G. Tavinor, The Art of Videogames

D. M. Lopes & Berys Gaut編のNew Directions in Aestheticsシリーズの一冊として出されたもの。

著者のGrant Tavinorはニュージーランドの哲学者で、序文によると、Stephen Daviesのもとで博士論文を書いたらしい。2008年に、芸術の定義論を援用したビデオゲームの定義の論文書いてる。あと、その再考がThe Philosophy of Computer Games Conference 2009のプロシーディングに載っている。両方ともオンラインで読めます。

あとこういうのもある。

The Art of Videogamesは、Jesper JuulのHalf-Realほどビデオゲームそのものについての細かい分析はしてない気がするけど、美学的な論点を的確に抑えていて、わりとしっかりした内容だと思う。例が多くてちょっと冗長感はあるものの、いい本だと思います。

以下、各章末のサマリーを訳出しておきます。


1. ビデオゲームという新しい芸術

ビデオゲームは、現代社会における成長中の現象・影響であり、また芸術的洗練の新たな水準を示すものである。この点で、ビデオゲームは、伝統的な芸術と多くの論点を共有するように思われる。つまり、ビデオゲームは、美的なもの、再現[representation]、物語、情動、道徳についての問いを提起するのである。これらの問いは芸術の哲学が焦点をあわせてきたものであった。哲学的美学は、ビデオゲームを理解するための独特の観点を提供する見込みがある。(p. 13)

2. ビデオゲームとはなにか

ビデオゲームに対する諸々の先行する理論的アプローチは、ビデオゲームの定義として考えた場合にはそれほど有望なものではない。ビデオゲームを定義するためには、まず定義そのものの形式的可能性を考え、ビデオゲームのありかたは一個以上ありうるという可能性を提示する定義を構築する必要がある。Xがビデオゲームであるのは、〔1〕Xが視覚的デジタル媒体を持った人工物であり、かつ、〔2〕娯楽の対象として意図されており、かつ、〔3〕〈ルールおよび目標を持ったゲームプレイ〉か〈インタラクティブなフィクション〉のいずれかを使うことによってそのような娯楽を提供するよう意図されているとき、またそのときにかぎる。この定義は、この研究における重要な論点を提供することになる。さらに、この定義は、ビデオゲームと先行する諸々の文化形式の連続性についての反省を可能にする。ビデオゲームと他の文化形式の結びつきは、後続の章で検討される。(pp. 32-33)

3. ビデオゲームとフィクション

ビデオゲームはフィクションである。というのも、ビデオゲームは、先行するフィクション形式とは再現媒体の点で異なってはいるものの、それら先行の形式と語用論的文脈を共有しているからである。つまり、ビデオゲームは想像上のものだけが存在する状況を描写しようとするのである。フィクションについての哲学的文献は、フィクションがどのように受け手に働きかけるかについてや、作り手がどのように小道具[props]を組み立て、不朽で豊富なしかたで虚構世界を再現するかについて、詳しく論じている。この議論を使うことで、ビデオゲームの文脈の中でこれらの事柄がどのように生じるかを説明することができる。フィクションと仮想性[virtuality]は反対概念ではなく、重なり合う概念である。そして、ビデオゲームは、しばしば仮想的なフィクションになる。というのも、ビデオゲームの小道具は、新しいデジタル媒体を利用することで、プレイヤーのインタラクションを部分的に可能にしているからである。ビデオゲームのプレイヤーは、小説の読者とはちがって、虚構的な出来事の発生の決定に関してかなり大きな役割を担っている。これは、プレイヤーが小道具に出くわす[encounter]ことではじめて小道具が虚構世界を描写するからである。虚構的にリッチなゲームでは、このことによって、プレイヤーがビデオゲームフィクションのゲーム世界内で虚構的な役割を担うことが可能になる。ビデオゲームは、インタラクティブなフィクションなのである。(pp. 59-60)

4. 虚構世界に入り込むこと

『グランド・セフト・オート』や『オブリビオン』のような虚構的にリッチな最近のゲームでは、プレイヤーは、プレイヤーキャラクタの姿を借りて、視覚空間的[visuospatial]な虚構世界に入り込むことができる。プレイヤーキャラクタは、ゲーム世界でのプレイヤーの認識と行動の代理であり、それによってプレイヤーは、虚構世界の中で多くの事実を発見したり、その世界で行為したりできるようになる。このような虚構的なインタラクションを可能にする表現技法(とくに3D再現空間、バーチャルカメラ、ゲームメニュー、ヘッドアップディスプレイ、音響環境、触覚的要素)は短期間に顕著な発展を見せ、それによって、いまではゲーム世界を美的にリッチなしかたで描写することが可能になっている。機能の観点から言えば、これらの表現技法とその基礎であるゲームエンジンは、さまざまな娯楽機能を支えるのに適した堅固な[robust]虚構世界を守るのに寄与する。(p. 84)

5. フィクションを通したゲーム

ビデオゲームは、そのゲームをエンコードないし描写するのに、必ずしも宣言的な[declarative]ルールをつかうわけではなく、虚構世界内でのインタラクションのための可能性をつかう場合もある。たとえば、『グランド・セフト・オート4』では、プレイヤーに虚構上の目標を設定するとともに、その目標を達成するための虚構上の手段(アフォーダンス)の集合をプレイヤーに提供する。ゲームプレイは、これら手段と目的を発見し、実行することから成り立っており、それらは、しばしば創造的で新しいしかたでなされる。同じように、ゲームの状況的質(競争や、プレイヤーの注力や、日常世界からの分離性)もまた、フィクションによって説明される場合がある。最近のビデオゲームは、しばしばマルチプレイヤーフィクションになる。そこでは、プレイヤーたちは虚構世界に入り込んで、互いに競いあったり協力しあったり、場合によってはだましあいをしたりする。ゲームデザイナーは、このようなマルチプレイヤーのゲームを巧い具合に方向づけたり動機づけたりするしかたを工夫してきた。それは、しばしばゲーム世界の虚構的質に制約を課すことによってなされる。そういうわけで、ゲーム世界の虚構的性質は、リアリズムの観点から決められているというよりも、その虚構世界のゲーム上の機能を考えて決められていることが多い。(p. 109)

6. ビデオゲームと物語

ゲーミングと物語(ビデオゲームが持つ2つの娯楽機能)の構造的特徴は、緊張関係にある。インタラクティブなフィクションは、偶然性と反復可能性という要素を導入するわけだが、そのせいで、フィクションが持つ、情動的で知的に説得力があるドラマを作り出すのに適した、一貫した出来事の連鎖を伝える力が減じることになる。下手をすると、物語はプレイヤーの不活性をもたらす。このような不活性は、ビデオゲームの弁別的特徴であるインタラクティブ性と調和しない。それゆえ、ゲーム内に存在する物語は、しばしばゲームの本体に対してとってつけたようなものや付随的なものであるように見える。ゲームデザイナーたちはこの問題に自覚的であり、この緊張を解消しようと努めてきた。とくに、ビデオゲームの物語的側面とゲーミングの側面をより密接に統合することを通して、あるいは、不活性なカットシーンを削除し、ゲームの物語内容を発見する課題をプレイヤーに与え、場合によっては物語の道筋を部分的にプレイヤーに決めさせることを通して、緊張の解消が目指されてきた。これらの解決がゲームへの芸術的関心の多くを生み出している。そして、それは、ゲームデザイナーたちに、この媒体に固有の問題に対して技巧的な[artful]応答を返すことを可能にするのである。(p. 129)

7. ビデオゲームのプレイにおける情動

虚構的な情動についての難問を解決するには、想像上のシナリオが、情動的反応を引き起こすという点では現実的なシナリオと同様の力を持ってるということを認めればよい。情動についてわれわれが知っていることを見れば、あるゲーム世界の虚構的なものについての思考も、虚構的な小道具の知覚的な特徴も、ともにプレイヤーのうちに情動的な反応を引き起こしうるものであるように思われる。その応答は、あとになって虚構世界内でのプレイヤーのインタラクションに帰せられる。ゲームデザイナーは、リッチな情動的経験を可能にする想像的かつ知覚的な小道具をデザインすることによって、本質的にはわれわれの情動のボタンを押すことによって、このような情動的なポテンシャルを活用する。さらに、ビデオゲームはインタラクティブなフィクションであるから、受容者が抱きうる情動の種類は、他の虚構的媒体に見られる情動よりも幅が広い。つまり、プレイヤーは、罪や脅威をも感じることができるのである。というのも、プレイヤーの虚構的代理(プレイヤーキャラクタ)を通して、プレイヤーは虚構世界において能動的な役割を担うことができるのであり、そのことによってプレイヤーは、やましいことをしたり、虚構的に自分自身にとって恐ろしいと感じるのがふつうであるような状況に陥ったりする機会を与えられるからである。一般化すれば、インタラクティブなフィクションにおける情動的介入のこのようなありかたが示しているのは、情動が虚構世界におけるプレイヤーの介入を導くということであり、また、プレイヤーが適切かつうまいしかたで理解したり応答したりすることを可能にするということである。(pp. 148-149)

8. ビデオゲームの道徳性

ビデオゲームは、ゲーマー自身も含めた数多くの人々にとって、明らかに道徳的に心配なものである。この道徳的な心配の正当化を説明するためのよくある試み(ビデオゲームがプレイヤーや社会一般に対して持っているネガティブな影響力についての帰結的調査)は、ゲームないしゲーミングが非道徳的な活動であるということを立証するのに使えない。この帰結主義的な主張〔の内容〕に対する心配もあるが、より重大な心配は、帰結主義的主張をこの道徳的問題に適用することである。たとえその主張が真であったとしても、そのことはビデオゲーミングが道徳的に疑わしいという直観を支持するのに十分ではない。というのも、明らかに道徳的に問題があるような帰結が一切ないような場合が大多数であったとしてもなお、ビデオゲームは道徳的にいかがわしいと主張したがる人がいるだろうからだ。これらの直観にあわせるために、かなり多くのビデオゲームにおいて描かれている非常に攻撃的な内容とイメージに注意を向けることができる。つまり、それが虚構だとしても、それらの事物はある人々にとっては明らかに攻撃的なものなのである。しかし、このことは、ゲーミングの部分的な道徳的擁護を可能にする。というのも、道徳的な逸脱の可能性は、ゲームが意義ある芸術的美点も持っている場合には、容認されうるからである。実際、そのような道徳的逸脱は、ビデオゲームがまじめな(したがって潜在的に挑戦的な)芸術になるための前提条件かもしれない。(pp. 170-171)

9. 芸術としてのビデオゲーム

ビデオゲームは(少なくともそのうちのいくつかは)、芸術作品を同定ないし定義する芸術クラスタ説によって採用されている諸条件と、相当程度重なりを見せている。新しいデジタル装置を用いながら、ビデオゲームは、歴史的かつ文化横断的に芸術に結びつけられている目的や機能の多くを達成している。たとえば、美的快、様式的な豊かさ、情動的な彩り、想像的な介入、批判、妙技、再現、そして場合によっては特別な焦点や制度的側面などである。しかし、これらの場合のそれぞれにおいて、ビデオゲームが所与の規準を満たすしかたは、先行の芸術形式とは重要な点で異なっている。ビデオゲームは、芸術との連続性を持っているのと同じくらい、ゲーミングというかなり独立した文化形式とのつながりを持っている。それゆえ、ビデオゲームは、ふつう芸術に結びつけられない性質――競争的なゲームプレイ――を持つ。したがって、ビデオゲームの芸術としての地位についての結論を加減して、ビデオゲームは芸術と重要な点で結びついてはいるが、それは新しくて独特な種類の芸術であると言ったほうがいいかもしれない。(pp. 195-196)


あと末尾にゲーム用語とか美学用語とかごちゃまぜの用語説明があって便利。