榊「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム その後②」への応答
Oct 01, 2020|ゲーム研究
前置きは省略しますが、以下の榊さんのツイートで挙げられている発表資料への応答です。
【資料公開】「「「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」その後 ②
— manjimal_sakaki (@manjimal_sakaki) October 1, 2020
――プレイ経験の分析のための枠組みに関するコメントに対して:その一」。研究会(2019年6月22日)での発表用レジュメに発表後、微修正を加えたもの。https://t.co/W9AnFw68oh
経緯は以下を参照。
- 榊祐一「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」押野武志編『日本サブカルチャーを読む』北海道大学出版会、2015年
- 「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」について - 9bit
- 「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」その後① 物語の水準の分析[榊2015:3章]に関する松永伸司氏のコメントに対して
- 「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」その後② プレイ経験の分析のための枠組みに関するコメントに対して:その一
ちなみにこの2番めのブログ記事は5年前に書いたものなので、当時の考えを忘れていたり微妙に立場が変わっていたりということはあると思います。以下は現在の立場からの応答ということでご理解ください。
〔p. 1〕
→「空間デザインは行為のデザインの手法の一種/一部でしかない」という榊への批判だが、そもそも、私はこのような主張は行っていない(ただし、後に述べるようにそのように受け取れてしまう不用意な書き方はしてしまっている)。→空間デザイン(=レベルデザイン)が行為のデザインの一部でしかない、という指摘には私も同意であり、実際、[榊 2015]においても、以下のように、明確にそのことは述べている。
この点は誤読による不適切な批判ということで了解しました。
批判のモチベーションを補足しておくと、当時は、空間表象およびそこでの航行(navigation)をビデオゲームの特徴として過大評価する論者(よくいる)に対するアンチな気持ちが強く、こういう反応になったんだろうと思います。
なぜ空間航行論者にアンチかというと、特定の時代・種類のビデオゲーム(具体的には3D化以降のビッグタイトルの主流)のあり方をことさらに持ち上げている(少なくともそれこそがビデオゲームの重要な特徴だと言っているように見える)からです。ビデオゲームの歴史や諸ジャンルを全体として見れば、それとは別のあり方も普通に見て取れるはずなのに、ということです。
いまも基本的な考えは変わってないですが、もう少し穏健な見解になったかもしれません。不適切な一般化に気をつけましょう(あるカテゴリーに属するメンバーの一部が共通に持つ特徴を取り出して、それをそのカテゴリー自体の特徴と言ってしまわないように)くらいのことを言っておけば済む話かなと思っています。
〔pp. 3–4〕
→明確には言われていないものの、このような指摘から推測すると、松永氏は、3D空間、かつ、そこにおいて空間的に操作可能なプレイヤーキャラが存在するタイプのビデオゲーム作品(例えば、3Dアクションアドベンチャーや一人称シューティングゲーム〔FPS〕など)にほぼ限定する形で、ビデオゲームにおけるテレプレゼンス経験を想定しているように見えるが(p. 3で「テレプレゼンスの実例とほぼ同じように見えるゲームプレイの例」として挙げたゲームジャンルなど)、果たして、そうなのか?→例えば、3D空間ではないが、その中で空間的に行為可能なタイプのゲーム、例えば2D系のアクションゲームや、その中で空間的(あるいは身体的に)に行為可能であるようなテキストアドベンチャーなどにおいては、テレプレゼンス経験は生じないのだろうか? [榊 2008]では、以下のように、3D空間を持つゲーム以外でも(テキストで行為が描写されるようなビデオゲームであっても)、テレプレゼンス経験は生じると考えたのだが、この点については、あらためて考察し直す必要がある。
2Dは微妙な話なのでともかく(個人的には普通はないだろうと思っていますが、2Dでもそういう経験をする人はいるかもしれないので)、少なくともテキストベースのゲームでテレプレゼンスが成立すると言ってしまうのはまずいのではと思います。
定義上そうだ(少なくともしかじかとして「テレプレゼンス」を定義するかぎりはそうだ)と言い張ることはできると思いますが、それをやってしまうと理論概念としてのテレプレゼンス概念のもともとの有用性やうまみが失われるのでは。本来はVRデバイスの特殊性のひとつを言い表すものとして持ち出されている概念のはずなので。
〔p. 5〕
松永氏が「テレプレゼンスの経験」を「一部のビデオゲーム作品」に関しては認めていることについて→「プレイ経験」の分析への批判②は、榊論がテレプレゼンス経験をビデオゲーム一般に当てはまるかのように語っていることに対するものであり、少なくともこの節の記述を見る限り、松永氏は、ビデオゲームの一部――三人称アクションアドベンチャー、オープンワールド、FPSといったジャンルのような、「なんらか独特のしかたで空間的に操作可能なプレイヤーキャラクタをもつビデオゲーム作品」――についてはテレプレゼンス経験が存在することを認めているように見える。
→しかし、この後の「プレイ経験」の分析への批判③の内容をふまえるならば、ビデオゲームにおけるテレプレゼンス経験というのはありえないようにも思われる。
次のコメントにも関連しますが、言いたいのは「そういう経験はビデオゲームのプレイでもありえると思うが(わたし自身はあんまり経験したことがないが、それはともかく)、本当にそういう経験の事例なのかどうかをもうちょっと慎重に吟味すべき」ということです。この主張は批判③の内容とも両立します。
〔p. 5〕
→正確に言うならば、松永氏はおそらくはテレプレゼンスという概念そのものは批判しておらず、また、現実世界におけるテレプレゼンス――現実世界上の「今・ここ」に存在しつつ、同時に、現実世界上の「ここ」ではない「どこか」に存在し、かつ、その「どこか」の環境に何らかの影響を与えうるような形で行為が可能であるような状態――は許容している。→松永氏が否定しているように見えるのは、ビデオゲームにおけるテレプレゼンス経験。具体的に言えば、《現実世界上の「今・ここ」に存在しつつ、同時に、現実世界とは異なる仮想世界上の「ここ」ではない「どこか」に存在し、かつ、その「どこか」の環境に何らかの影響を与えうるような形で行為が可能であるような状態》。
ここでは、事実としてのテレプレゼンス(遠隔存在・遠隔行為という事実)と、経験としてのテレプレゼンス(遠隔存在・遠隔行為しているかのような経験)が区別されていると思います。ちょっと複雑で整理しづらいですが、自分の立場はこういうかんじですね。
- 事実としてのテレプレゼンスは、現実世界間でのみ可能(存在論的に考えて)。
- 経験としてのテレプレゼンスは、ビデオゲーム(一般化すると、いわゆるバーチャルなメディアやある種のフィクション)でもありえると思うが、その経験が成り立つのはかなり特殊なケースだと思うので(たとえばVRデバイスを使うときのような経験が典型例になるはず)、あるビデオゲームのプレイにおいて本当にそういう経験が生じているのかについては慎重になるべき(現象学的に考えて)。
- ある種のビデオゲームのプレイは、(事実または経験としての)テレプレゼンスが成立していることを示唆するような言葉づかい(たとえばFA文)で記述されることが少なくないだろうが、その手の記述が標準的にされるからと言って(事実または経験としての)テレプレゼンスが成立しているという帰結を導くことはできない(FA文論文およびビデ美11章)。
- 経験としてのテレプレゼンスの成立は、事実としてのテレプレゼンスの成立をまったく含意しない(当たり前)。
「現象学的にも存在論的にも理論的負荷が高い」という言い方で言おうとしてるのはこういうことです。
〔p. 16〕
イ)榊論で定義されたテレプレゼンスには、「今・ここ」に存在する人間(プレイヤー)が、A)同時に、「ここ」ではない「どこか」にも存在する、という「存在」(presence)に関わる側面と、B)その「どこか」の環境に何らかの影響を与えうるような形で行為をする、という「行為」(agency)に関わる側面があるが、ビデオゲームへのテレプレゼンス概念の適用に関して、松永氏はどちらの面でも批判を行っている。
一部繰り返しになりますが、ポイントをもうちょっとはっきりさせると、言いたいのはおおむね以下です。
- 行為者性の話をしたいのであれば、テレプレゼンス概念を持ち出さないほうがいい(本来無用の説明コストがかかるので)。
- 事実としてのテレプレゼンスをビデオゲームのプレイに適用しようとすると、存在論的に無茶なことが帰結するはめになるはずだが、それでいいのか(反語)。
- 経験としてのテレプレゼンス(臨場感=あたかもそこにいるかのような感覚)は、ビデオゲームのプレイのある種のケースには適用できるかもしれないが、だとしてもかなり特殊なケースに限定されるはずでは(テレプレゼンス経験の現象学にもっと気をつかうべきでは)。あるいは定義次第で広く適用することもできるだろうが、それはテレプレゼンス概念の拡張的な使用であり、その概念に本来期待されているはずの理論的な利点を犠牲にすることになるのではないか。
2-3-2(pp. 9–16)のまとめは的確です。ありがとうございます。