「多元化するゲーム文化の研究課題」の感想

Apr 22, 2017|ゲーム研究

以下の論文の抜き刷りをいただきました。ありがとうございます。

  • 松井広志・井口貴紀・大石真澄・李天能. 2017. 「多元化するゲーム文化の研究課題: 利用と満足・ゲーム実践・メタゲーム」『愛知淑徳大学論集 創造表現学部篇』7: 23–38.

多元化するゲーム文化研究会が社会学的な観点とアプローチによるゲーム研究の最先端として今後とも盛り上がっていくといいと思います。


以下気になったところ数点。

「従来の魔法円を前提としたゲーム論」という理解はさすがにちょっとちがうかなと思う。この論文で想定されている「ルドロジー」の文脈にかぎって言っても、マジックサークル概念についての批判と議論はすでに多数ある。サーベイは以下の論文が優秀。

ホイジンガのもともとの言葉づかいや、ベイトソンやゴフマンのフレーム概念との関係は、ここでそれなりに整理されている。そういうわけで、Rules of Playだけでなく、ここに載っているような先行研究への言及が最低限ほしかったし、欲をいえばそれらを踏まえたさらに発展的な議論がほしかった。

あと、「従来の魔法円概念を前提とする」理論の扱いと評価にやや微妙さを感じる。①ある概念を理論的な道具立てとして提唱・使用することと、②〈その概念はあらゆるケースに明確に適用できる〉とか〈その概念はあるケースのあらゆる側面を余すことなく説明できる〉と考えることは別だ。マジックサークル概念(あるいはより一般的に、ゲームの内外を概念的に区別すること)に好意的な理論のほとんどは①だろう。

批判すること自体はかまわないのだが、①であるものを②として解釈するのはよろしくない。ゲーム研究の文脈で「形式主義者」というラベルが②のような立場を指すものとして使われることがわりとあるが(参照)、これもけっこう困惑する理解である。

ちなみにマジックサークル概念の批判をめぐっては、ジマーマン自身も藁人形にされてると思ってるらしく、怒りのゲーマスートラを書いている(「そもそもゲームデザイン向けの概念だし」という言い訳はどうかと思うが)。

怒り方がなんか共感できるので訳出しておく。

〔マジックサークルを批判する〕議論はこんなかんじだ——マジックサークルという考えは、〈ゲームは日常生活から全面的かつ完全に分離した形式的な構造である〉というものである。この考えは、既存のゲームルールを素朴に擁護し、ゲームが生きた経験であるという事実を、つまりゲームは現実のある種の社会的・文化的な文脈の中で人間によって実際にプレイされるものであるという事実を無視している——こんなかんじだ。

私の疑問は以下の通り。ゲームに対してこのような奇妙で偏狭な考えを持っている物知らずは誰なのか。この形式主義者で構造主義者なルドロジストが出版した本や論考はどこにあるのか。影響を受けやすい学生の心を毒することでゲーム研究を危険にさらしているこのおそろしく単純な思考の持ち主はどこにいるのか。このマジックサークルバカはいったい誰なのか。

それから、毎度言ったり書いたりしていることだが、「ルドロジー」という言葉はいろいろなニュアンスがくっついてくるので、「ゲーム研究」(あるいは狭義の「ゲームスタディーズ」)の同義語としては使わない方が適切だと思う。

おわり。