ゲームにおける3つの「フィクション」
Oct 28, 2021|ゲーム研究
「フィクション」という語には複数の使われ方があるという話。よく聞かれることなので、整理もかねてまとめておきます(以下の内容は『ビデオゲームの美学』におおむね書いていますが、読むのが大変だと思うので)。以下「ゲーム」は、ビデオゲームとそれ以外のゲームの両方を含みます。
A. 虚構世界を表すもの
いわゆるフィクション作品のこと。映画、演劇、小説、マンガといった芸術形式の作品の大半はこの意味でのフィクション(以下フィクション(A))であり、フィクションの哲学が論じているのもこれである。
フィクション(A)は、「虚構世界を表すもの」として特徴づけてもいいかもしれない。この特徴づけはあまり正確ではないと思うが(たとえば、世界を持たないフィクション(A)はどうするのか、虚構世界とは何か、フィクショナルキャラクターの指示の話はまた別なのか、といった疑問がありえる)、だいたいの意味と外延は伝わるという意味で十分だろう。ポイントは、虚構世界やそこでの出来事は普通の意味で現実の空間に存在しない(とわれわれが見なしている)ものだということである。
一部のゲームは明らかにフィクション(A)の側面を持つが、すべてのゲームがそうであるわけではない。たとえばアブストラクトゲームにはこの側面がほとんどない。ユールが『ハーフリアル』で言うように、ビデオゲームは伝統的なゲームに比べてフィクション(A)の側面がかなり強い傾向にある。
B. 制度
貨幣、法律、交通ルール、試験、組織内の決まり、ローカルなマナー、etc. これらは一般化すると「制度」と言っていいが、そうした制度全般を「フィクション」と呼ぶ言葉づかいがある(あるいはもうちょっと一般化して、構築物全般かもしれない)。
この言葉づかいは、大ざっぱな議論では頻繁に目にするものだが(たとえば、ハラリ『サピエンス全史』)、制度についての専門的な議論ではあまり見かけない印象がある(日本語と英語圏とで違う可能性もある)。たとえば、サール『社会的世界の制作』では、制度と制度的事実は「構成的規則」や「共同信念」といった概念で説明されており、「フィクション」や「メイクビリーブ」は持ち出されていない。
ビデオゲーム以外のゲーム、たとえばボードゲームやスポーツは、この制度としての性格をわかりやすく持っている。制度や規範の本性を考えるための題材としてそうした伝統的なゲームが取り上げられることもある。マルチプレイのビデオゲームにもフィクション(B)の側面はそれなりにあるだろう。
一方で、シングルプレイのビデオゲームがフィクション(B)としての側面を持つかどうかは議論がわかれるところかもしれない。個人的には、シングルプレイのビデオゲームにも制度の側面があるとは思うが、ボードゲームやスポーツなどと比べればかなり限定的だとは思う。
C. 日常生活からの分離
さまざまな制度のうち、日常生活から相対的に切り離されて成り立っているものがある。儀式などがわかりやすい例だが、古典的な遊び論では、遊び・ゲームもまたこの性格を持つものとして特徴づけられてきた。この特徴を指すのに、悪名高い「マジックサークル」という語が使われることも多い。
- 拙稿「ゲームの内と外? マジックサークル再考」参照。
遊び論の文脈では、この特徴はしばしば「現実からの分離」や「二次的現実」などと呼ばれてきた。つまり、「現実」との対比で語られてきた。その意味で、この特徴を「フィクション」や「虚構」と呼びたくなる人はいるだろうし、実際にそういう言葉づかいを使う人もいるだろう(カイヨワなどはこの点ではかなり慎重な言葉づかいをしているのだが、とくに注意せず読むと「二次的現実」と「虚構」を同じ意味で使っているように読めてしまう)。
ある制度がフィクション(C)であるかどうかは、それが日常的な利害関心からどれだけ切り離されているか、ほかの諸制度とどれだけ強く結びついているかいないかという話であり、相対的な程度の問題である。現代社会で生活をするうえで貨幣制度に巻き込まれないということはなかなか難しいが、校則や就業規則は組織に所属するあいだのみ機能するものであって、組織を辞めてしまえば制度から離脱できる。子どもたちがプレイするスポーツやボードゲームの制度は、その場の参加者が規範を守っているかぎりでのみ維持される(それもスポイルスポートが発生すれば容易に瓦解する)。白線を踏み外したら死ぬ1人遊びは、自分の心の持ちようでどうとでもなる制度である。
よく言われることだが、フィクション(C)をゲーム一般の特徴と見なしてしまうと、プロスポーツなどが説明しづらくなる。ビデオゲームの場合でも、シングルプレイはともかく、マルチプレイのゲームにこの特徴をストレートに当てはめることに違和感を覚える人はいるだろう(「マジックサークル」の批判者の多くはこの観点から批判している)。いずれにせよ、多くのゲームがこの特徴を持つ傾向にあるとしても、あらゆるゲームに言えることではないし、そもそも程度差の問題であるという理解をしておくのがいいと思う。
疑問への応答
以上の違いはわかるものの納得できないという人は、おそらく以下のいずれかだと思われる。
- ① なじんでいる言葉づかいを変えることのハードルが高い。
- ② 「フィクション」という語の使い方にこだわりがある。
- ③ 違いはわかるが大きく考えれば同じに思える。
それぞれに対する応答は以下の通り。
- ①に対して:応答はとくにないが、コミュニケーションが難しそう。
- ②に対して:①と同じく言葉づかいの問題でしかないが、もし分野間で術語としての使い方が違っているなら、お互いに譲れないということになるかもしれない。とはいえ、その場合でも、お互いにお互いの用語法を理解しておけばたいした問題は起きないだろう。
- ③に対して:制度に関する虚構主義をとりたがる(メイクビリーブで説明したい)人はそれなりにいるようだが、正直モチベーションが二重の意味でわからない。
- 制度概念で十全に説明できているものについてメイクビリーブを持ち出す意味がわからない。そもそも、ウォルトンの理論自体が、フィクション(A)の受容実践をある種の制度(ウォルトンの言い方だと「ゲーム」!)として考えるというプロジェクトのはずで、説明の方向が逆だと思う。「想像」や「共同信念」が制度一般に必要という話ならそのように言えばいいのであって(というか人間生活のかなりの部分で必要だと思うが)、「フィクション」や「メイクビリーブ」という概念を持ち出す必要はまったくないように思える。
- 明らかに別々に取り扱えるものをまとめて考えられる上位概念が仮にあるとして、それが言えて何がうれしいのかわからない。「これとこれは似てる」と言えるとうれしいということなんだろうか。
余談
もうひとつ、上記のABCに加えて、表象作品全般を「フィクション」と呼ぶ言葉づかいもある(いわゆるウォルトフィクション)。これはたんに無茶な用語法を理論的に導入しているというだけの話なので無視してよいものだが、ウォルトンがフィクションの哲学の代表者とされるかぎりで弊害は小さくない。
おわり。