『ゲーム化する世界』について (2/3)

Jun 10, 2013|ゲーム研究

『ゲーム化する世界』について (1/3) のつづき。今回は以下の論文について。

  • 松本健太郎「スポーツゲームの組成――それは現実の何を模倣して成立するのか」

松本さんは、「『画面の彼岸』に位置づけられる私、すなわちスクリーン空間の向こう側に表示される仮想的な身体をもったキャラクター(あるいは主人公)と、『画面の此岸』に位置づけられる私、すなわちスクリーン空間のこちら側に配置される物理的な身体をもったプレイヤーの関係性」および「それらの関係性を生成しているシミュレーションの複層的なメカニズム」を考察している。また、これを考察するにあたって、対象を「スポーツゲーム」に限定している(pp.72-73)。

そして、この「複層的なメカニズム」を明らかにするために、以下の三つの「シミュレーション」が説明概念として導入される(pp.77-79)。

  • ルールのシミュレーション
  • 世界のシミュレーション
  • 動作のシミュレーション

これらはおおむね「シミュレートされるもの」の点で区別され、おのおのに「リアリティの基準」がある。

ルールのシミュレーション」は、現実のスポーツのルールをシミュレートするもので、そのリアリティの基準は、「オリジナルのスポーツから借用されたルールが現実と対応関係にあるかどうか、もしくはそれらのルール設定がプレイヤーに対して十分な訴求力をもちうるかどうか」という点にあるとされる。

世界のシミュレーション」は、「世界の視聴覚的表象」をシミュレートするもので、そのリアリティは「グラフィックのリアルさ」や「環境音の臨場感」を基準にするとされる。

動作のシミュレーション」は、「世界内での身体運動」をシミュレートするものであり、そのリアリティの基準は、コントローラ操作と現実のスポーツにおける身体運動との「類似性」があるかどうか、つまり両者のあいだに「恣意的」な「変換」がないかどうかであるとされる。たとえば、Jesper JuulがCasual Revolutionで論じた「擬態的インターフェイス」(Wiiリモコンとか)は、この動作の恣意的変換を「後景化」させ、現実の身体運動の「模倣」を実現させる。

松本さんは、この図式を使って「コンピュータゲームを単純な現実の模倣ではなく、むしろ複数の基準に依拠した現実のシミュレーションを基盤として成立するものとして把握」しようとしている(p.73)。

批判は以下3点。

(1) スポーツゲームに限定する理論的理由があるのかどうかがわからない。

挙げられる事例はスポーツゲームだけだが、個々の論点がビデオゲーム一般に言えることなのかそれともそのジャンルに限った話なのかをはっきりと書いてくれてないせいで、ジャンルの特殊性がどれだけ議論に効いているのかが査定できない

もちろん、スポーツの多くは「ルール」によって同定されるものだし、そのプレイの「動作」の主観的経験はそのスポーツにとって特徴的なものになる。また当然ながら、スポーツの視聴覚的特徴はそれぞれ異なる。それゆえ、そのスポーツを「シミュレート」するスポーツゲームが「模倣」する対象として、「ルール」と「動作」と「世界の視聴覚的表象」の3つが別物として出てくるのはよくわかる。

しかし、同様の図式は別ジャンルにも容易に適用できるように思える。たとえば『シムシティ』は、都市の発展や経営の構造的特徴をそのルールによってシミュレートしているし、その視聴覚的表現によってその虚構世界の視聴覚的現れを再現している。ふつうの『シムシティ』の場合、現実の市長がするであろう身体的動作の主観的経験はもちろん再現しないが、これがたとえば市長の通常業務の身体的動作(電話を取るとかメールを打つとか)をなんらかのかたちでUI的に「模倣」するようになれば「動作のシミュレーション」と呼べるだろう。

そのへん承知の上で〈スポーツゲーム以外のジャンルもなんらかの現実をシミュレートしているのだ〉みたいな議論に持っていきたいのかなあとも思うが、いずれにしろジャンルを限定する理由についての記述が足りない*

(2) 説明に情報量がない。

上記の三分法にはオリジナリティがあるし、その説明力の可能性も感じる。しかし、その枠組みをつかってこの論文で実際になされている説明は、ほとんどなにも言っていないに等しいように思える。具体的に挙げるとこんな具合:

前記の表示は「動作のシミュレーション」の代理物をプレイヤーが無理なく内面化するための視覚的レトリックの一種として提供されているのだ。〔…〕これまで検討した二種類の視覚的レトリックは、「世界のシミュレーション」の水準に対する「ルールのシミュレーション」の、さらには「動作のシミュレーション」の越境的介入の事例として理解することもできるだろう。(p.81)
一人称的な触覚性と三人称的な視覚性の縫合というこの事例は、ゲームの主体の分裂的構造を反映するものとして解釈することができる。〔…〕本稿であげた「三つのシミュレーション」という記号提示の複合的なプロセスのなかで、あるいは多様な情報を統合処理する心理的なメカニズムのなかで、われわれはゲームの当事者として主体化されてしまうのである。(p.83)

ここに挙げられた「視覚的レトリック」、「越境的介入」、「一人称的な触覚性と三人称的な視覚性の縫合」、「記号提示の複合的なプロセス」、「多様な情報を統合処理する心理的なメカニズム」といった言葉の具体的な内容は、とくにこれ以上説明されていないように思われる(その言葉が適用される事例は示されるが)。それゆえ、〈異なる複数のレベルが複雑なかたちで相互に作用することで全体が立ち上がっている〉というぼんやりした情報は得られるが、それ以上の具体的な情報が得られない。つまり、なんらかひとつの全体としての対象ないし経験Wをa,b,cという構成要素に分けたうえで「Wはa,b,cがなんかごっちゃになったものです」と言っているにすぎないように見える。

この「ごっちゃ」の内容を具体的に特定しないかぎりは、「複層的なメカニズム」についてなにも明らかになったことにならないだろう。もちろん、その仕事は今後されていくのかもしれないので期待。

(3) 同一化説をほぼ無条件的に受け入れている。

コンピュータゲームにおける主人公との同一化、あるいは虚構世界への没入は、多くの場合において二つの「私」(代理行為者とプレイヤー)のあいだの等価性を前提として惹起される。(p.74)

とあるように、松本さんはプレイヤーとプレイヤーキャラクタの同一化説(あるいは没入説)の立場をとっているように見える。つまり、上記の図式によって説明されるものとしての「同一化」や「没入」を事実として素朴に前提しているように見える。しかし、これは所与の事実としてそう簡単に前提できるものではない。

僕はいちゲーマーの直観としても哲学的立場からしても単純な同一化説に対して圧倒的に懐疑的なんですが、そういう個人的な見解をぬきにして言っても、同一化説・没入説に対する反発はゲーム研究の文脈において昔から根強くある。また、「同一化」や「没入」と呼ばれるような事態をどのように考えるべきかの議論もすでに豊富にある*

なので仮に同一化説をとるにしても、想定される具体的な批判に対する最低限のエクスキュースは必要だろう。

つづく。

Footnotes

  • あと、スポーツゲームにおける物理法則のシミュレーション(一番ふつうの意味でのシミュレーションだと思う。物理演算じゃないのも含む)をどう考えてるのかなあというのは気になる。定義上、「世界のシミュレーション」ではないだろうし、「動作のシミュレーション」でもないだろう。ということで「ルールのシミュレーション」に入るのかなとは思うが、だとすると、スポーツゲームに議論を限定する意味がほとんどないような気がする。多くのアクションゲームは多かれ少なかれ現実の物理法則をシミュレートしているし、さらにその上により上位のルールをかぶせている。ようするに、くにおの運動会とかをどう考えてるのかという話。

  • たとえば、Klevjer (2012) が紹介しているように、ビデオゲームのプレイヤーキャラクタをたんなるカーソルと同等のものと見なす論者は多いし、Salen & Zimmerman (2003) もまた(多分に規範的主張が含まれてはいるが)「没入の誤謬」(immersive fallacy)というラベルのもとに短絡的な没入説を批判している。また「没入」という曖昧な概念をいくつかに分けて整理する論者もいる(Ermi & Mäyrä 2005)。Klevjer (2007; 2012) はどちらかというと同一化説に近い立場だが、それでもかなり慎重に議論している。

References

  • Ermi, L. & F. Mäyrä (2005). "Fundamental Components of the Gameplay Experience: Analysing Immersion." In Changing Views: World in Play, DiGRA Conference Proceedings.
  • Klevjer, R. (2007). "What Is the Avatar? Fiction and Embodiment in Avatar-based Singleplayer Computer Games." Doctoral Dissertation, Department of Information Science and Media Studies, University of Bergen.
  • Klevjer, R. (2012). "Enter the Avatar: The Phenomenology of Prosthetic Telepresence in Computer Games." In J. R. Sageng, H. J. Fossheim, T. M. Larsen (eds.), The Philosophy of Computer Games. Springer.
  • Salen, K. & E. Zimmerman (2003). Rules of Play: Game Design Fundamentals. Cambridge, MA: The MIT Press.