シノハラユウキ「フィクションは重なり合う」について

May 14, 2016|美学・芸術の哲学

シノハラユウキ『フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ』(logical cypher books, 2016)(目次と概要)をご恵投いただきました。電子版を買う気まんまんでいたところだったので、たいへんありがたいです。以下、所収の以下の論文についてレビュー。

  • シノハラユウキ「フィクションは重なり合う: 分離された虚構世界とは何か」『フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ』所収, 5–113. logical cypher books. 2016.

分析美学的な議論の良さと面白さがはっきり出ている論文だった。個人的に非常に面白く読めたが、それ以上に人に薦めたい論文だった。いいところは少なくとも4つ挙げられる。

  1. 描写の哲学とフィクションの哲学の入門として
  2. 先行議論のレビューとして
  3. 分析美学的な枠組みを使った批評として
  4. オリジナルの枠組みとして

1. 描写の哲学とフィクションの哲学の入門として

本論・補論あわせてかなりの分量が、分析美学、とりわけ描写の哲学とフィクションの哲学の紹介にあてられている。少なくともざっくりと理解するだけなら、十分に的確かつ明快なサーベイになっていると思う(内容はさすがに専門的なので、平易とまではいかないかもしれないが)。日本語文献についての参照も豊富だ。

この分野の最近の動向について勉強するには、とりあえず、分析美学ブックフェア高田さんのブログ、そしてこのシノハラさんの論文の3つから入っておけば、まちがいない。

2. 先行議論のレビューとして

高田(2014–2015)と伊藤(2005)を中心に、フィクションや画像の複層性を論じる先行諸議論(対象ジャンルはマンガ、アニメ、ゲーム、舞台など広範囲にわたる)を、わかりやすくポイントを押さえながらレビュー・定式化している。

とりわけ、伊藤さんの「ウサギのおばけ/マンガのおばけ」概念を再定式化しているところはすごいものがある。個人的に以前から伊藤さんの議論に対して「論じたい事柄はよくわかるし興味深いが、分析概念があやふやすぎるせいで議論がろくに成り立ってなくてもったいない」という感想を持っていたので、シノハラさんの切れ味ある分析で相当すっきりした。

ほんとにこういうのが美学の役立つ道だよなーと思う。真似したい。

3. 分析美学的な枠組みを使った批評として

オリジナルの概念である「分離された虚構世界」(後述)を軸にして、いろいろな具体的な作品の特徴とその見どころが論じられている。この概念も含め、きわめて分析美学的な枠組みのもとで地に足をつけたかんじの批評になっていて、シノハラさん自身が言っているとおりの「分析美学を用いた作品論」として文句なく成り立っていると思う。

わたし自身は、枠組みはせっせと作りたがるものの、(少なくとも研究者としては)規範的・評価的な主張はほとんどしない(なので批評もしない)ので、こういった批評への具体的な適用を見ると感心するし、また美学のアピールポイントも再確認できてうれしいところがある。

4. オリジナルの枠組みとして

「分離された虚構世界」というオリジナルの概念を中心にした枠組みは、導入の動機がはっきりしている、概念が明確に定義されている、既存の理論との関係や差異がはっきり示されている、といった点で模範的な理論だと思う。真似したい。

「分離された虚構世界」の基本的なアイデアは、描写の哲学の文脈における「分離された内容」*という概念を、フィクションの哲学における「虚構的真理 / 虚構世界」に類比的に適用するというもの。この概念を導入する動機には、完全に共感できる*。フィクション作品において、〈当の世界上の真理であるとは言えないが、それでもなんらかの意味で作品の重要な内容であるもの〉が描かれるケースはごくふつうにある。また、そうした表現はたいてい芸術的な意図の産物だ。それゆえ、それらをどう説明するかというのは、美学的な問いとして当然のものだろう(もちろん、そうしたケースをすべて同じ枠組みで説明できるかどうかは別の問題だが)。

一方で、枠組みの内容については、いくつか問題があるように思われる。以下2つ書いておく。

「分離された内容」と「分離された虚構世界」の類比

まず、「分離された内容」と「分離された虚構世界」の類比があまりうまくいってないのではないかという気がする。結果として、概念使用がやや揺れて見えるところがある。

高田さんの「分離された内容」は、「描写内容」*に先んじて(あるいは少なくともそれとは独立に)同定できるものだろう。これはおそらくシノハラさんにも共有されている。一方、シノハラさんの「分離された虚構世界」は、「物語世界」の同定に依存するかたちで(あるいは少なくとも、物語世界の同定と表裏一体のかたちで)、いわば物語世界の剰余として同定されるものであるように読める。つまり、〈虚構的真理のうち、物語世界上の真理として読むと不整合をきたすものが、分離された虚構世界を構成する〉というふうに読める(シノハラ 2016: 35)。しかし、分離された内容と描写内容の関係は、明らかにそのような相補的な関係ではない。

このずれのおかげで、整合的な読解がやや難しくなっている気がする。たとえば、描写における分離された内容から描写内容を特定する方法に関するホプキンスの議論が参照されたうえで、同じことが「虚構的真理のうち、何が物語世界に属するのかを決める」方法にもある程度当てはまるという議論がされている箇所があるが(シノハラ 2016: 33–34)、前後の文脈をあわせると、〈物語世界の特定以前にすでに同定されている虚構的真理の集合が、そのまま分離した虚構世界を構成する〉と言われているように読めなくもない。

「分離された虚構〈世界〉」である必要性

「分離された虚構世界」概念を使って説明したい事柄はよくわかるが、それを「虚構世界」(あるいは「虚構的真理」)と呼ぶ必要性がよくわからない。つまり、ふつうに「内容」じゃだめなのかということだ*

おそらく理由のひとつは、ウォルトン(Walton 1990)の枠組みにもとづいているという点にある。ウォルトンの理論の基本的なアイデアは、〈「pがfictionalである」=「ごっこ遊び(比喩)においてpを想像するよう指定されている」〉というものだ*。それでいくと、シノハラさんが言う〈分離された虚構世界を構成する虚構的真理〉がウォルトン的な意味でfictionalなのは明らかだ(想像しなきゃいけないので)。

しかし、〈たんに当該フィクションの受容にあたって想像する必要がある内容〉と〈当該フィクションが描く世界上の真理〉のあいだには概念的に相当の開きがある。単純な例を出せば、当の虚構世界上で明らかに偽の事柄q(たとえばある人の妄想の中身)を偽として描く場合にも、受け手はqを想像する必要がある。で、ふつうそのqを「虚構的真理」とは呼ばないだろう。

松永(2013)はここで命題内容と発語内行為の区別を持ち出したわけだが、上記のウォルトンラインでがんばるなら、「pを想像するよう指定されている」と「pが当の虚構世界上で真であると想像するよう指定されている」を区別すればいいのかもしれない。しかし、その場合、シノハラさんの〈分離された虚構世界を構成する虚構的真理〉が前者ではなく後者として説明すべきものかどうかは、かなりあやしくなると思う(少なくとも、そう主張する理屈が別途必要だろう)*

おわり。この話題については、以上の話も含めて、まとまったかたちでそのうちどこかに書きたい。

Footnotes

  • 「分離された内容/対象」概念は、直接には高田(2014–2015)からのものだが、高田さんもまた、ホプキンスらのアイデアを参照している。

  • シノハラさんも言及しているように、わたし自身以前に同じような動機のもとで似たような枠組みを提示したことがある(松永 2013)。ただ、これはもとから満足のいくものではなかったし考えもやや変わったので、高田さんやシノハラさんの議論も踏まえて近いうちにアップデートできればいいと思う。

  • 「描写内容」はシノハラさんの言い方。高田さんは「狭義の図像内容」といった言い方をしている。ついでに書くと、個人的にはこの2種類の内容の区別については、Abell(2005)の「見える内容」(visible content)と「描写内容」(depictive content)という言い方がわかりやすくて好みだ。描写内容の特定を会話の含みとの類比で説明している点もしっくりくる。

  • もちろん、その場合も、絵そのものの内容(分離された内容、描写内容)とは概念的に区別する必要があるだろう。とはいえ、シノハラさん自身が書いているように、描写ベースのフィクションの場合は「基本的には描写内容が〔そのまま〕虚構的真理になる」(2016: 36)のであれば、わざわざ「虚構的〈真理〉」という別のレベルを設ける必要はない(ふつうに「虚構的内容」などと言えば済む)のではないかという気がする。

  • この定式が微妙かつウォルトン自身もそれを自覚しているという話については、以下を参照。

  • この場合は、もちろん「物語世界上で真」ではなく「分離された虚構世界上で真」という説明になる。シノハラさんが「分離された虚構世界」の事例として挙げるもののいくつかに関しては、そう言いたくなる理由はなんとなくわかるが、明確に述べられているわけではない。

References

  • 伊藤剛. 2005. 『テヅカ・イズ・デッド: ひらかれたマンガ表現論へ』 NTT出版.
  • シノハラユウキ. 2016. 「フィクションは重なり合う: 分離された虚構世界とは何か」 『フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ』所収, 5–113. logical cypher books.
  • 高田敦史. 2014–2015. 「図像的フィクショナルキャラクターの問題」 Contemporary and Applied Philosophy 6: 16–36. http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/view/146.
  • 松永伸司. 2013. 「マリオはなぜ三つの命を持たないか」 http://researchmap.jp/muno2cgm9-1918131/#_1918131.
  • Abell, C. 2005. "Pictorial Implicature." Journal of Aesthetics and Art Criticism 63(1): 55–66.
  • Walton, K. 1990. Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Cambridge, MA: Harvard University Press.