「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」について

Jun 08, 2015|ゲーム研究

以下の論文の感想です。最近でた論文集『日本サブカルチャーを読む』に収録されています*

  • 榊祐一「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム――『バイオハザード』を例として」 押野武志編『日本サブカルチャーを読む――銀河鉄道の夜からAKB48まで』所収, 北海道大学出版会, 2015, pp.253-286.

榊さんは、「〔ビデオ〕ゲームを自律した文化領域として論じるための方法論をいかにして獲得するか」という問題意識のもとに、「①ゲームをその固有性を尊重しつつ論ずることを可能にするような理論的枠組みの提示と、②その枠組みによるゲーム分析の実践例の提示」(榊 2015: 254)をすることを試みている。

ようするに、ビデオゲームの特殊性を論じるための理論的枠組みを定義したうえで、それを具体的なケース(『バイオハザード』)に適用するというものである。わたしの博論もほとんど同じ問題設定なので、モチベーションと方法にとても共感できる。

切り口としては「ゲームと物語」という古典的な観点が選ばれている。より具体的には、「ゲーム(経験)が物語的な要素を含むという〔…〕認識を前提とした上で、非物語的水準と物語的水準が交錯するものとしてゲーム(経験)を論じうるような枠組みを提示してみる試み」(ibid: 256)であるとされる。この論文でとりあげられる「非物語的水準」は、「テレプレゼンス」つまり〈プレイヤーが現実の場所にいながら同時に「仮想空間」のなかにもいる〉というビデオゲームに特徴的な経験のありかたである。

この論文のいいところは少なくとも3つある。

  • 先行研究への目配りがきいているところ。とくに日本語の先行研究がまとまったかたちで言及されていて、とても参考になった。また海外のゲーム研究についての言及も、少なくとも日本語で読める既存のゲーム研究論文よりは圧倒的に多いし、言及の内容も適切だと思う。
  • 「物語」「物語化」「プレイ経験」「テレプレゼンス」といった用語の整理や定義が明示的になされているところ。ほかの日本語文献における理論的概念の扱いのずさんさに対してはしばしば文句をつけてきたのだが(一例)、榊さんの論文にはこの点で不満を感じなかった。
  • 「物語」概念と「虚構世界/物語世界」概念を明確に区別しているところ。日常的な言説ならともかく理論的にはあたりまえのように区別すべきだと思うが、実際のところ、榊さんも指摘するように(ibid: fn.21, fn.28)ごっちゃにする論者は多い。

そのほか、随所で示唆に富む洞察がされている。というわけで、失礼を承知でいうと、現時点で日本語で読める人文系ゲーム研究の論文のうち最良のもののひとつだと思う。「ビデオゲームの物語」みたいなテーマで卒論を書く学部生などは、とりあえず最初のとっかかりとして読んだほうがいい。


以下、批判も含めた細かいコメントです。長いです。

「物語の水準」の分析について

榊さんは、「テレプレゼンス経験としてのプレイ経験(=非物語的な経験)の水準と物語的なゲームの享受経験の水準が交錯するものとしてゲーム(経験)をとらえたとき、ゲームのどのような分析が可能になるのか」(ibid: 261)という問いのもとで、「物語の水準」と「プレイ経験の水準」のそれぞれについて『バイオハザード』を分析をしている*

物語の水準の分析にあたって、榊さんは、たとえばいわゆる「創発的物語」(参考)のような「拡張された物語概念」ではなく、「物語論における基本的な物語認識」つまり一般的な意味での物語の観点からの分析に議論を限定している(ibid: 262)。この限定についてはとくに不満はない。

問題は、そこで実際になされている分析が物語の内容の構造の分析に終始しているという点にある。ようするに、「なにが語られているか」(what)に注目したうえで、そこから抽象的な構造を抽出するというタイプの分析がなされている。榊さんもいくつか言及しているように、これは有名なV. プロップを淵源として、T. トドロフ、A. J. グレマス、R. バルト、C. ブレモンといった構造主義者が60~70年代にかけてさかんにやったタイプの仕事である。

一般的にいって、このタイプの分析は、ある表現形式の固有性を引き出すのには向いていない。というのも、物語内容は(少なくとも理論的には)媒体から独立に同定可能なものであって、それが小説だろうが映画だろうがマンガだろうがゲームだろうが同じ分析になるからだ。榊さん自身、「物語の水準のみを見るならば、『バイオ』はきわめて貧しい作品といわざるをえない」(ibid: 268)と書いているが、物語内容とその構造に注目するかぎり、おそらくほとんどのビデオゲーム作品に対しては(ビデオゲームの固有性を拾うという点で)興味深い分析はできないと思われる。

一方で、これとは別に、G. ジュネットに代表されるようなタイプの物語論がある。これは、たとえばジュネットを例にすれば、産出されたテキスト(物語言説)、テキストから想定される語り手のありかた(物語行為/物語状況)、テキストが表す事柄(物語内容)のようなレベルを区別したうえで、それらのレベルの相互関係のありかたを分析するタイプの仕事である。これは「いかに語られているか」(how)の分析だといえるかもしれない。

この後者のタイプの物語論だと、表現形式のちがいが顕著にでてくるだろう。C. メッツやD. ボードウェルのような論者が映画についてやっているのはまさにそういうことである。

この観点をとれば、『バイオ』であれなんであれ、それなりに面白い分析ができるのではないかと思う。また実際、ゲーム研究における物語論的な議論の多くは、このタイプに属する。創発的物語の話はともかく、たとえばいわゆる「環境ストーリーテリング」(参考)の話は、ビデオゲームという表現形式がいかにして独特のしかたで物語を実現するかという話である。

このへんについては、ほんとうにいろいろな理論的枠組みが提示されている。最近よんだ『The Routledge Companion to Video Game Studies』の「Narratology」の項目(Arsenault 2014)がよくまとまっていて勉強になった*

「プレイ経験」の分析のための枠組みについて

榊さんがいう「非物語的経験=プレイ経験」は、おおよそ一般的に「インタラクティブな経験」として説明されるものだとされる(ibid: 258)。榊さんは、この「プレイ経験」を「テレプレゼンス経験」としてとらえるみかたを提案している*

「テレプレゼンス」は以下のように定義される。

テレプレゼンス(テレイグジスタンスとも呼ばれる)とは、主にバーチャルリアリティ研究で使用される概念であり、「人間」が「従来の時空の制約から解放」され「時間と空間、ないしはそれら両者の隔たった実効環境に、等価的に存在すること」〔…〕を指す。本稿では、先行論を踏まえ、テレプレゼンスを「今・ここ」に存在すると同時に「ここ」ではない「どこか」にも存在し、かつ、その「どこか」の環境に何らかの影響を与えうるような形で行為が可能であるような状態としてとらえることにするが、プレイ経験をテレプレゼンス経験としてとらえうることは明らかであって(ゲームを遊んでいるとき、われわれは「今・ここ」に存在すると同時にゲームが提示する「ここ」ではない仮想空間にも存在し、かつ、その中でその環境に影響を与えうるような形で行為を行っている)〔…〕(榊 2015: 258-259)

榊さんによれば、このように「テレプレゼンスとしてのプレイ経験」というみかたを導入することで、プレイヤーの経験においてある種の「自己の二重化」が生じるということや、「プレイ経験」の水準においては「ゲームというものが、プレイヤーにある種の行為を可能にするような空間・環境という位相において存在している」ということが明らかになる(ibid: 259-260)。

後者を言い換えれば、少なくとも「プレイ経験」のレベルでは、ビデオゲームは、空間デザイン=レベルデザインによってプレイヤーの行為をデザインするもの(行為を制約し、方向づけるもの)としてあるということだろう(ibid: 269-270)。このように、榊さんは〈空間デザインによる行為のデザインとしてのビデオゲーム〉*という観点を導入したうえで、それを実際に『バイオ』に適用して具体的な分析をおこなっている(ibid: 270-277)。

批判は以下3点*

①空間デザインは行為のデザインの手法の一種/一部でしかない

「プレイ経験」つまりビデオゲームの受容におけるインタラクティブな側面を、行為のデザイン(あるいはデザインされた行為)という観点からとらえることには基本的に同意する。しかし、その行為のデザインの手法は、空間デザインにかぎられるわけではない。たとえば、テキストアドベンチャーやノベルゲームのようなテキストベースのゲームは、一般に空間による行為のデザインの側面を完全に欠いている。また、たとえ空間デザインが重要なものとしてある場合でも、ほとんどのビデオゲーム作品では、非空間的な各種パラメータのおかげでその空間が(ゲームプレイに関与的なものとして)意味づけられている(ストラテジーゲームなどを考えればわかりやすい)。

そのいみで、〈空間デザインとそれによる行為のデザインがビデオゲームの非物語的でインタラクティブな側面の本質的な特徴である〉とする考えは受け入れがたい。この批判は、最近和訳がでたレベルデザイン本(トッテン 2015)のように、レベルデザインをさもゲームデザインの中核であるかのように扱う議論にも言えることだ(トッテン本については近々レビューする予定)。

もちろん、空間デザインは多くのビデオゲーム作品のゲームデザインにおいて決定的に重要な部分を担っているだろうし、歴史的に言ってビデオゲームが空間による行為のデザインをフィーチャーしてきたのはたしかである(これはアタリアーケードの時代からそうである)。しかし、ビデオゲームにおける行為のデザインの手法は、それに尽きるわけでもなければ、それを必ず必要としているわけでもない。

②テレプレゼンスの経験は一部のビデオゲーム作品にしかいえない

テレプレゼンスの経験は、ふつうに考えれば空間による行為のデザインを前提している。それゆえ、空間による行為のデザインの側面を欠くビデオゲーム作品のプレイは、一般にテレプレゼンスの経験を欠く。

また、空間をとおした行為のデザインの側面を持つビデオゲーム作品がすべてテレプレゼンスの経験を与えるわけでもない。一般に、プレイヤーキャラクタ(一人称であれ三人称であれ)を欠くものはテレプレゼンスの感覚を与えないだろう。さらに、プレイヤーキャラクタがいる作品であっても、たとえばストラテジーゲームのように、ほとんどテレプレゼンス経験を与えないものも数多くある。

おそらくテレプレゼンスの経験は、なんらか独特のしかたで空間的に操作可能なプレイヤーキャラクタをもつビデオゲーム作品についてのみいえることである。たしかに『バイオ』のような三人称アクションアドベンチャーの多くはこれに含まれるかもしれない。また、オープンワールドやFPSジャンルの作品のほぼすべてもそこに含まれる(少なくともそう意図されている)だろう。しかし、明らかにビデオゲーム一般に見いだせるものではない。

③「テレプレゼンス」という概念の理論的負荷

これは榊さんに対する批判というより「仮想世界のなかにいる」というような概念を持ち出す議論一般に対する批判になるが、そもそも「テレプレゼンス」という概念自体が現象学的にも存在論的にも負荷が大きすぎる。

「テレプレゼンス経験」という概念で想定されている経験が独特の経験であり、それがビデオゲームのプレイ経験においてしばしばみられることはたしかだろう。また、その経験がしばしば、現実ではないどこか(仮想世界あるいは虚構世界)で行為する経験であるかのように記述されることもたしかだろう。

しかし、これらの事実から、プレイヤーが〈仮想空間内に存在したりそのなかで行為を行ったりしている〉という帰結は出てこないし、さらにいえば〈仮想空間内に存在したりそのなかで行為を行ったりするかのような経験をしている〉という帰結も出てこない。そのような経験を実際にしていなくとも、プレイヤーは、「竜王の城にいった」とか「発電所を建てた」とかいった言明を問題なくできるはずだからである。

また、仮にプレイヤーがそのような経験をしている場合であっても、そこから「プレイヤーが実際に仮想世界のなかにいる」ということを言うためには相当いろいろな問題をクリアする必要がある。たとえば、そもそも仮想世界とはなんなのか、どこにあるのか、どういう条件を満たせば文字通りそこにいることになるのか、われわれが受け入れている存在論は「仮想世界」のようななにかを許容するのか、といった問題がある*

というわけで、「テレプレゼンス」や「仮想世界内」といった概念をつかうといろいろ厄介な問題がくっついてくる。もちろん、そのような経験が実際にあり、かつまさにその経験にかぎって論じたいときには「テレプレゼンス経験」という概念は適切だろう。しかし、ビデオゲームのプレイの行為的側面(のうちの空間デザインにかかわるもの)を一般的に論じるために、そのような理論的負荷の大きい概念をつかうことは適切ではない。

ルーネ・クレヴヤー(Klevjer 2012: 17)は、プレイヤーキャラクタを「ゲーム世界における〔プレイヤーの〕行為者性(agency)と現存性(presence)の媒介物(vehicle)」として特徴づけているが*、おそらくビデオゲームにおける行為的側面についての議論の多くは、「行為者性」の概念だけで十分に事足りる*。そこで「プレゼンス」という概念を持ち出す必要はないし、プレイヤーとは別に「行為者」(agent)や「代理者」を想定する必要もない。空間デザインによる行為のデザインを論じる場合でも、「仮想世界」や「ゲーム世界」のような概念は必要ない。〈空間の表象あるいは虚構世界の表象をつうじて、プレイヤー自身の現実的な行為が方向づけられたり制約される(あるいは制約されているということが伝達される)〉などといえば説明できる話である。

「(テレ)プレゼンス」や「仮想世界」という概念が必要になるとすれば、プレイヤーが〈現実のここではないどこかにいるかのような経験〉や〈キャラクタと同一化しているかのような経験〉を本当にしているケースを説明するときである。たしかにそのような経験は、クレヴヤーのいいかたを借りれば、現象学的には「補装具的テレプレゼンス」(prosthetic telepresence)として記述しうるものかもしれない。しかし、それはビデオゲームのプレイ経験のうちのごく特殊なケースだろう*


いろいろ批判してきたが、榊さんがしている『バイオ』の分析自体は、面白いし示唆に富むものになっていると思う。とりわけ、「行為系」という概念で、プレイヤーの行為の質や動機づけが複数あることを分析している点はとても参考になる。つまり、複数の異なる「行為系」のあつまりとして『バイオ』のプレイ経験を分析しているわけだが、この分析は、その作品の楽しみが複数あること、またその複数の楽しみが互いに関係したり時間的に同期したりすることで、全体としてのプレイ経験をリッチなものにしていることを的確に説明するものにもなるだろう。

榊さんの言葉を借りれば、ビデオゲーム作品は「互いに絡み合う複数の行為の可能性の系列」をデザインするものであり、そしてそれによってプレイヤーの行為とその経験は「多層化」される(榊 2015: 277)。ビデオゲームの受容における行為的側面についての記述はこの点を適切なかたちで拾わなければならないが、榊さんの仕事はそれを十分に達成していると思う。

というわけで繰り返しますが、現時点で日本語で読める人文系ゲーム研究の論文のうち最良のもののひとつなので、ゲーム研究にかかわりある人は読んでください。

Footnotes

  • ちなみに、この論文集にはビデオゲームについての論文がもうひとつ収録されている: 竹本寛秋「ドライビングゲームにおいて、いかにして『物語』はマウントされるのか、あるいはされないのか」 押野武志編『日本サブカルチャーを読む』所収, 北海道大学出版会, 2015, pp.129-153.

  • それぞれの「水準」は基本的に互いに独立に論じられており、榊さん自身がいうように「物語的水準と非物語的水準の『交錯』」という重要な点についてはほとんど論じられてはいないのだが(榊 2015: 278)、この点はしかたがないと思う。そういう話をするための前提を整理する段階がまずたいへんなので、論文レベルの分量だと十分な議論はむずかしい。

  • これは高くて自費で買えないので山根さん(@shinjiyamane)にお借りしているものです。Special thanks.

  • 「プレイ経験」を「テレプレゼンス」として特徴づけるアイデア自体は、すでに榊(2008)で提示されている。

  • 参照していただいたのかどうかわからないが、わたしも以前、ゲームを行為のデザインという観点から特徴づける考えを提示した(ただし、その議論の焦点は〈行為のデザイン一般からゲームを区別するものはなにか〉というものだったが)。もちろん、レベルデザインをとおした行為のデザインは、その一手法として位置づけられる。

  • いずれの批判も、『バイオ』を分析するための理論的枠組みとしてではなく、ビデオゲーム一般を分析する理論的枠組みとして考えたうえでの批判になる。そのいみで、やや不当な批判になっているかもしれない(榊さんは少なくともこの論文では『バイオ』しか分析してないわけなので)。

  • この論点については以前論文を書いたので参照。「仮想世界」や「バーチャル」概念を持ち出すことについては多少考えが変わっているが、それらを存在論的に擁護するのは難しいという見解は変わっていない。

  • むかしこの論文の前半だけまとめたものがあるので、リンク張っておきます。

  • グラント・タヴィナー(Tavinor 2009: ch.4)がいうように、ビデオゲームのプレイにおける行為には、認知的(epistemic)な側面と行動的(behavioral)な側面が別のものとしてあるだろう。タヴィナー自身は、この両側面のそれぞれに「虚構的代理者」(fictional proxy)を想定し、それによってプレイヤーが「虚構世界に入り込む」(step into a fictional world)ことになるという議論を展開しているが、行為者性だけを問題にするなら「代理者」や「入り込み」のような概念は不要である。タヴィナーによる「インタラクティブなフィクションとしてのビデオゲーム」というみかた(ibid: ch.3-4)は、榊さんの理論的枠組みにかなり近いかもしれない。

  • ついでにいうと、この手の話をするときに「没入」(immersion)という概念がうやむやなかんじで持ち出されることもよくある。この概念の多義性についてはいろんな人が整理しているが、ゴードン・カジェーハ(Calleja 2011)のものがまとまりがいいと思う。

References

  • 榊祐一. 2015. 「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム――『バイオハザード』を例として」 押野武志編『日本サブカルチャーを読む――銀河鉄道の夜からAKB48まで』所収, 253-286. 北海道大学出版会.
  • 榊祐一. 2008. 「ビデオゲーム/物語/テレプレゼンス」『層――映像と表現』2: 59-86. ゆまに書房.
  • Arsenault, D. 2014. "Narratology." In The Routledge Companion to Video Game Studies, eds. M. J. P. Wolf & B. Perron, 475-483. New York, NY: Routledge.
  • Calleja, G. 2011. In-Game: From Immersion to Incorporation. Cambridge, MA: MIT Press.
  • Klevjer, R. 2012. "Enter the Avatar: The Phenomenology of Prosthetic Telepresence in Computer Games." In The Philosophy of Computer Games, eds. J. R. Sageng, H. Fossheim, & T. M. Larsen, 17-38. Dordrecht: Springer.
  • Tavinor, G. 2009. The Art of Videogames. Malden, MA: Wiley-Blackwell.
  • トッテン, C. 2015. 『ゲームデザイナーのための空間設計――歴史的建造物から学ぶレベルデザイン』Bスプラウト訳. ボーンデジタル.