上野「ゲームにおける自由について」の感想
Mar 24, 2023|ゲーム研究
今月に出たらしい以下の論文を読んだ。
- 上野悠「ゲームにおける自由について:行為の創造者としてのプレイヤー」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』68号、2023年 https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2023/03/UENO-Yu_0615-0631.pdf
Twitterでも少し感想を書いたが、他にも気になったことが複数あるのでブログでまとめておく。
トータルの評価としては、主張の説得力、先行研究のまとめの的確さ、得られる示唆の多さといった点で優れた論文だと思う。その一方で、論点の整理と議論の運び方の点で不十分・不明瞭ではないかと思える点が複数ある。一言でいえば、論文全体として何を問題にしているのかがわかりづらく、節ごとに論点が散らかっているように見える。そのへんを中心に長めにコメントする(このブログ記事自体も論点が散らかっているかもしれない)。
遊戯論の「自由」との関係について
伝統的な遊戯論の中で遊びやゲームの特徴のひとつとして挙げられる場合の「自由」は、基本的には参加の自由のことである。おそらく「自発性」「非‐被強制性」「非義務性」などと言い換えたほうがポイントがわかりやすい。ホイジンガが遊びの「形式的特徴」のうちの第1特徴として挙げている「自由」もこの意味だし、カイヨワの定義論における第1項の「自由」もこの意味である*。
ホイジンガ自身も少し言及しているように、この意味での「自由」は、ゲームのルールが一般に持つ強制力(それもかなり強力な強制力)と一見相反するように見えるかもしれない(少し考えればとくに相反するものではないことがわかるし、「弁証法」的なプロセスがつねに起きるわけでもないと思うが)。上野論文の前半で言及されるデ・ムルや吉田が「自由」およびその対立項としての「規則」という語で何を問題にしているのかはあまりはっきりしないものの、おそらく、このぱっと見の食い合わせの悪さをどう整合的に説明できるか、あるいは「ルールにもとづく自由」あるいは「ルールの範囲内での自由」というゲームが一般に持つ特徴をどのように理解し、そこからさらなる考察を進められるか、といった問題設定のもとで議論を展開しているのだと思われる。
おそらくこの論点についてスマートな解決を与えている論者は、バーナード・スーツだろう。有名な“lusory attitude”という概念*は、ゲームルール(そのゲームの参加者に対して強力な強制力を持つもの)の受け入れが自発的になされることを、ある種の独特な心的態度としてとらえるものだ。ようするに、ゲームにおいて、ルールそのものは(それが受け入れられているかぎりで)強制的だが、そのルールを受け入れるかどうかは自由になるということだ。スーツは、この心的態度をゲームをプレイすることの定義的特徴のうちに組み込んでいる。
“lusory attitude”の概念は、一般にゲームのルールが道徳的価値や日常的な有用性のもとで評価するかぎりは非合理的なものである(言い換えれば、当のゲームの外では何の意義もなければ何の役にも立たない)という常識的な事実をうまく説明している。これは、スーツが他の論文で明示的にその語を使っているように、ゲームが一般に持つ「自己目的性」を説明する概念だと言い換えてもいいだろう*。
ここまでは教科書的な話である。上野論文で最初で引っかかったのは、そこで論じられる「自由」が上記の意味での「自由」とは別の話題に見える点だ。そうなっている理由のひとつは、デ・ムルや吉田の問題設定(およびそのもとでの「自由」という語の用法)を引き継いでいるからだと思われる。著者によれば、デ・ムルや吉田が論じている「自由」は、〈①規則からの逸脱やその転覆〉としての「自由」や、〈②ゲームメカニクスを自分のものにしていると感じる経験〉としての「自由」だということだが、いずれの「自由」も上記の「自由」とは明らかに意味が違う。
著者も適切に接続しているように、①はシカールによる「流用」の議論に直結するものであり、その意味で伝統的な遊戯論の「自由」についての議論との接点は多少あるかもしれないが(とはいえ「自己目的性」と「流用」は別概念だし、どちらかがもう一方を含意する関係でもないが)、②はまるで関係のない話だと思う。②はむしろ、ゲームをプレイしているときの「自在さ」あるいは”mastering”といった言い方で記述できるような一人称的経験の話だろう。その点で、②はチクセントミハイの「フロー」により近い話題だと言ってもいいかもしれない。
もちろん、自己目的性や自発性に関わる意味での「自由」を問題にしているのではないことは著者も承知の上だろうが、であれば、論文冒頭の「遊びやゲームをめぐる議論において〔…〕おそらく多くの場合は、遊びの本性が自由概念と密接な関わりがあると考えられている一方で、ゲームはむしろルール(規則)があることによって可能になるものであると考えられていることが焦点となっている」といった書き出し*はミスリーディングだろう。遊戯論で問題にされてきた意味での「自由」は、この論文内でまったく扱われていないように思えるからだ。
そういうわけで、「この論文では「自由」という言葉を取り上げるものの、その語のもとで従来論じられてきたのとは全然別の話をします」と明確に書いてくれたほうがわかりやすい(これは吉田の議論にも言える)。
「自由」という語に焦点をあわせることについて
著者は、ゲームにおける「自由」についてのさらに別の理解として、オープンワールドジャンルのビデオゲーム作品についてのライターの文章を持ち出している。そこで問題にされているのは、乱暴に単純化すれば、ひとつは〈③あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ〉としての「自由」であり、もうひとつは〈④ゲーム上の事柄を自分事として(あるいは自分の行為に「意味」を与えるものとして)感じられること〉としての「自由」である。③は俗に「自由度」と呼ばれるものであり、④は俗に「没入」や「感情移入」(英語であれば“identification”や“agency”や場合によっては“ownership”)と呼ばれるものだと思われる。やはりいずれも、上に挙げた遊戯論における「自由」とは直接には関係のない話だ(④は②には関係するかもしれない)。
著者は論文の冒頭で「自由度が高い/低い」という言葉づかいに言及しつつ、それがゲームにおける「自由」を考える際の参考材料のひとつになりえるかのように書いているが、③を指す用語としての「自由度」は日本ローカルなスラングであって、英語その他の言語でそのような表現をすることは(少なくとも確立した用語法としては)ないと思う。むしろ“immersive”という語が(④のニュアンス込みで)③に結びつけられることのほうが多いかもしれない(それはそれで変な用語法だとは思うが)。
ようするに、〈プレイヤーに与えられる選択肢の幅の広さ〉という概念と「自由」という語は、たまたま日本語の俗語において結びついているだけで、そこにとくに深堀りすべき論点はないだろうということだ。無用の混乱を少なくしたいなら、ゲームや遊びにおける何らかの重要な意味での「自由」の話と、俗語の「自由度」の話は、基本的に混ぜないほうがいいだろう。
また、「自由」という語で④の経験を指し示すのは、かなりの突飛さを感じる。引用されているライターの渡邉卓也が「自由/不自由」という語を使って④について論じているのは事実そうなのだろうが、引用者には、その用語法がまともに引き受けるべきものなのかどうか(ひいてはその用語法のもとで論じられている問題を自分の議論のうちに引き込むことが自分の関心にとって必要なのかどうか)をまず検討する責任があるはずである。第4節の文章を読むかぎり、「自由/不自由」という語が使われているから引用してみたというふうにしか見えず、それまでの論点との内在的なつながりが見えない。
上で書いたこともそうだが、これらの難点は、この論文の問題設定がもっぱら「自由」という言葉にもとづいていることに起因していると思われる。言葉にこだわっているおかげで、ゲームや遊びをめぐる議論において「自由」という語がいろいろな文脈においていろいろな意味で使われているということの説明がまとまりなく続くはめになっているのではないかということだ。
この種の哲学的な議論で重要なのは、特定の言葉に焦点をあわせるにせよそうでないにせよ、とにかく自分の問題意識(何に関心を持って何を論じたいのか)を十分に整理したうえで、論文内でそれを明示することである。仮に「自由」という言葉の多義的な用法に関心があるなら、いろいろな用法を延々と挙げていくことが重要になるだろうが、おそらく著者の関心はそこにはないだろう(もしそういう関心のもとで書かれているのであれば、不要な部分が大量にある)。むしろ、「自由」や場合によってはそれ以外の言葉で指し示される、ゲーム(や遊び)に関連する何らかの事実や経験や現象やそれらのパターンこそが関心の対象ではないのか。
実際のところ、第4節の最後で著者は次のように書いている。
以上の議論を踏まえて、本論では「ゲームにおける自由」を「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」として考えることとする。
おそらく、この意味での「ゲームにおける自由」がこの論文における著者自身の関心の対象なのだと思われる。とはいえ、論文内でこの問題設定を提示するために必要なのは、せいぜい渡邉の議論以降だけであって(あるいは吉田の議論を少し引いてもいいかもしれないが)、それ以前の議論はほぼすべて不要だろう。加えて、そのようにしかじかを「実感できること」という経験を「自由」という語で呼ぶことの合理性もまったくないように見える(渡邉がそれを「自由」と呼んでいること以外に)。
「自由」という言葉をキーワードとして持ち出さなければ、この問題関心はもっとスマートに提示できたはずだ。繰り返しになるが、「自由」という言葉にこだわって議論を進めているせいで、全体としてのまとまりがなくなっているのではないかと思う。
プレイスタイルの哲学
論文全体の中で、最後の第5節は著者のオリジナルの主張がもっとも明確に示されている箇所に見える(それは論点が明確だということでもある)。ここでは、前節の最後で示された問題関心を引き継いで、「ゲームにおける自由」=「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」はどのような条件のもとで成立するのかを考えるという内容になっている。
Twitterにも書いたが、「ゲーム行為は「何を」するのかという見方と「どのように」するのかという見方の二つの側面から理解することが可能」であり、かつ〈それら2つの側面の区別は目的/手段の区別とは異なる〉という著者の主張はもっともだし、啓発的でもある。行為の哲学の中でそれに近い話はあるかもしれないが、ゲームをプレイする行為の話題でその区別を指摘しているものはこれまで見たことがない。そして、2つのうちの「どのように行為するか」の側面のほうが、「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」という経験に関係するという主張も十分に説得的だと思う。
これもTwitterに書いたように、ここでの「何を/どのように」の区別(著者の用語だと「行為の抽象的内容/行為の実質的内容」)は、美学における美的性質についての議論や上演芸術の上演とのアナロジーを援用すればもう少し概念的に整理したかたちで言い換えられる(そしてさらなる議論につなげられる)とは思うが、それはともかく、この区別を明確に提示している点、またゲームのプレイにおいて「行為の実質的内容」のレベルが自己実現や自己表現の媒体になりえることを指摘している点は、この論文の成果として非常に重要である。
ゲームのプレイを通した自己表現・自己実現というテーマは、「プレイスタイル」という言い方で論じられることがたまにあるが*、これは突き詰めればゲームをプレイする意味(さらに突き詰めれば人生の意味)につながる話だろう。著者がそこまで見通しているかどうかはわからないが、このテーマの射程はかなり長く、またそれは生産的な方向だと思う。その点では、この論文で示されたアイデアを引き継ぎつついろいろ考えたいと思わせてくれる論文だった。
おわり。
Footnotes
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もっとさかのぼれば、シラーがベースにしているカント『判断力批判』における有名な「悟性と構想力の自由なたわむれ」における「自由」も、通常の認識モードに課される目的と制約から解放されたかたちで認識能力たちが「遊ぶ」という意味で使われているという点では、ある程度近い意味だと言ってよい。実際、カントによる趣味判断の特徴づけのこの箇所は、文字通りの遊びやゲームについて言われる意味での「自己目的性」にきわめて近い発想だと思う。
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余談:前から言っているが、『キリギリス』の邦訳だと“lusory attitude”は「ゲーム内部的態度」と訳されているが、意味的には「ゲーム参加の態度」などと訳すべきである(スーツ独自の言葉づかいなので訳が難しいのはわかるが)。少なくとも「内側の」のようなニュアンスを持つ訳語は誤読を招く。「内部的」を「内側に入る際の」と読み替えられるならいいかもしれないが、「内部的」という語からそのような読みは普通できないだろう。
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余談:スーツによれば、“lusory attitude”はゲームの目的にいたる諸手段に対するルール=制約を自発的に受け入れる態度だとされている。一方、拙著『ビデオゲームの美学』における「ゲーム行為」の特徴づけでは、目的およびそこから生じる手段系列の全体が自発的に受け入れられるという話になっている。一種のメタレベルの行為あるいは態度(ゲームに参加する行為・態度)がゲームをプレイするという行為の特徴づけにとって決定的に重要だと考えている点では、スーツと私の立場は一致しているが、自己目的性の説明が手段の制約ベースか目的手段の系列ベースかという点では異なっている。
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ついでに、この書き出しの内容そのものについてもコメントしておく。論文の構成(第2節から第3節の流れ)にも関わる話だが、「遊び」と「ゲーム」を対比させた上でそれぞれの「自由」について何かを論じる議論は、少なくともホイジンガやカイヨワにはない(これはオランダ語、ドイツ語、フランス語の語彙の事情によるものでもある)。実際、それぞれの邦訳書で「遊び」と訳されているものを「ゲーム」と読み替えたほうがしっくりくる場面が少なくないだろう(とくにホイジンガの議論ではそうである)。上野論文の注1で引用されているように、たしかにカイヨワは「ルドゥス/パイディア」という古典語を借用した独自の用語法を使ってルールによる縛りが強いタイプの遊びとそうでないタイプの遊びを区別しているが、ルールの縛りが少ないことと「自由」を結びつけているわけではない(少なくとも『遊びと人間』第1章の定義論の箇所では)。端的に言えば、ホイジンガやカイヨワの議論において、「自由」は(ルールによる縛りが少ないものとしての)「遊び」だけでなく(十分にルールによって制約されているタイプの)「ゲーム」の特徴としても言われているのである。
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主張やその背後にあるゲーム観には同意できないものの、プレイスタイルの大事さを教えてくれる論文(についてのやりとりのまとめ):