草野原々「デジタルゲームのむなしさと人生のむなしさ」について

限界研編『プレイヤーはどこへ行くのかデジタルゲームへの批評的接近』(南雲堂)をご恵投いただきました。所収の論考をいくつか読みましたが、まさに現在進行形の作品・ジャンル・事象が取り上げられていて、「2010年代のゲーム批評の結節点」という帯の文句にたがわぬ内容だと思います。

そのうちのひとつ、草野原々「デジタルゲームのむなしさと人生のむなしさ」は明晰で論点も面白くてすばらしい論考だと思いますが、重要なところ(かつ自分の専門に近いところ)で気になる点がいくつかあったので、以下コメントします(アカデミックなスタイルで書かれた原稿だと思うので、そういうつもりでコメントします)。


(a) 2節でビデオゲームには現実的ストーリーと虚構的ストーリーがあると主張し、それを前提として3節でビデオゲームのむなしさが両者の「競合」「矛盾」から生じると主張しているが、単純にこれだと抽象的なゲーム(フィクション要素がないゲーム)をし終わったあとのむなしさがまったく説明できない(落ち物やタイルマッチングに何十時間も費やしたときのむなしさたるや)。

(b) 1節に「ユールはウォルトンの議論をデジタルゲームに適用した」とあるが、ユールがウォルトンをベースにしている(これも本のなかでは明示していないが)のはフィクション理論としてのみであって(言い換えれば『ハーフリアル』4章の議論の範囲内のみであって)、ビデオゲームが「半分現実」であるという『ハーフリアル』の中心的な主張に関してウォルトンの影響があるわけではない。ユールの「半分現実」の二面性(ルールとフィクション)の議論は、ウォルトン的な二面性(プロップと虚構的対象)とは全然別の話をしている。

これはたんに先行研究の理解が適切かどうかというくらいの話だが、次に示すように草野論考の議論の全体がその理解にかなり依存しているので重大な問題になる。

(c) 議論の全体として、ビデオゲームの「半分現実」の二面性を、フィクション一般が持つ二面性(想像させるもの=プロップと、想像されるもの=虚構的対象)とおそらく同一視しているが(具体的にはたとえばp.123の「デジタルゲームの虚構部分は、プロップであるプログラム状態という現実部分をよりよく理解するために使うことができる」という箇所など)、その同一視はおかしい。

ビデオゲームにおいてプロップになるのは単純に言えばグラフィックだろうし、もう少し複雑に考えたとしてもレンダリングに関わるプログラム部分だろう。一方、ユールが想定する「ルール」はゲームプレイを作り出す抽象的な構造のことだ。ルールは、ビデオゲームの場合はプログラムの一部として実装されるが、ゲームプログラムのすべてがルールなわけではないし、グラフィックがそうであるという話でもない。

ユールはたしかにルールは現実だと言っているが、それはそれが物理的な実体であるという主張ではない。それゆえ、ルールがフィクションの支持体だという話にもならない。現実的なルール(状態機械)はそれ自体としては抽象的で「媒体横断的」なものであって、それを実現する物理的な実体は別に「媒体」と呼ばれている。

実際のところ、『ハーフリアル』も含めてビデオゲームを二項モデルで考える議論は多いのだが(たとえば吉田(2013)の「統語論/意味論」)、それだとどうしても別の論点(記号/内容とかプロップ/虚構的対象とか)が混同されてしまう。拙著『ビデオゲームの美学』の理論が「虚構世界/ゲームメカニクス」の二項ではなく「ディスプレイ/虚構世界/ゲームメカニクス」の三項になっているのはそういう理由からだし、その点は強調したい。

おわり。