ゲームプレイの定義についての対話

Oct 04, 2015|ゲーム研究

先々週くらいに、ゲームプレイの定義について井戸里志さん(@kan_jiro)とTwitterのDMでいくらかやりとりした内容が有意義だったので、転載します。

背景

まず背景を説明しておきます。きっかけは以下のツイート。

最初の文で井戸さんは、ゲームを〈ゲームプレイさせるもの〉として定義しているわけです。つまり、「ゲーム」概念は「ゲームプレイ」概念によって定義されると主張している。これは、ある意味で「ゲーム」よりも「ゲームプレイ」のほうがより本質的な(より分析のすすんだ)概念であるという考えだろうと思います。

個人的にこれには同意です。以前やった発表(行為のデザインとしてのゲーム)では、ゲームを行為のデザインの一種としてとらえたうえで、ゲームをほかの種類の行為のデザイン(法律とか建築とか)から区別するものはなにかという議論をしました。そこでの主張は、以下のようなものでした。

  • ゲームは、それが生み出す(よう意図されている)行為がそれ特有の独特なものであるという点で、ほかの種類の行為のデザインとはちがう。
  • ゲームが生み出す独特な行為は、ゲームプレイという行為。
  • それゆえ、ゲームの本質はゲームプレイにある。

この主張が、上記の井戸さんの考えと一致しているのは明らかです。

もちろん、ここまでだと「ゲーム」の定義を「ゲームプレイ」の定義に丸投げしたというだけです。ゲームの本性を探究するためには、ここからさらに進んで、その「ゲームプレイ」と呼ばれている行為は実際のところどんな種類の行為なのか、それはどんなかたちで特徴づけられるのか、といったことを考える必要があります。

ゲームプレイの本性をどう考えるかについての議論は、上記の発表でも雑にやってるんですが、より細かい議論を拙博論(ビデオゲームにおける意味作用)の一節でやっております。そこでの主張は、一言でいうと「ゲームプレイとは自己目的的な行為である」というものです。

そういうわけで、参考までにぜひ読んでいただきたいということで井戸さんに博論をお送りしました。以上がやりとりの背景です。

やりとり

というわけで、以下やりとりの転載です(議論部分のみの引用)。

やりとりの内容は、博論の主張に対する井戸さんの指摘、それへの答え、井戸さん自身の考えなどです。

ちなみに拙博論は公開されていませんが、ゲームプレイの定義については上記の発表のレジュメ(行為のデザインとしてのゲーム)でおおよその議論の中身はわかると思うので、参考にしてください。

kan_jiro:

ゲームプレイの定義のところだけざっと目を通させていただいて気になった点です(ごく一部しか読んでいないので誤読があるかもしれません)。

「当のゲームの特定の結果と結びついた利害を第一目的として行われているのであれば、それはゲームプレイではない」としていますが、例えば脳トレなどについてはどうでしょうか?(脳トレをプレイすることは、頭を良くすることが第一目的ではないのか、それともゲームプレイではないのか?)

また、RPGなどのレベル上げはどうでしょうか?プレイヤーは、「レベルを上げる」ことというよりは、それと結びついた「プレイヤーキャラクターを強くする」ことを第一目的としているように思うのですが、だとすると、レベル上げはゲームプレイには入らないでしょうか。

多くのプレイヤーは、レベル上げ自体もそれなりに楽しみますが、押すだけでレベルの上がるボタンがあれば押すでしょう。多くのフリーミアムなゲームはまさにその心理を利用しています。

「レベル上げはゲームの一部でしかないので、その中で最も強く意識されているからといって第一目的とはいえない」という反論はあり得るでしょうが、そうすると今度は、どこからどこまでがひとつのゲームなのか、という問題が出てきます(将棋の名人戦の一局ずつは、独立したゲームなのか、それとも名人戦という大きなゲームの中の一部なのか)。

私の考えとしては、自分の理論はできるだけ広い範囲のゲーム(それこそギャンブルなども含めた)を扱えるものにしたいので、それ自体が望ましい目的のために行われる行為もゲームプレイの範疇に入れています。

zmzizm:

脳トレについては、第一目的ではないというお答えになります。たしかに多くの脳トレプレイヤーは、賢くなるためにそれをプレイしているとは思いますが、それは〈脳トレをプレイし始める/し続けること〉の目的であって、脳トレ内のゲームプレイ行為の目的ではないはずです。想定反論の三つめに対する応答(p.202)に相当します。

RPGのレベル上げについては、書きかたが悪かったんですが、「当のゲームの特定の結果と結びついた利害」というのは現実的な利害のことなので(お金が入るとか人に自慢できるとか賢くなるとか)、ゲーム内のほかの事態の手段になっているかどうかはとくに問題ではないです。

レベル上げそのものがひとつの完結した自己目的的行為とみなせるかどうかという問いであれば、もしレベルアップ自体にいかなるゲーム内の価値がなくてもそれを目指す動機があるならばYesだし、動機が失われるならばNoということになります。

レベル上げ自体が自己目的的で、かつレベルアップをすることがより上位のゲームプレイにおける手段になっているようなケースだと、ゲームプレイが複層化される(あるいは入れ子になる)という説明になります(博論本文ではそういうケースについては書いてませんが)。これはたぶん大目標・小目標の構造というかたちで井戸さんが詳細に議論されていることに相当するんじゃないかなと思います。リーグ戦やトーナメントの全体と個々の試合の関係もたぶん似たような構造ですよね。

たしかに、ギャンブルも含めゲームデザインのありかたとして現実的な利害で動機づけることはしばしばあると思うので、その事実をどう拾うのかという疑問は当然あると思います。この理論だと「そんなものはゲームではない」という帰結が出てきそうなので、なにかしら修正が必要だろうと思います。「第一の目的」みたいな言いかたが限定しすぎなのかもしれません。ちょっと考えておきます。

kan_jiro:

たしかに多くの脳トレプレイヤーは、賢くなるためにそれをプレイしているとは思いますが、それは〈脳トレをプレイし始める/し続けること〉の目的であって、脳トレ内のゲームプレイ行為の目的ではないはずです。

なるほど、おおむね承知しました。が、「〈プレイし始める/し続けること〉の目的」と「ゲームプレイ行為の目的」の区別がまだ私の中ではっきりしないところがあります。 棋士が賞金目当てに対局する場合、それも〈将棋をプレイし始める/し続けること〉の目的でしょうか?

RPGのレベル上げについては、書きかたが悪かったんですが、「当のゲームの特定の結果と結びついた利害」というのは現実的な利害のことなので(お金が入るとか人に自慢できるとか賢くなるとか)、ゲーム内のほかの事態の手段になっているかどうかはとくに問題ではないです。

動機付けが、現実的な利害か、ゲーム内のほかの事態の手段としてなのかは本質的な問題ではないというのが私の考えです。例えば、ゲーム内でプレイできるミニゲームにおいて、「クリアするとゲーム本編で使えるアイテムをプレゼント」でも、「クリアすると現実に1000円プレゼント」でも、そのミニゲームをプレイしている最中の感覚は大きくは変わらないと思うからです。

私は、「その行為の最中にプレイヤーがゲームっぽい感覚を得られるかどうか」だけを基準に考えていますが、この前提に議論の余地があるかもしれません。

zmzizm:

賞金目当ては、ゲーム内の結果が賞金の手段になっているので、ゲーム内行為の目的のほうですね。「し始める/し続ける」がよくないかも。行為連鎖のプロセスの全体が手段になっているような目的のありかたと、行為の帰結が手段になっているような目的のありかたのちがいというかんじです。

「クリアするとゲーム本編で使えるアイテムをプレゼント」でも、「クリアすると現実に1000円プレゼント」でも、そのミニゲームをプレイしている最中の感覚は大きくは変わらない

これはプレイヤーの経験としてはそうかもしれません。個人的な感覚からいっても同意できます。

たぶん、論じている「ゲームプレイ」が、独特の経験の質をもった行為のことなのか、(質はともかく)それによってゲームを十分に定義できる行為(その行為を作り出すよう意図した人工物がすべて正当にゲームと呼ばれるようなもの)のことなのかが、あいまいなんだろうと思います。とくに「内在的アプローチ」(pp.204~)のところはそのへんが適当なまま話が進んでるかんじがあります。

ゲームを過不足なく定義したいのか、ゲームをプレイする経験の独特のありかたを説明したいのかという点で、関心が分かれるのかもしれません(相反する関心ではないですが)。また、前者はゲームデザインの実践上とくに有用な話ではないだろうと思います。

kan_jiro:

行為連鎖のプロセスの全体が手段になっているような目的のありかたと、行為の帰結が手段になっているような目的のありかたというかんじです。

これで理解できました。

で、論じている「ゲームプレイ」が仮に「独特の経験の質をもった行為」のことだとした場合、脳トレの場合はけっこう微妙な気がします。人によっては、「好成績をとれば(その帰結として)頭が良くなる」という信念をもってプレイしていてもおかしくないと思われ、そういう人のプレイが、そうでない(頭が良くなるのは行為連鎖のプロセス全体によるものだと思っている)人と比べて、そんなに大きく違うものだとは思えないからです。

私としては「ゲームプレイ」はやはり「独特の経験の質をもった行為」のほうがしっくりきます。「ゲーム」の定義として自己目的性を含めるのはそれほど違和感を覚えないのですが。 これは私の感覚的な話です。

ゲームを過不足なく定義したいのか、ゲームをプレイする経験の独特のありかたを説明したいのかという点で、関心が分かれるのかもしれません

そうですね、私としてはゲームを過不足なく定義することにはそんなに興味はないのですが、ゲーム独特の楽しい経験を生み出す構造について論じていくうちに、「自分が何について論じているのかはっきりさせたほうがいい」と思って定義にも踏み込んだ、というところです。

zmzizm:

脳トレの説明はたしかに無理があるかもしれません。個別のケースに適用したときに目的がなんであるかをそんなに明確に特定できるのかという疑問はもっともなので、もうちょっと考えないといけないと思いました。

たぶん「楽しさ」や「面白さ」という経験の観点からすると、ゲームに本当に固有の事柄はとくになくて、ほかのいろいろな事柄と共通なんだろうと思います。このへんは、たとえば井上さんが「ゲームプレイのプロセスは学習の構造とだいたい一緒」みたいにいうときに含意されていることだと思いますし、ゲーミフィケーションやシリアスゲームのような実践を正当化するものでもあります。

いろいろ論点や問題点が整理できてたいへんありがたいです。

kan_jiro:

たぶん「楽しさ」や「面白さ」という経験の観点からすると、ゲームに本当に固有の事柄はとくになくて、ほかのいろいろな事柄と共通なんだろうと思います。

そうですね、この事柄を私は「ゲームプレイ」と呼ぶことにしたわけですが、誤解を生むなら名前を変えたほうがいいかもしれません(「ゲームフィーリング」とか)。

こちらこそ、こういった議論は大好物ですし、お役に立てて光栄に思います。

zmzizm:

英語の"gameplay"はゲームをする行為それ自体というより、その独特の経験的な質を指すことが多いので、むしろ井戸さんのつかいかたのほうが近いかもしれません。

今後とも議論におつきあいいただけるとうれしいです!

kan_jiro:

英語の"gameplay"はゲームをする行為それ自体というより、その独特の経験的な質を指すことが多いので、むしろ井戸さんのつかいかたのほうが近いかもしれません。

なるほど、そういえば確かに『ルールズ・オブ・プレイ』ではそんな感じで使われていたような。ありがとうございます。

こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。

おわり。

井戸さんとぷらとんさん(@platon_dorothea)の対話シリーズもあわせてどうぞ(ちなみにこちらの議論での「ゲーム内行為」は、この記事が問題にしている「ゲームプレイ」とはやや別の概念なので注意)。