「なぜ美術史家は美学の学会に出ないのか」の感想

以下のツイートがなんかたくさんRTされてたので、ちら読みの感想を書いておきます。


論文は以下。『美術史 vs 美学』という煽るタイトルの本に収録されている。

著者は美術史の人のようだ。もとになった講演が1996年らしいのでかなり古い。内容は、ざっくりいうと「美学者が関心をもつ問題は美術史家にとっては問題にみえないです」と言ってるだけで、たいした議論はない。

見どころは、美術史島の人と美学島の人が相手の島を描いた絵を互いに送りあったが、意味がわからなくて結局ディスりあった、という謎の寓話かもしれない。あとは、同僚の美術史家になんで美学の学会にいかないのか聞くと「美学は芸術作品を扱わないから」とか「美学は歴史をだいじにしないから」といった答えが返ってくるという話や、美学の学会にいったらランチやディナーでみんな議論したりダメ出ししたりしてて引いたみたいな感想もちょっと面白い。

なぜ美学者の問題が美術史家には問題にみえないのかについては、いちおう以下のような具合に説明されている。

  • 美学者と美術史家とでは、同じ事柄について考えるのでも問題のポイントがちがう。
  • たとえば美学者は、美術作品の個別性や感覚に訴える性に注目していわく、「内在的物質性(immanent materiality)はアポリア的ギャップによって概念的なものから切り離されている」などと言ったりする。
  • こういうたぐいの「論理的命題」とか「論理的主張」の価値が美術史家にはよくわからない。

しかし、ここで「論理的」をどういう意味でつかっているのかがわからないので、著者が言いたいことがよくわからない。たんに論証によって論理的に結論を導くということなら、別に哲学者じゃなくとも美術史家を含めたあらゆる研究者も多かれ少なかれやってることだろう。

ここでの「論理的」はたぶん「抽象的でふわふわしてる」くらいのふわふわした意味なのだが、そこをもっと特定したうえでなぜそういう議論が無価値にみえるのかを言わないと説明として内容がない。あるいは、そういうほわほわした話に対する「とっつきづらい感じ」をもう少し具体的に記述してほしい。

また、美学者がすべてそういうたぐいの議論をするわけでもない。わたしも「内在的物質性はアポリア的ギャップによって概念的なものから切り離されている」とか言われても「???」としかならない。これは、著者が美学者として想定しているのがアドルノやデリダだというところに問題があるかもしれない。美学のジャーナルとしてJAACやBJAを挙げてるにもかかわらずそういう名前しかでてこないので、ほんとに読んでないんだなというかんじがする。

たしかに、特定の作品を持ち出しながら当の作品の特殊性についてとくに配慮しないような哲学的議論はよくある。つまり、別にその作品じゃなくてもええやんというやつ(たとえば、ハイデガーのゴッホ、メルロ=ポンティのセザンヌ、フーコーのベラスケスみたいなやつ)。そういうたぐいの議論は、個別的な作品論・作家論としてはたしかに無内容だと思う(だからといって、それらの作品を例にした彼らの哲学的考察の偉大さが損なわれるわけではない)。しかし、そういうのに美学を代表させるのは端的に美学に対する理解不足だろう。

以上感想おわり。

美術史を含めた個別芸術学と美学の関係(制度的/歴史的な関係ではなく内在的な関係)については個人的に思うところがあるけど、あまりまとまってないのでまたそのうち。なんにしろ、いろいろ勉強するのが一番えらいと思う。

ちなみに、上の論文は、昨日分析美学オンライン勉強会で加藤さんがまとめてくれた以下の論文のなかで言及されてたもの。

こっちも美学とはどういう営みなのかみたいなメタな話題で、やはり美学vs美術史みたいな話を扱っている。主張の中身はともかく、身近な問題なので面白い。