井奥『近代美学入門』の感想
Oct 08, 2023|美学・芸術の哲学
ご恵投いただいたもの。いい本なので宣伝も兼ねてレビューする。
全体の感想
本当の初学者(たとえば学部一年生)でも十分に理解できる程度の易しさで書かれている。構成がわかりやすく、言葉づかいや文体もするっと読めて、それでいて重要なポイントがどこかがはっきりわかるようになっている。出てくる例もわかりやすい。
概して帯文はオーバーだったり嘘をついていたりするものだが、この本の「難しいと思っていた美学が、よくわかる」は偽りのない宣伝文句だと思う。
本書には、「読者はこういう理解をしているかもしれないけど、そうじゃなくてこうだよ」というかたちで、想定される誤読をあらかじめていねいに防いでいる箇所がけっこう多い。これはたとえば佐々木『美学への招待』などと比べたときの、本書の際立った美点のように思う。
美学(あるいは哲学全般)は、問題意識や議論の内容が初学者にとってなかなか理解しづらいらしく、結果としてテキストに書いていないことを読者のほうで勝手に読み込んでしまうタイプの誤読が生じることが少なくない印象があるのだが(これは自分の経験として日々感じていることである)、その点本書では、ていねいな誘導によってその種の誤読をかなり避けられるような工夫がなされている。この工夫は、今後自分が入門的な文章を書く際や授業をする際にも参考になりそう。
類書との比較
オーソドックスな美学や美学史について概説した入門書のうち、このレベルの難易度設定のものだと、おそらく他には佐々木『美学への招待』くらいしかない。小田部『西洋美学史』や佐々木『美学辞典』ははるかに難しいし、源河『「美味しい」とは何か』は難易度は近いが内容の方向がだいぶ違う。
『近代美学入門』は、『美学への招待』と比べても読みやすい文体だし(一文一文が短くすっきりしており、年寄りくさいだらだらした文章になっていない)、話の流れもポイントもわかりやすい。
加えて、あくまで「近代の」美学をメインに紹介しますという一貫したコンセプトによって、たとえば現代アートがどうのアートの制度がどうのみたいな美学の入門にとってノイズになりがちな論点*をはじめからある程度除外している点も、おそらくわかりやすさに寄与している。これは、近代美学の入門書としてだけでなく、美学の入門書としてもいいことだと思う。「芸術」や「美的」や「趣味」や「天才」といった美学のコアにある(そしていまだに民間美学では幅を利かせている)conceptionsは、結局のところ、その成立期である18世紀前後に出揃うわけなので。
そういうわけで、本書はとりあえず初学者に一番最初にすすめられる美学入門書の新しいスタンダードになるのではないか。
各章のポイントといいところ
以下、各章のレビューを簡単に書いておく。この記事自体、美学でどういう論点が扱われているかを部分的に紹介できればいいという意図で書いているので、本書の内容に加えてそれを補足する記述も含めている。
第1章 芸術
「芸術」という括り(カテゴリー)がどのようにして成立してきたかを主に説明している章。
このトピックが論じられる場合、言葉の問題に注意が向けられることが多いのだが(「アート」の語源はラテン語の「アルス」で、それはギリシア語の「テクネー」から来ていて~という例のやつ)、本書は、あくまでグルーピング(カテゴライゼーション)の変遷という観点から、近代的な芸術概念の成立史を整理している点が非常によい。具体的には、古代ギリシアにおける模倣(ミメーシス)の技術という括り、中世におけるリベラルアーツとメカニカルアーツの区別、メカニカルアーツの中での三造形芸術(建築・彫刻・絵画)の地位向上と新旧論争を経て、「美しい諸技術(ボザール)」という近代的な括りの成立へという、教科書的な内容が書かれている。
これらは基本的にはクリステラーによる古典的な議論に沿った説明だと思うが、その定説に対する最近の異論(+その異論についての著者のコメント)を含めている点もとてもよいと思う。
概念史に加えて、現代的な芸術定義論(分析美学でなされてきたようなプロフェッショナルな定義論というよりは、民間美学でさかんになされる素朴な「~は芸術である/でない」言説のほう)とどう付き合うかについても多少言及されている。いいパラグラフがあったので引用しておく。
ちなみに私は和菓子が芸術かどうか決定したいわけではありません。「~は芸術か/芸術である/芸術でない」ということが人々のあいだで実際によく語られる以上は、芸術の可能性を狭めないようにしながら思考を整理することが、美学に携わる者の務めだと考えています。そしてその整理のために、近代的な芸術の概念はひとつの目安として有効だと思います。(p. 72)
第2章 芸術家
アーティスト(その能力や行為)に帰属されることの多い美学的な諸概念(天才、オリジナリティ、クリエイティビティ、インスピレーション、自己表現、etc.)の成立史を主に取り上げている章。最後の節で、意図論争や「作者の死」を含む作品解釈をめぐる議論が少し紹介されている。
自分があまり勉強していないトピックが多い章なので正確なレビューができないが、おおよそ他の文献で読んだことのある内容がわかりやすくまとめられているので、スタンダードな教科書的説明と考えて問題ないと思う。とりわけ、現代における典型的な「アーティスト」像が近代に構築されたものだというのは、少なからぬ人がはっとさせられる話ではないかと思われる*。
美学にはじめて触れる人にとってとくに知っておくべき重要なポイントは、新旧論争でも問題になっていたような自然科学と芸術の違いが、「天才」の種類の違いとして(ようするに使われる能力の違いとして)語られるようになったという部分かもしれない。この論点は、その「技」が理論化・規則化できるかどうかも含めて、第3章の美の特徴づけの話にもつながるもので、美学という分野のもっとも根本にあるconceptionだと言っていいだろう。カントの見解を紹介している箇所を引用しておく。
近代美学の古典『判断力批判』(1790)のなかで、彼〔カント〕は次のように言います。自然科学の天才は、ニュートンが『プリンキピア』(1687)を執筆したように、自分の発見を理論にできる。それによって他の人も学べるのだから、ニュートンと弟子には程度の差があるにすぎない。しかし芸術ではそうはいかない。それゆえ芸術家こそ天才と呼ばれるにふさわしい、と。(p. 100)
あとエイブラムズ『鏡とランプ』がわりとしっかり紹介されていてよかった。
第3章 美
美は主観的か客観的か、規則化可能か規則化不可能か、といった美学の根幹にある論点を取り上げる章。美を感じる能力としての趣味(センス)の話は当然言及されるが、加えていわゆる「美の自律性」(自己目的性)の話もこの章で扱われている。
他の章と同じく、どちらの立場が正しいかを論じるかのではなく、それぞれの見解(あるいはその中間の見解)が歴史的にどのように形成されてきたかの言説史を追うという構成になっている。かなりわかりやすく書かれており*、話題としても面白いので、個人的に一番おすすめの章。
前半は「客観主義」と呼びうる立場がいろいろ紹介され、ピュタゴラス主義に代表されるようなプロポーション理論の説明(美はいい感じに釣り合った比率によって決まる)、「多様の統一」概念の説明(要素がたくさんあって複雑だが、全体としてはまとまりがあるのが美)、プロポーション理論が人体の美を範例として考えられていたことの説明、黄金比と美の関係の歴史についてのちょっとしたコメント、といった内容になっている。
後半は、大まかには「主観主義」と呼びうる立場が近代になって登場してきた(そしてそれが現代にも受け継がれている)という内容。まず、主観主義への傾きを後押しした同時代的な状況として、科学革命とイギリス経験論の勃興が挙げられ*、経験論者(具体的にはバークとヒューム)による美についての議論が紹介される。
ヒュームのうちにすでに客観主義的な成分(正確には、美の根拠は対象のうちにもあるという譲歩)が含まれていることを確認したのちに、それを引き継いで主観主義と客観主義の「調停」をした論者(そしてその後の近代美学を方向づけた論者)としてカントの議論が紹介される*。
このへんは教科書的な内容ながら初学者にとっては相当難しい話だと思われるが、具体例も含めてかなりわかりやすく書かれている。美は主観主義と客観主義のはざまにあるという考えがなぜ一定の説得力を持つのかを示す具体例を出している部分を引用しておく。
普段の生活のなかで、あるものについて美しいかどうか、論争とまでは言わなくても会話したくなるときがあると思います。
誰かと一緒に美術館や映画館に行ったあと、感想を話していて意見が食い違ったとき、相手が自分の感じ方に最終的には共感してくれることを期待しませんか。また、夕陽に染まる空に思わず見惚れたときなどに、その場にいる他の人々も同じように感じることを前提に「きれいですね」と言い合うことがありませんか。そうしたときには「きっと昔の人も同じように空を見上げたはずだ」とさえ思うかもしれません。
こうした言動はすべて虚しいことなのでしょうか。美は徹底して孤独なものなのでしょうか。カントを読めば、これに対してひとつの答え方を知ることができます〔……〕。(p. 171)
美学という研究分野が独立して存在するひとつの理由は、まさに美(美的なもの)が備えるこの独特の特徴―主観的に感じるものでありながら、他人との共有ができる(少なくともそれができると期待される)という特徴―にあると言ってよいと思う*。
第4章 崇高
美とは異なるタイプの美的性質としての崇高が取り上げられる章。初学者にとって「崇高」とか言われてもそれだけではぴんとこないと思うが、具体例がいろいろ出されて、こういうのが美学で問題にされてきた崇高という感情(感じ)ですよ、という説明が十分になされている。
ある種のこわさ、畏怖、理解のできなさといった(通常は)ネガティブな気持ちと、すごさ、すばらしさ、偉大さといったポジティブな気持ちがないまぜになっているのが崇高というものだが、そういうある種の「美的な感じ」が近代ヨーロッパにおいてどのように自覚され、そしてそれが自然(たとえば山)や廃墟を美的に鑑賞するという同時代の文化的実践とどのように結びついていたかという文化史的な側面が主に扱われる。ここらへんはまともに勉強していないので、なるほど勉強になりますという気持ちで読んだ。
そのうえで、バークやカントによる崇高の特徴づけ(美との対比も含め)が紹介されている。私が崇高の話が苦手というのもあるかもしれないが、そもそもの議論の内容の難しさもあって、ここの記述はやはりちょっと難しく思える(とくにカントの議論)。
この章と次の章は全体的に具体例と図版が豊富で、その点で楽しめるところは多いかもしれない。
第5章 ピクチャレスク
崇高に続き、美とは異なる近代的な美的カテゴリーとして、ピクチャレスクが取り上げられる章。5章のうちの1章をまるまるピクチャレスクに割くのは、美学の入門書としてはけっこう特色のあることだと思う。
この本全体を通じて意識的に採用されているスタイルなのだと思うが、この章でも、同時代的な文化的実践(具体的には、風景画というジャンル、旅行、造園など)と関係づけながら、ピクチャレスクという概念の成立史がたどられている。
導入部分では、「絵になる」や「フォトジェニック」といった自然に対して適用されがちな現代の美的述語がまず取り上げられ、ピクチャレスクもそれに近いが多少違う概念であることが説明される。ピクチャレスクもまた、崇高と同じように、自然を美的に鑑賞する実践と密接に結びついた概念だが、崇高と違って、こわさとか無秩序さの側面に注目するのではなく、むしろ穏やかさや調和に注目する点では美に近い質だとされる。
私はピクチャレスクへの関心はあまりないのだが、個別の美的性質の特徴を取り上げる際の論じ方としてピクチャレスクについての議論が参考になる面が少なからずある。近代に比べれば、現代では個別の美的性質(とそれを指す美的述語)が圧倒的に多様化している(そしてそれがパターン化・概念化されたかたちで整理されることもしばしばある)*。そのそれぞれをどのように特徴づけ、美学的な議論の対象にすることができるか(あるいはできないか)ということを考えるときに、ピクチャレスクについての議論はいろいろと役立つかもしれない。
最後に、自然と芸術の関係について、古典的な考え方に見られるような自然を芸術が模倣するという方向だけでなく、芸術(風景画)が自然の見方を左右するという方向もあるという話題が取り上げられている。本書では詳しく取り上げられていないものの、これもまた美学史上繰り返される論点のひとつであり、たとえばグッドマンも有名なオスカー・ワイルドの警句(とされるもの)*を引きながらそういうことを論じている。
Footnotes
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「ノイズになりがち」というのは別に現代アートをディスっているわけではなく、スタンダードな美学を知るうえであまり関係のない話になりがちということ。もちろん、それを「スタンダード」と見なすことに対する批判はあってしかるべきだが、入門の段階でそんな話をされても読者はこんがらがるだけである。これは「哲学入門」と称していきなりポストモダンから入るみたいなやり方が、教育としてろくに機能しないというのに近い(これも何が「よい教育」かについての考え方次第で異論はありえるだろうが)。加えて、『近代美学入門』では、近代美学の権威性とそれを批判的に見ることの重要性についても、それなりに配慮のある記述がなされている(その点についての記述が十分だとは思わないが、それは他の文献で読んだり、自分で考えればいいことである)。
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そういう思想上の変化の背後には、明らかに啓蒙主義(神概念に担わせる役割を相対的に低下させつつ、人間の諸能力およびその涵養可能性/不可能性を関心の中心にすえる思想)の潮流があるはずだが、そして当然著者はそのことについても十分に了解しているはずだが、本書にはそのへんについての踏み込んだ記述はない。入門書としての性格上そうなるのは仕方ないものの、美学に関連するconceptionsの重要な特徴はこの点を深掘りすることで見えてくる面が少なくないだろう。
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著者自身は、あくまで「大きな流れを図式的に説明」するという言い方で、そのわかりやすさによって正確さが多少犠牲になっていることに十分注意を促している。このトレードオフは入門書や概説を書くときには避けられないものなので、とくに本書にとってのマイナス面になることはないだろうが、読者がわかりやすい図式に引きずられないようにあらかじめ釘を刺しておくというのは必要な工夫だと思う。
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ここで、客観主義的な美の理論に疑いが持たれ始めたことと、17世紀の科学革命(とくに天文学上の新知見)を関係づける記述があるのが興味深い。たとえば、天体運行の観測および理論化の進展によって、惑星の軌道が真円ではなく楕円であることなどがわかった結果、従来の幾何学ベースの宇宙観が否定され、それに同期するかたちで美についての思想も決定的に変化したというストーリーだ。そんなに単純化していいものなのかどうかはわからないが、大きく見ればイギリス経験論も17世紀科学革命に同調する思想的動向の一部と言えなくはないので、その意味では科学革命と客観主義の否定を結びつけることはそれほど不自然ではないかもしれない。
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流れ的にうまくはまらなくて削ったのだろうと推測するが、著者の専門であるバウムガルテンまわりの話がここらへんでまったく登場しないのがちょっと面白い。
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この論点をめぐる現代美学の状況が知りたければ、ひとまず源河『「美味しい」とは何か』がおすすめ。
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具体的には、たとえばAesthetic Wikiのリストに挙げられている大量のaestheticは、そのそれぞれがピクチャレスクと同列に並べられるものだろう。それらの個別の美的性質を取り上げて何かを論じることにどんな美学的な意義がありえるのか(あるとしてどの程度まであるのか)は、正直よくわからない。個々のaestheticの歴史的な変遷や成立過程の話なら(少なくともそのaestheticに関心がある人にとっては)それなりに論じる意義のあることだとは思うが。
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「芸術が人生を模倣するのではない、人生が芸術を模倣するのだ」というやつ。私自身もわりとこの立場に同意している(正確に言うと、芸術が備えるそういう側面に無頓着な人が多くてうんざりしているので、意識的に必要以上に強調するようにしている)。