ゲームの評価基準の話をしよう

ぷらとんさんの記事を読んだ。面白かった。

ある特定の作品がなぜいいか(あるいは悪いか)を述べるのが批評であり、いい作品の一般的な条件つまり評価基準を述べるのが批評理論だと言っていいかもしれない。批評は評価の説明を与え、批評理論は批評の根拠と道具立てを与える。

ぷらとんさんの議論は、そういう意味での批評理論として非常に質の高いものになっている。少なくとも、ゲームの評価基準について、そのへんのゲームデザイン本よりもよほど明確で鋭い指摘をしている。

(ゲームデザイン本の著者は「ゲームデザイン本はいいゲームの基準ではなくいいゲームの作りかたを教えるものですから」とかいう言い逃れをするかもしれないが、「いいゲームの作りかた」なる物言いは「いいゲームとはどのようなものであるか」を前提しているわけなので、評価基準についての最低限のクオリティを持った概念化は必要である。一般的に言えば、芸術制作をするのに芸術的価値についての反省(広義の美学)が必要かどうかという古典的な問題だろうけど。みなさん美学を大事にしてくださいね!)

というわけで、ぷらとんさんの記事について。
基本的な議論は以下のようなものだろう。

〔ゲームプレイにおける〕選択の動機となるものには、「どれが勝ちに近づく正解の一手か」という側面と、「どれが実行して楽しい一手か」という側面との二つがある

この二つの側面は発生機構の異なる独立な動機である

善いゲームとは、勝ちに近づく一手と実行して楽しい一手とが一致するような(少なくとも一致することがあるような)ゲームである

この二つの側面の価値が同時に認められるような事態が存在するゲームは、その事態を達成するようにゲーム内行為する(一手一手を選択し実行する)なかで、必然的に楽しみを得られる。だから、そもそもゲームというものが楽しむことを目的にデザインされたものであってみれば、前述のような条件を満たすゲームこそがその目的を達するゲームであって、すなわち善いゲームなのである!

一言でいえば、最適解の選択が同時に主観的な楽しみももたらしうるのがいいゲームだということだろう。これだけだとシンプルな理論なのだが、ぷらとんさんはこれに対する3つの反論を想定したうえでそれに応答するということを記事の後半部分でやっていて、それが実質的にこの理論を面白いものにしている。

ひとつめの想定反論は、両者の「価値」が「接合」するだけでは不十分ではないかというものだ。ぷらとんさんは、それへの応答として「接合」のありかたに限定を加えている。いわく、たんに両者が同じ事態で実現されているだけではだめで、「〔行為と事態の〕つながりの分かり易さが多様な水準にある」ようなしかたで「価値の接合点が見出されうる」ようなものでなければならない。ようするにいろんな難度を持った複数のレベルで「価値の接合」がなければならない。

作品としてのゲームの評価ということになれば、当然そのゲームプレイのプロセス全体が評価の焦点になるわけだが、ゲームプレイをそういうダイナミックな(ゲーム状況だけでなくプレイヤーの知識や能力のようなパラメータも変化する)プロセスとして捉えようとすると、どうしてもそういう「多様な水準」みたいな観点が持ち出されることになるのだろう。

ふたつめの想定反論は、勝ちを目指すのとは独立の楽しみは別にいらないのでは、むしろじゃまなのでは、というものだ。これに対するぷらとんさんの応答は、ゲームの評価には「確実に『より強い戦略を探索することによる楽しみ』以外の楽しみが影響している」というもの。たんに競技性とか戦略性が高いだけでは面白くないやろ、という。

この問題はけっこう繊細な話な気がする。ゲーム全体の評価という意味ではぷらとんさんのいうとおりだろうが、あるゲームプレイ部分が楽しいものであるためには、競技性や戦略性が高いだけで十分なのではないかという気がする。それ以外の楽しみは、主にそのゲームを続けるモチベーションや、ゲームプレイを振り返ったあとの満足度に寄与するのであって、個々のゲームプレイの楽しさには必ずしも寄与しない(少なくともそれがなくても楽しいケースがある)ような気がする。まあこのゲームプレイの全体/部分という区別もけっこう微妙かもしれないが。

みっつめの想定反論は、「価値の接合理論」は戦略性や競技性それ自体がもつ楽しさを説明しないというものだ。これに対するぷらとんさんの応答は、「ゲーム内意味」(ゲーム内の真理)の発見や理解それ自体が楽しみを生むのだというもの。

これは言いたいことはよくわかるが、とはいえあらゆるゲーム内真理の発見が喜ばしいわけではないだろうという気がする。喜ばしい発見は、たとえば発見するのが難しいとか閃きが必要とかそういうものだろう。だとすれば、結局それは戦略性や競技性やパズル性の楽しさとして説明される必要がある。

もう一点気になるところ。二つの「価値」(最適解と主観的楽しさ)の「接合点」が「事態」として説明されているのがやや気になる。「行為」ではなく「事態」ベースで説明することによって、「楽しい一手」の内実にかんして多少の曖昧さが出てくるように思われる。というのも、その一手の「楽しさ」が、その行為の属性によるものなのか、その行為の結果である事態の属性によるものなのか、両方なのかがはっきりしないからだ。

ぷらとんさんが出している麻雀における四暗刻の例がわかりやすいが、四暗刻を目指すその過程が楽しいのか、暗刻が並んだきれいさとか役満をあがることの爽快さが楽しさなのかというところがはっきりしない。ぷらとんさんの書きかただと後者なのかなという気がするが、個人的には、ゲームプレイの楽しみは事態ではなく行為に属するものであり、それゆえ特定の結果を伴わなくても生じうるという立場(楽しさの反帰結主義)を推したい。

おわり。

PS. 注2で挙げられているリンク先がすごく面白かった。いずれも完全プレイヤー「オラクル」のプレイはどういうものになるかというゲーム理論的な思考実験。

以下も見てね。


追記 (2014.06.29)

ぷらとんさんからコメントをいただいたので、いくつかお返事を追記しておきます。

この辺の問題は、私が一人で勝手に悩んでいる「プレイヤーはゲームシステムの外側にあるか、内側にあるか」という問題※と直結しているように思う。〔…〕ルールズ・オブ・プレイを読み直してみたら、経験のシステムとして捉えたゲームのシステムにはプレイヤーが含まれるが、形式的なルールのシステムとして捉えたゲームのシステムにはプレイヤーは含まれない、というのが結論であった。既に問題は解決していたのであった。

これはそれほど簡単な話ではなく、悩み続けるべき問題だろうと思います。ぷらとんさんの関心は作品としてのボードゲームの評価とその評価基準にあるものと思います(サレン&ジマーマンが作品の評価という美学的問題についてどの程度つっこんで考えてるかはわかりませんが)。

たしかに、ひとつの作品として評価の対象になるのは「形式的なシステム」つまりルールやゲームトークンからなる客観的に同定可能な対象のほうです。一方、その形式的なシステムがどのような理由で評価されるのかという話になると、ふつう、その形式的なシステムが特定のプレイ経験を生んだ(あるいは生む傾向性を持つ)からだといった理由になるはずです。なので、作品の評価には、客観的な対象としての作品と主観的なプレイ経験という両方の側面がかかわってきます。

ついでに、いかにして主観的経験を理由にしながらもたんなる個人的な感想を超えた作品評価が可能になるのか、という問題もあります。そういうわけで、プレイヤーやその経験がゲーム作品の評価にとって内在的か外在的かというのはややこしい話ですし、実際、美学の伝統的な問題でもあります。

「あらゆるゲーム内真理の発見が喜ばしいわけではない」ことに、当初実感が沸かなかった。簡単に言えば、どんなゲーム内真理の発見だとネガティブな感情が惹起されるかという具体例が、自分の経験の中で上手く沸いてこなかったのである。

「喜ばしいわけではない」で意味しようとしたのは、「ポジティブな感情が惹起されない」ということなので、必ずしも「ネガティブな感情が惹起される」例じゃなくてもいいです。

たとえば、将棋において「駒をただ取りされないように動かす」とか麻雀において「序盤で牌効率に気を配る」とかは、妥当な根拠をもって中間目標の事態につながると言える行為なわけですが、それを発見・理解することそれ自体はたぶんそれほど楽しいものではないわけです(それを発見・理解するのに苦労する場合は別ですが)。雑に言えば、自明な最適戦略と自明でない最適戦略があったとき、一般に前者は見つけてもそれ自体としてはとくに楽しいわけではない場合が多いと思います(少なくとも後者を見つけるのよりは相対的に楽しくない)。

つまり、たんに最適解を見つけるのが楽しいというよりも、特定のしかたで最適解を見つけるのが楽しいのではないか、そしてその「特定のしかた」がどういうものであるかは、たんにゲーム内の真理の発見という以上のなにか(おそらくその真理へのアクセスのしかた)で説明しなければならないのではないかということです。一言でいうと、するっとわかっちゃう真理はとくに魅力的ではないのでは!

おわり。