カント『判断力批判』54節

Jun 14, 2016|美学・芸術の哲学

Immanuel Kant. Aquatint silhouette by J.T. Puttrich, 1793. Wellcome Collection. (CC BY 4.0)

※2012.04.15に書いたものです。

勉強会用のまとめです。

『判断力批判』54節「注」は、美や理性的な満足とは異なるものとしての楽しみ(Vergnügen)を扱っている部分。本筋から外れたトピックで適当感溢れるところだけど、美的経験とは区別される娯楽経験みたいな論点に興味ある人には独立で面白く読めるところかもしれない。

おおまかな内容は以下のとおり:

  • 楽しみは、たんに判定においてだけで満足なもの(美)や理性的な満足とは異なる。
  • 楽しみは、健康(Gesundheit)の感情を本質とする。
  • 健康とは、身体的運動(内臓の運動を含む)を通した生の促進。
  • 楽しみにはギャンブルや音楽も含まれるが、とくに笑いを誘う冗談が中心的にあつかわれる。
  • 最後に、楽しみがかかわる特殊ケースとして、素朴や陽気について軽く触れられる。

以下、内容のまとめ。底本は以下のオンライン版。

第54節 注

第1段落 〔楽しみと他の種類の満足の区別〕

  • 〔訳語は、「Vergnügen」=「楽しみ」、「Wohlgefallen」=「満足」で統一。〕
  • たんに判定においてだけで満足なもの(美)と、楽しみ(感覚的に満足なもの)は本質的に異なる。
    • 前者は普遍的な同意を要求できるが、後者はできない。
    • 楽しみの本質は、生全体の促進(つまり身体的健全ないし健康)の感情にある。
  • また、感覚的な満足つまり楽しみは、理性的な満足とも異なる。
  • この区別によって、〈満足ではないがうれしい〉、〈悲しいけれども満足〉、といった事例が説明できる。

第2~4段落 〔三種類の感覚的なたわむれ〕

  • (意図にもとづかずに)諸感覚がかわるがわる(wechselnd)自由にたわむれることはすべて楽しい。
    • というのも、そのようなたわむれは健康の感情を促進するから。
    • この手の楽しみは、理性的な満足とくいちがうこともあるし、また、その対象に対する関心をとりたてて必要としない。
  • このようなたわむれ〔遊び〕を以下の三種類に区別できる。
    • 賭け事のたわむれ〔ギャンブル〕
      • 見栄とか利益に対する関心が多少は必要なもの。
      • ただしこれは「美しいたわむれ(schönes Spiel)」ではないから以下スルー。
    • 音のたわむれ〔音楽〕
      • 諸感覚の変化(Wechsel) ⇒ 美的理念 ⇒ 心を生き生きとさせる ⇒ 身体を生き生きとさせる
    • 思考のたわむれ〔冗談〕
      • 諸表象の変化 ⇒ 心を生き生きとさせる ⇒ 身体を生き生きとさせる
  • 「両者〔音楽と冗談〕における活気づけは、それらが心の諸理念によって呼び覚まされたものであったとしても、たんに身体的なものにすぎない。〔…〕楽しみを構成するのは、〔調和に対する〕判定ではなく、身体における生の促進の感情、〔…〕つまり健康の感情である。」(S.332)

第5~8段落 〔冗談と笑いについて〕

  • 生き生きとした笑いを引き起こすものは、おしなべてなんらか理屈に合わないものである(それゆえ、それに対して悟性自体はいかなる満足も見出しえない)。
  • このような笑いは、張り詰めた期待が唐突に無に転化すること(Verwandlung)からくる情動である。
    • 「もちろん、その表象が客観的に楽しみの対象であるかぎりはそうはならない(というのも、期待が裏切られることが楽しみであることはないだろうから)。〔転化が笑いを生じさせるのは、〕もっぱら、それが、諸表象のたんなるたわむれとして、身体のうちに生命諸力の均衡を生み出すことによってなのである。」(S.333)
  • われわれの思考がすべて身体諸器官の運動と調和的に結びついていると想定すれば、心のうえでの転化が内臓の弾性的な部分の緊張と緩和に対応し、そしてそれが横隔膜に伝わるということについて、まあ納得できるだろう。
    • 「その際、肺は空気をすばやく断続的に吐き出して、健康によい運動を生じさせる。思考に対する楽しみ〔冗談〕の本来の原因は、もっぱらこの運動なのであって、心のうちに生じるものではない。この場合の思考は、根本においては、なにも表象していないのである。」(S.334)
  • 転化は、期待されたものの積極的な逆(positives Gegenteil)への転化ではなく、無への転化でなくてはならない。
    • 「お隣の旦那さん、ショックすぎて一晩で白髪になっちゃったってね」 ⇒ つまらん
    • 「お隣の旦那さん、全財産を積んだ積荷が嵐で沈んじゃってね、ショックすぎて一晩でヅラが白髪になったって」 ⇒ 大爆笑
    • 〔つまり、「うそくさー」ではなく「なんでやねん」でなければならない。〕
  • 面白いことに、このような冗談には、ぱっと見だとだまされそうなものが含まれている。
    • ぱっと見だまされそうなもの ⇒ 二度見する ⇒ 心の緊張/弛緩の唐突な切り替わり ⇒ 心の動きに対応する身体の内部運動 ⇒ 健康!
  • このような〔心的/身体的な〕運動は、意志に関係なく持続し、疲れを引き起こすが、同時に晴れやかさ(Aufheiterung)も生み出す。
  • 冗談言うにも才能が必要!

第9段落 〔快楽主義に対する予防〕

  • 「そういうわけで、〈あらゆる楽しみは、美的理念を呼び起こす概念によって引き起こされたものであるにせよ、動物的つまり身体的な感覚である〉というエピクロスの説を認める余地はあるように思う。このことによって、道徳的理念に対する尊敬という精神的感情が損なわれることはない。この感情は、決して楽しみではなく、楽しみの欲求を越えてわれわれを高める(われわれのうちにある人間性の)自己尊重(Selbstschätzung)である。さらに、高尚さの点ではより劣る趣味の感情ですら、このこと自体によって損なわれることは一切ない。」(S.334-335)

第10段落 〔素朴について〕

  • 素朴(Naivität)のうちには、両者〔楽しみと自己尊重〕の組み合わせから生じたものが見出せる。
  • 素朴は、人間性に本来自然に備わる正直さ(Aufrichtigkeit)が、もうひとつの自然になってしまっている偽装の術(Verstellungskunst)に反して発露したものである。
  • 素朴に接すると、人は、偽装のしかたを知らないその無邪気さ(Einfalt)を笑いつつも、同時に偽装の術の斜め上をいく〔?〕自然の無邪気さを喜ぶ。
    • たとえば、美しい仮象になるよう慎重になされたわざとらしい発言というごくふつうの礼儀作法を期待していたところに、予期せぬしかたで純真無垢な自然があらわれた場合(それをやらかした当人もそのつもりではなかった場合)。
    • ふだんのわれわれの判断においては、美しくも偽の仮象が大きな意味を持っているわけだが、素朴によってこの仮象が唐突に無に転化することで、ふたつの相反する方向への心の運動が生まれ、同時に身体によい振動を起こす。
    • いかに偽装していても人間本性から純粋さ(Lauterkeit)がなくなってしまうことはないので、素朴によって引き起こされた楽しみ・笑いの中には、まじめさと尊重が混じることになる。
  • 素朴の発露は一時のもので、すぐにまた偽装の術におおわれる。
    • なので、そこには残念さ(Bedauren)が混ざる。
    • この残念さは、思いやり(Zärtlichkeit)の情であるが、この情は、そのような心優しい(guterzig)笑いと非常によく結びつく。
  • 素朴であろうとする技術〔意図的な天然キャラ〕は矛盾である!
    • とはいえ、虚構の人物のうちに素朴を表象する技術は可能。
  • 素朴とあけっぴろげな無邪気を混同してはならない。その手のあけっぴろげな無邪気さが、その本性を作り込んで(verkünsteln)いないのは、たんに交際術のなんたるかを心得ていないからにすぎない。

第11段落 〔陽気と気まぐれについて〕

  • 笑いによる楽しみと似たものとして、陽気な立ち振る舞いも挙げることができる。
  • 陽気(Laune)は、意のままにある特定の心の状態にすることができる才能を指す。
    • そのような状態では、すべてのことは、ふだんとはまったくちがったふうに(場合によっては真逆に)判定されるが、とはいえ、その判定も、そのような〔陽気な〕心の気分におけるなんらか特定の理性原理にしたがっている。
    • このような気分の変化に心ならずもしたがっている人は気まぐれ(launisch)であり、気分を意のままにできる人が陽気である(launicht)と呼ばれる。
  • この陽気な立ち振る舞いは、美しい技術〔芸術〕というよりも快適な技術に属する。
  • 美しい技術の対象は、つねになんらかの品位を示さねばならず、それゆえ、その表現の中にある種のまじめさがなければならない。これは、判定において趣味がある種のまじめさを必要とするのと同様である。