倍速の美学

Mar 30, 2021|雑記

Twitterに書こうと思ったが、長くなったのでこちらで。以下の銭さんによる映画の倍速視聴擁護の記事と、森さんによる倍速視聴批判の記事を読んで思ったこと*

一般的な話として、作者の意図に沿わない/失礼な/正当でない鑑賞を「回復可能性」で擁護するという銭さんの筋は説得的だった。汎用性があるので別の話題でも使えると思う。

一方で、映画の倍速視聴(少なくとも何倍速か以上)に関してそれが言えるという主張にはあまり同意できない(まったく同意できないわけでもないが)。森さんが書いているように、作品鑑賞にとってクリティカルな面の少なからずが回復できないケースが多いと思う。エモーショナルな面はとくにそうだろう*

これは「取りこぼす」というのとはおそらくちょっと違う。取りこぼしている(つまり本来の鑑賞で得られたはずの経験が減っている)という減算的な面ももちろんあるが、倍速にすることで等倍速にはなかった質(美的性質と言ってよい)の経験が新たに付け加わっているという面もある。倍速の美学にとってより重大なのは、この加算的な面だと思われる。

単純な例を出せば、一定以上の倍速にすると動きやしゃべりがコミカルに見える傾向があるというのは比較的共有されている感覚だろう。このコミカルさという質は、感動やサスペンスやホラーような質との両立が一般に難しい。この手のケースにおける回復は、コミカルさを除去したうえで感動やホラーを想像・追体験することだということになるだろうが、それをやるのは相当奇妙な能力を持ってないと困難なのではないか(たとえばコミカルさに対して極度に鈍感であるというような)*

何もない状態から特定の美的性質を想像することはそれなりに簡単にできるかもしれないが、すでにある美的性質を無視して別の美的性質を想像することがそれほど簡単に達成されるとは思えない。銭さん自身、音楽は倍速では聴かないと書いているが、それもテンポによって音楽の美的性質が大きく変わるせいだと考えれば同じ話として理解できるだろう。料理のアナロジーが持ち出されがちなのもそういうことかもしれない。すももがなった木を見てすももの味を想像することはできるだろうが、カレーが口に入った状態ですももの味を想像できるかということだ(よくないたとえ)。

ようするに、倍速否定派が持ち出すべき論点は「倍速で泣ける/怖がれる/ドキドキできるのか?」よりもむしろ「倍速で生まれる変な質が気にならないのか? その質が好きというならわかるがそうなのか?」である。これは失礼説や意図主義を持ち出さなくても言える。

Footnotes

  • 一応注記しておく。銭さんも適切に予防しているが、「時短になるからよい」「人それぞれでよい」みたいなしょうもない話(美学的な意味で)はここでは問題にしない。また、たとえ論法が実質的に無意味というのも完全に同意する。

    余談。おそらく倍速視聴の実践が美学の問題になりえるのは、倍速で見た人にその作品を批評する権利があるかどうかに関わるという一点においてである。ネタバレ論争とはこの点で違う。ネタバレの場合も正当な鑑賞とは何かという問題が部分的に関わるが(とくに森さんは主にそれを問題にしているだろう)、それに加えて異なる芸術観が互いに阻害しあう関係にあるという点でも美学的に興味深い問題になっている。この後者の面は倍速論争にはいまのところない(「倍速批評」みたいなのが一般的になってくれば文化間の対立として表立ってくるかもしれないが)。

  • 一方で、話の筋みたいなのはほとんど問題なく回復できると思われる。倍速肯定派の中には、話の筋だけを重要視している人もいるかもしれない。この点は深堀りしたところで美学的な鉱脈はとくに何も出てこない。映画鑑賞(というかフィクション鑑賞一般)において話の筋だけを気にするような態度は個人的には趣味が悪いと思うが、それこそ人それぞれの好みや生き方の問題であり「そうですか」で終了の話である。ただ上の注で書いたように、そういう人が作品の「批評」をしようとしてきた場合はちょっと待てと言わざるをえない。

    余談2。ネタバレ論争でネタバレ否定派が気にしているのは基本的に話の筋の問題である(オチを先に知りたくないという)。それゆえ、話の筋のみを重視する倍速肯定派の人がネタバレを否定するのか(話の筋は順を追うことが重要だから)、あるいは肯定するのか(ある意味で最高の倍速だから)は興味深い。

  • ある意味での「想像」はできるかもしれないが、それはかなり「冷めた」というか三人称的な想像になるだろう。もちろん冷めていても(あるいは冷めていてこそ)真正な鑑賞なんであると言えるケースは少なくないとは思うが、それが言いづらいケースも多いだろうし、そもそも倍速否定派が気にしているのは後者のケースだと思われる。