふつうに「new media art」が通用している)、その意味では③の用法に近いと思います(そこで言う「ニューメディア」は視聴覚メディアに限定されるわけではないでしょうが、少なくとも20世紀後半以降の新しい技術の大半は視聴覚メディアなので)。
というわけで「メディア芸術」も「メディアアート」も和製語なわけですが、結果としてメディア芸術の下位カテゴリーとしてメディアアートがある(それぞれ英語に訳すと「media art」となる)みたいな地獄みたいなことになっています。関係者であればおそらく全員理解している話なので、そのかぎりではとくに混乱はないと思いますが、部外者とコミュニケーションするときに本来無用の労力が必要になることがあるんじゃないかと思います*。
おわり。
Footnotes
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OEDやOnline Etymology Dictionaryによると、本来の意味は〈(程度や立場の点で)中間にあるもの〉だが、転じて〈何かと何かのあいだを取り持つもの(媒介物や媒介経路)〉という意味が16~17世紀あたりに確立したらしい。そしてそれがさらに転じて印刷出版を指す用法ができたらしい。英語でも日本語でもマスメディアを「メディア」と呼ぶ用法があるが、それはこの印刷出版を指す用法を引き継いだもののようだ。
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余談だが、「メディア化」で少し検索してみたら地獄が広がっていた。ビジネス関係だと、プラットフォームの意味で「メディア」を使っているケースもまあまあ見つかる。いずれにしても「コンテンツ」の対立項として持ち出されているのだろうと思う。
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メディアアートをメディア芸術というカテゴリーに組み込む(結果としてマンガやビデオゲームなどのポピュラーカルチャーと並置し、伝統的な造形芸術や現代アートの他分野から分離する)ことの功罪については、以下の論文が読み甲斐があった。
- 廣田ふみ「「メディアアート」と文化政策、この20年」『情報科学芸術大学院大学紀要』7巻、2015年、pp. 41–46.
指摘されている問題点については著者に同意する。もっと言うと、メディア芸術というのは名称も含めて単純に個々のカルチャーの特質を十分に理解していないことによる筋悪なカテゴライゼーションだと思う(その行政上のカテゴライゼーションによってそれぞれの文化が利益を得る面があるとしても、センスのなさや筋の悪さが帳消しになるわけではない)。もちろん行政側の事情や言い分は別にいろいろあるだろうが、既存の政策にしたがうにしろ新しく政策を立案するにしろ基本的に共有しておくべき前提なので、こういうことは言うべきポジションの人が率直に言っていったほうがよい。以下も参照。