グッドマン『芸術の言語』裏あとがき

Feb 13, 2017|美学・芸術の哲学

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』の邦訳がおかげさまでようやく出版されます。『ハーフリアル』に引き続き名著の翻訳にたずさわることができて、非常にありがたいやら勉強になるやらです。感謝。

本体に入れるスペースがなかったので、ここにあとがき的なものを書いておきます。内容の解説ではありません。章ごとの内容は、本書付録の「概要」を読んでいただければおおまかにわかると思います。

内容や訳についてのご質問やご指摘はTwitterask.fmにお願いします。誤字・誤表記・誤訳などは以下に追加していきます。


簡単な紹介から。『芸術の言語』は、初版が1968年、2版が1976年に出た本で、まちがいなく20世紀美学の古典のひとつ。プロパーな美学者だけでなく、文学や音楽学や美術史といった関連領域の研究者のあいだでも重要な著作として広く知られているらしい。そういうわけで、長らく邦訳が待ち望まれていた(というかでるでる言われ続けていた)。

40~50年まえの本なので、現代の英語圏美学の議論水準からすればずいぶん雑に見える部分が多い。とはいえ、最初に問題を定式化した論者として、あるいは独特の極端な立場をとる論者として、いまだに広く参照される。また、あらゆる古典と同じく、ところどころに示唆的で思考を触発する文章がちりばめられていて、それだけで十分読むに値する本になっている。さらに、日本の美学とその隣接諸分野で現代英語圏美学のごく基本的な前提すら共有されていないように見えることを考えれば、何十年まえの本だろうが邦訳を出すことには明白な意義がある。

扱われているトピックの大半は、いまも昔も美学・芸術の哲学で論じられてきた事柄だ。いずれも豊富な議論の蓄積と文脈がある。グッドマン自身はあまり先行文献への参照指示は打たないものの、この本がそうした文脈に位置づけられるものであることはたしかだ。そういうわけで、この本が扱う論点に興味を持ったのなら、美学(とくにその適切な入り口として分析美学)を勉強することをおすすめしたい。


翻訳のモチベーションについて。『判断力批判』の翻訳のまえがきで、金田千秋は次のように書いている(金田千秋「カント『判断力批判』翻訳の試み——1節から22節まで」筑波大学芸術学研究誌『芸叢』13 (1996): 3)。

難解とは言うけれど、実際のところそれは「どんな」難解さなのか、それが以前より正確に感知できるのなら、それで良いと思う。『判断力批判』への過小評価と(より悪質な)その過大評価をまとめて悪魔祓いできるのなら、私はそれで良いと思っている。

これは翻訳をするときにいつも頭に浮かぶ文章で、翻訳のモチベーションを端的に言い表してくれている。翻訳の最大の意義のひとつは、読んでない/読めてないことによる不当な評価(高評価であれ低評価であれ)から文献を救い出すことであり、またそれによって議論の水準を実のある方向に進めることだろう。『芸術の言語』もおそらくその手の不当な評価の対象だった。その悪魔祓いに少しでも寄与できればそれでよいと思う。


訳の方針について。訳は読みやすさを重視した。意訳や補足がところどころにあって好みがわかれるかもしれないが(たとえば哲学書の昔ながらの翻訳規範からは外れるだろう)、専門性を保ちつつ日本語として読んで十分に議論の流れがわかるものという基準を満たそうとした結果そうなった。もちろん意味の保持にはできるだけ努めてある(2倍ダーシの多用についてはすみません)。

訳のうえでいちばん困ったのはダジャレが多すぎるところ。原文はとにかく隙あらば韻を踏んだり頭文字を繰り返したりする。その結果、意味的には微妙に不自然な語句が選択されている箇所が多いわけだが、それをそのまま訳すとダジャレ成分が落ちて不自然な語句だけが残ってしまう。一部のわかりやすいダジャレはルビをふって明示したが、ルビをふっていない箇所も大量にある。不自然な言葉の組があるところは、そういうケースかもしれない。

隠喩もよく使われているが、これは翻訳に反映できるのであまり困らなかった(伝わりづらいものも多いが)。面白いのは、第2章で隠喩を説明するのに隠喩を使っているところ。また、隠喩で隠喩を表すことは例示であり、かつ第2章は例示の章でもあるので、その箇所は例示の例示にもなっている(どれだけ意識的にやっているかはわからない)。

テクニカルタームの訳語選択についても、いろいろ悩ましかった。独特の意味で使われているもの、訳語が重複してしまうものなどは、標準的でない訳語を使うことになった。たとえば、reference=表示、script=書、compliance=準拠などだ。とはいえ、こうした独特の用語法と訳語については、付録の「用語解説」を見れば簡単に把握できると思われる。


以下、扱われている主要なトピックごとの簡単なfurther readingを挙げておく。章ごとの内容のまとめは、本書付録の「概要」を読んでください。

描写

第1章では、描写の本性と写実性が扱われる(本体では「再現」(representation)という用語が使われているが、現在では「描写」(depiction)とか「画像的表象」(pictorial representation)という言い方がされる。これはグッドマンの用語法が独特なのではなく時代の問題)。描写は、画像知覚あるいはseeing-inという独特の知覚のあり方の問題として扱われることが多くなっているが、記号やそのシステムの構造の観点から描写を考える方向性も十分に生きている。ドミニク・ロペスはグッドマンの描写理論の紹介と批判にかなりの部分を費やしているし、ジョン・カルヴィッキはグッドマンの理論を正統的に発展させている。

描写の哲学のおすすめ入門書は以下。「分析美学は加速する」の記事も参照。

表出

第2章では、表出(expression)の本性が扱われる(本体では「表現」という訳にしてあるが、記号表現の意味での「表現」と混同されるおそれがなくもないので本来は「表出」が望ましい。ついでに「representation」が「表現」と訳されるような世界もどうもあるらしく、入門者泣かせだなあと思う)。表出については不勉強であまりよく知らないので、とりあえず『分析美学入門』10章と訳者森さんによる文献紹介を参照。

グッドマンは表出を隠喩的な例示(exemplification)としてとらえる。結果として、第2章は例示と隠喩を扱う章にもなっている。例示については、知るかぎりグッドマン独特の議論だと思う。その後の発展的な議論があるかどうかは知らない。英語圏の哲学的な隠喩論にはそれなりに邦訳がある。

作品の存在論

第3章は贋作問題を中心にした作品の存在論の話。第5章も芸術形式ごとの作品の存在論が中心的な問題になっている。贋作関係は、贋作専門家の岩切くんの卒論を読ませてもらうのがよいでしょう。

  • 岩切啓人「複製可能な芸術形式とその基準——ネルソン・グッドマンの区別を再定義する」東京藝術大学美術学部卒業論文、2016.

作品の存在論についてはひとまず以下を参照。

「オートグラフィック/アログラフィック」の区別は有名でキャッチーだが、グッドマンが示しているように、実際にはそれ以外の多くの軸でも芸術形式ごとの存在論的性格は対比される(上演/非上演、単一事例/複数事例、一段階/多段階など)。「複製芸術」みたいなのを語る場合には、これらの対比軸を区別してから議論したほうがむだな混乱がなくてよい。

美的なもの

第6章の後半は、美的なものの特徴が扱われる(「美的なもの」という言い方で美的な何が問題にされているのかはあやふやだが、基本的には美的経験だろう)。無関心性や快にもとづく伝統的な特徴づけなどと並んで、情動の観点からの美的なものを特徴づける考えが否定される。最近邦訳が出たジェシー・プリンツやその訳者の源河さんは逆に情動ベースの議論をしているので、対比すると面白いかもしれない。とはいえ、実際にはグッドマンは美的なものを認知の一種としてとらえたうえで認知への情動の寄与を認めるので、実質的には対立しないかもしれない。

フランク・シブリーは、グッドマンと同様に美的なものを価値中立的にとらえつつ、グッドマンとは異なる方向性をとっている。

図とモデル

第4章の後半部分は、いろいろな計器や図表の分析という興味深くかつあまり目にしない論点が扱われる。アナログ/デジタルの区別についてグッドマンが参照されているのはたまに見るが、何か体系だったトピックとしてあるかどうかは知らない。カルヴィッキは、2006年の本ではデジタルな画像という論点を扱っており、2014年の入門書では科学における図の使用について1章を割いている。

モデルの話は、科学哲学のシミュレーションとかモデルについての議論に直結するものだろう。SEPの記事とマイケル・ワイスバーグの本にリンクをはっておく。


グッドマンのその他の著作の邦訳について。3冊出ている。

グルーで有名な『事実・虚構・予言』は『芸術の言語』よりもまえに出版された本で、美学的な話を扱うものではない。『芸術の言語』では、投射関係の話題でたびたび参照指示されている。あとのふたつは『芸術の言語』よりもあとに出版された本で、美学的な話を一部扱っている。いずれも『芸術の言語』を踏まえて、より発展的な議論をしていたりする。『芸術の言語』を読んでから読むと、また新たな発見があるかもしれない。


装丁は服部一成さんのお仕事。正直なところレベルが高すぎてよさがよくわかっていない。服部さんのいままでの仕事を見ると意図する方向性はわかるのだが、それでもまだぴんと来ない。相当攻めてるのはわかる。そのうちよく見えてくるのを楽しみにしている。これは〈いまのところよく見えないが、そのうちよく見えるはずという期待を持っている〉というきわめて美学的に分析しがいのある状態だ。『芸術の言語』第3章にも、これに近い状態について多少の言及がある。


謝辞です。今回は諸事情でイレギュラーなかたちで翻訳に参加させていただいたのですが、それにもかかわらず円滑に共訳作業を進めてくださった戸澤先生に深く感謝いたします。古典の翻訳という非常にためになる経験をさせていただきました。訳文チェックその他については、東京藝術大学のグッドマン美学専門家の岩切啓人くん(@ertb_ertb)にお手伝いいただきました。おかげで作業の負担がかなり減りました。ありがとうございます。企画と編集をとりしきっていただいた慶應義塾大学出版会の村上文さんには、もろもろお世話になると同時にご迷惑をかけっぱなしでした。ありがとうございます&ごめんなさい。