Svendsen「ファッション批評について」

Aug 23, 2017|美学・芸術の哲学

ファッションの哲学の論文集Philosophical Perspectives on Fashionが届いた。目次と書評は以下。

とりあえず収録論文のLars Svendsen, "On Fashion Criticism"を読んだ。ファッション批評とは何か、それはなぜあるべきか、どうあるべきか、といった内容。Noël CarrollのOn Criticism近々邦訳がでるといううわさ)を参照しているせいもあると思うが、ザ・美学というかんじの批評観で、ごくまっとうなことが書いてあった。

まとめます(抄訳に近いです)。

1. アートとファッション

19世紀前半までは、服飾デザイナーが社会的な名声を得ることはなかったし、ドレスメーカーが服に名前を入れることもなかった。18世紀における工芸と芸術の分離において、裁縫は工芸側に置かれた。

1860年ごろのオートクチュールの登場以降、ファッションが一人前の芸術として認められることを求める動きが現れてきた。シャルル・フレデリック・ウォルトやポール・ポワレには、明白にこの傾向が見られる。ウォルトは、ファッションデザイナーが、顧客の要望に完全に従う職人から脱却し、「自由なクリエイター」に、つまり自分自身の主体性にもとづいて作品を作る、ロマン主義的な芸術観に則った創造者になることを標榜した。

しかし、実際のところは、デザイナーは顧客の美的な好みにあわせなければならなかった。顧客は「着れない服」にはお金を払わないからだ。結果として、ファッションデザイナーはその時代に優勢なスタイルから大きく離れることは許されなかった。そうしたなかで、ウォルトやポワレは、意識的に「芸術家然とした」服装をしたり、美術品やアンティークを収集したり、美術展を企画したりすることで、自身が芸術家であることを示そうとした。

芸術としてのファッションという地位は、それ以降も追い求められてきた。とくに1980年代に現れた「コンセプチュアルクローズ」はわかりやすい例だろう。多くのファッションデザイナーが、実際に着るというよりもギャラリーや美術館に展示するのに適するような服を作っている。最大手のファッションハウスのなかには、現代美術館に資金を提供することで、アート業界との結びつきを得ているところもある。

こうした努力にもかかわらず、ファッションは他の芸術形式と同等の扱いを受けていない。その重要な理由のひとつは、美術、音楽、文学、映画などにはまじめな批評の伝統があるのに対して、ファッションにはそれがかなり欠けているという点にある。もちろん、新聞や雑誌にはファッション関連の記事がときおり載るが、それはメジャートレンドの紹介や有名デザイナーのポートレートなどであって、他の芸術形式に見られるような慎重な分析や評価はほとんどない。

2. アートとお金のあいだ

現状はともかく、ファッションライターをファッションデザイナーのしもべと考えるべきではない。デザイナーとライターは相互に依存している。ライターはデザイナーの評価を確立したり正当化したりする。一方で、デザイナーはライターに記事の材料を与える。

ピエール・ブルデューが言うように、批評家とジャーナリストの主な仕事のひとつは、当の領域における諸事物についての信念を作り出すことだ。それはしばしば同時に彼ら自身の立場を強化するためでもある。これは、スポーツ記事から政治記事にいたるまで、幅広く言えることだ。ファッションジャーナリズムも明らかにそうなのだが、そこでは書き手と産業の距離が近すぎて、信頼できるような批評がほとんど成り立たなくなっているように思える。

ファッションはつねに芸術と商業の中間にあったわけだが、その商業的な側面は、真正な批評の可能性を妨げる傾向にある。ファッションジャーナリズムは、独立の活動というより、かなりの程度までファッションハウスのマーケティング部門の延長と見なされている。たとえば、否定的な批評を含んだレビューを書いた記者が次回以降のショーから締め出された、といった例を見ればはっきりわかる。

こういう話は他の芸術形式ではまずないだろう。芸術家は否定的な批評でいい気分にはならないかもしれないが、否定的な批評をしてもいいということはその業界のなかで受け入れられている。このメンタリティは、ファッション業界におけるそれとかなりちがう。

絵画であれ小説であれ映画であれなんであれ、ほとんどはだめな作品だろう。ふつうに考えれば、ファッションにも同じことが言える。名作だけを作る画家や作家や映画監督がいないように、名品だけを作るファッションデザイナーもいない。さらに、名作であってもふつう欠陥を持っている(また場合によっては、そうした欠陥が作品を面白いものにしたりする)。一方、新聞や雑誌のファッション記事を見ると、まるでファッションの世界には名品しかないと思わせるようなことが書かれている。しかし、否定的な批評が一切ないところでは、肯定的な批評もまったく意味をなさない。

さらに、ファッション誌の紙面は、編集記事と寄稿アートと広告を見分けるのがかなり難しくなるようにデザインされていることがよくある。広告の量はどんどん増えてきている。たとえば、Vogueの通常の号では広告ページが編集記事ページの約3倍もあるが、それらはそれが広告であることがわかりにくいように提示されている。

われわれは、典型的なファッション誌の収入源の大半が、冊子の売り上げではなく広告であることを知っている。それゆえ、ファッション誌の主要な顧客は読者ではなく広告主だと言えるかもしれない。このことは、ファッション批評家の仕事と相反するものだ。ファッション批評家が誠実さを捧げるべきなのは、まず自分自身の判断であり、次に読み手であって、広告主ではないからだ。

実質的に広告と見なすべきファッション記事はきわめて多い。ファッション誌が広告媒体以外の何物でもなく、それによって出版社が自身の利益を最大化するような、そういうものでしかないなら、それはファッション批評の媒体になりえないように思われる。ファッション批評は、自律性を認められなければならないのだ。

3. ファッション批評とファッション理論

美術批評と美術理論が別物であるのと同じく、ファッション批評家の能力とファッション理論家の能力は別物だ。場合によっては、両方をうまくこなす人もいるだろうが、かなりまれだと思う。わたし自身は理論家であって批評家ではない。この論文は、ファッション批評ではなく、ファッション批評について書かれたものであり、ファッション批評の批判だ。

ファッション理論もまた非常に未熟な状態にあり、美術理論に見られる洗練や多様性のレベルにはまったく達していない。それゆえ、美術批評が美術理論から得られるサポートと同種のものを、ファッション批評がファッション理論から得ることはいまのところできない。実際のところ、「ファッション理論」という名のもとに書かれているものの多くは、ファッション批評家(ファッションの美的な側面に主に関心を持つ人)にほとんど関係がない。多くのファッション理論が、たんにカルチュラルスタディーズやジェンダー論を服にあてはめたというだけのものだ。

ファッション批評は、美術批評の枠組みと手法をそのまま利用することはできないものの、そこから学べることはある。もちろん、なんでも美術批評を範にすればよいというわけではない。たとえば、現代の美術批評では、色や技法や素材について深い理解を持っている批評家はほとんどいない。彼らは「見る」というより「読んでいる」と言ったほうがいいかもしれない。ファッション批評はこの二の舞になってはいけない。ファッション批評家は大量のファッションに触れるべきであり、そしてそのなかでファッションの「見方」を学ぶべきだ。見る力は、有意な比較をするにあたって決定的に重要になる。

ファッション理論、ファッション批評、ファッションルポルタージュはかなりの程度重なっているが、そこにはまた重要なちがいもある。ファッション批評は、ファッション理論とファッションルポルタージュの間に位置づけられると言えるかもしれない。ファッション批評とは何かという問題は、ファッション理論家の間でもしばしば問題にされる。しかし、そもそも批評とは何か。質の高い批評はどのように見分けられるのか。批評家に求められる資質とは何か。

4. 評価、記述、比較、文脈化、解釈

ちゃんとした(proper)批評は、以下の5つの主要な構成要素を持っている。

  • 評価(evalutation)
  • 記述(description)
  • 比較(comparison)
  • 文脈化(contextualizaion)
  • 解釈(interpretation)

このなかで批評の中心になるのは評価だ。批評の目的は、ある創作物のうちにある価値がなんなのかを、できるかぎり明瞭に述べることだ。しかし、評価それ単独では、ちゃんとした批評としては十分ではない。なんの批評基準も明示的な理由も与えずに、たんに評価をするというだけでは、批評とは呼べないだろう。また、「批評」(criticism)にしろ「批判」(critique)にしろ、たんなる否定的な意見と混同されることがよくあるが、正当化(justify)されていない意見は、否定的であろうが肯定的であろうが批評ではない。

「criticism」と「critique」は、「判断する」(judge)や「決定する」(decide)を意味するギリシア語の「クリネイン」(krinein)から来ている。「クリネイン」はまた、「分ける」(separate)、「区別する」(distinguish)、「識別する」(discriminate)、「確定する」(determine)などを意味する。批評は、諸事物について判定を行い、どれが良くてどれが悪いかを区別することを目指す実践だ。批評には否定的なものも肯定的なものもあることは強調しておく必要がある。

美的なダメ出しをすることになんの理由があるのかという疑問があるかもしれない。良いものを選別すればいいのであって、だめなものは放っておけばいいのではないか? 答えは単純だ。われわれは、肯定的な批評も否定的な批評も両方必要としている。成功から学べるものと同じくらい(場合によってはそれ以上に)失敗から学べることはある。

わたしは、対象がなんであれ、あらゆる批評の本質的な側面は評価だと考えている。これは議論の余地のある主張だが、ここではそのような批評観を前提する。それに加えて、ちゃんとした批評は、評価を理由によって裏づけなければならない。

記述は、ある創作物がどのようなものか、その諸部分がどのように互いに関連しあっているかを読者に伝えることだ。記述は、批評の他の側面の基礎になる。比較は、異なる創作物同士の類似と差異を指摘することだ。文脈化は、その作者が以前に作った作品、その着想源、より広い文化的状況といった枠組みのなかに当の作品を位置づけることだ。解釈は、この創作物の意味や重要性はなんなのかという問いに答えようとすることだ。これらの批評要素は、結局のところ評価の材料になるものだろう。それらは、理由づけられた評価のための土台を批評家に与えるものだ。

ファッション批評家がもっとも関心を寄せるのはオートクチュールかもしれない。それは、解釈できる内容や独創性という点で、より豊かであるように思えるからだ。とはいえ、既製服もまた、少なくとも同程度に批評的な検討に値すると思う。人々の生活のなかで実際に役割を果たしているのは、その種の服だからだ。単純に美しさだけを目指した服もあれば、美しさは重要視せずに豊かな内容を表現することを目指した服もある。

ファッション批評家は、ファッションの歴史にやたら詳しくあるべきだし、歴史の流れや転換点を指摘できなければならない。歴史を知ることで、明示されていない影響関係や様式的な結びつきを見てとることができるようになる。そうした事柄を指摘することが、ファッション批評家の仕事の重要な部分だ。

5. 批評の実践

ファッション批評は、正確かつ明瞭で、さらに十分に歴史を踏まえたものでなければならない。それは(いまのファッション批評がしばしばそうであるように)過度に単純化されていてもだめだし、(いまの美術批評がしばしばそうであるように)むだに曖昧でもだめだ。ちゃんとした批評は、たんなる意見ではなく、理由づけあるいは正当化された意見だ。しかし、それは完全に客観的なものではありえない。それは必ず、かなりの程度主観的なものだ。批評は、批評する人自身を公にさらすことでもある。ブルデューが言うように、「人の趣味は物事を分類するが、それはまたそれを分類する人を分類するものでもある」。

批評家の間での意見の不一致はあるだろうが、それはむしろ歓迎すべきものだ。とはいえ、批評家間の意見はふつうかなりの程度まで一致するということもまた指摘しておきたい。不同意があるとしても、それはより大きな同意の背景のもとではじめて可能になることだ。

消費者が手に取れるファッションの量が増えたおかげで、批評家に対する需要は以前よりも大きくなっている。批評は、読者をガイドして、目の前のアイテムの良さと悪さを理解したり、新しい美的なアイデアを見てわかることを助けるものでなければならない。

ファッション批評は意味のあることなのか? これは端的にyesだと思う。ひとつの明白な理由は、単純にわれわれの生活に対するファッションの影響が非常に大きくなっているという点にある。わたしの考えでは、現代の文化において、ファッションはファインアートよりもはるかに重要な役割を担っている。そういうわけで、そのようなものとしてのファッションを受け入れるための批評の道具を作ることが求められているのだ。

ファッション批評には、たんにファッションの良し悪しを見分けるのに役立つことに加えて、われわれの生活におけるファッションの役割についてもっと深く考察することも求められる。この意味で、ファッション批評は、ファッション哲学の方向に、つまり「ファッションを考える」という方向に向かうことになるだろう。ここで「考える」というのは、ハンナ・アーレントが言うように、立ち止まって反省するということであり、批判的(critical)になるということだ。そして、批判的であるとは、事柄に区別をつけることができるということにほかならない。思考の目標は、抽象的な知識を作り出すことではなく、むしろ判断を行ったり区別をつけたりする能力を身につけることだ。そのような思考を与えることが、ファッション批評のあるべきかたちだろう。


以下感想。

ファッション業界の歴史や現状の記述が正しいかどうかは十分に評価できない。

まともな美的文化になるにはまともな批評が必要という主張には全面的に同意する。また、それが成立するための条件として、作り手(と商業主義)からの独立が必要というのもごくまっとうな考えだろうと思う。

〈作品評価の理由づけ/正当化の実践〉という批評理解も、美学者にはなじみの考えでしっくりくる。日本語で「批評」とか「批評家」とかいうと謎の含みがくっついてくる傾向にあるわけだが(たぶん少なからず日本における芸術批評のあり方の問題だと思うが)そういうのとまったく無縁なのがよい。

この論文でファッションについて言われていることは、新興の文化形式(たとえばビデオゲーム)にもおおよそそのままあてはまるだろうし、場合によってはすでに確立している芸術形式にもあてはまるかもしれない。

References

  • Svendsen, L. 2016. "On Fashion Criticism." In Philosophical Perspectives on Fashion, eds. G. Matteucci & S. Marino, 107–117. London: Bloomsbury.