ウォルトン・リターンズ

May 13, 2017|美学・芸術の哲学

ウォルトンの「想像/表象の対象」話の続きです。これまでの流れは以下の通り。

一番下の高田さんの記事には基本的に同意している。論点の定式化(K1~W4)についても、田村さんや私の主張の定式化についても異論はない*。とても明快で的確にまとめられていると思う。

また、この問題は、ウォルトン自身がちゃんと書いておらず、かつ整合的に読むにはけっこう無理な解釈(というか忖度というか)をしないといけないレベルになってきているので、「なんかよくわからないけど言いたいのはこのへんでは」みたいなのが適切な落としどころかなと思う。

というかんじで、実はあんまりこれ以上言うことはないのだが、私の解釈の方向(K2~K4の維持)でもうちょっとがんばれるかなという気もしているので、そのへんを書いておく。


あらためて、私の主張は以下の通り。

  • 高田が「二つの虚構的真理の問題」と呼ぶものは問題ではない。
  • 「ケヴィン・コスナーは馬に乗る」と「ワイアット・アープは馬に乗る」は別々の虚構的真理ではない。
  • なぜなら、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープは、当のごっこ遊びにおいて同一の個体だからだ。

すんなりのみこめる主張ではないと思うので、いくつか想定される疑問を予防しておく。

「ケヴィン・コスナーは馬に乗る」が虚構的真理であるというのは奇妙に思えるかもしれない(私も気持ち悪い)。しかしそれは、「ケヴィン・コスナー」という語に、ケヴィン・コスナーが実際に持つ諸々の属性(「ケヴィン・コスナー」という名前を持つ、俳優である、現代人である、など)を暗に含ませているからだろう。つまり「ケヴィン・コスナー」に述語としての役割も担わせているからだろう。「ケヴィン・コスナー」を特定の個体(そこにいるそれ、あるいは映像のうちに見てとれるそれ*)を純粋に指示するものとして理解するかぎりは、とくに問題ないはずだ。

「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープである」が虚構的真理であることも同じ仕方で問題なく理解できる*。「ケヴィン・コスナーとワイアット・アープは、当のごっこ遊びにおいて同一の個体である」という主張は、「「ケヴィン・コスナー」という固有名と「ワイアット・アープ」という固有名は、当の虚構世界において同一の個体を指示する」という主張ではない*。後者の主張は明らかにおかしい。

別の問題もある。「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープである」は個体の同一性を述べるものとしても読めるが、性質の帰属(述定)としても読める。つまり、「ケヴィン・コスナーは「ワイアット・アープ」が指示する対象と同一である」とも読めるし、「ケヴィン・コスナーは、ワイアット・アープが実際に持つ諸々の属性を持つ」とも読める。おそらく、たいていのケースでは両方の意味が含まれている。「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープである」が成り立つごっこ遊びにおいて、「ワイアット・アープはケヴィン・コスナーである」が成り立たないように見えるとすれば、述定としての読みのほうが成り立っていないからだろう。とはいえ、表象の対象がなんであるかは、述定の問題ではなく指示の問題である*

ようするに、「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープである」とか「ケヴィン・コスナーは馬に乗る」のような文として考えると奇妙に見えるだけであって、たんにある特定の実在の人(しばしば「ケヴィン・コスナー」と呼ばれる)について、「その人はワイアット・アープであり、しかじかの仕方で馬に乗っていると想像することにしましょう」という取り決めが成り立っている、というくらいのことであれば、それほど変な話ではないだろう。

また同時にそこでは、歴史上の特定の人物(ワイアット・アープ)についても「その人がしかじかのの仕方で馬に乗っている」という想像をすることが命じられている。このように考えれば、表象の対象が同時に2つあっても問題はないだろう。

ウォルトンは、こうしたことを明示的に書いているわけではない。とはいえ、基本的な発想はこんなかんじなんじゃないかと思う(少なくとも、そういう発想のもとに書かれたものとして読んでとくに違和感がない)。

おわり。以下もよろ。

Footnotes

  • 高田さんが私の解釈に同意できないと書いている部分については、私が参照先のp.107の例を誤読していた(参照しているのは、おそらく高田さんが想定している箇所の手前の段落)。p.107では、ジョージ・ブッシュの大統領当選が実は夢だったという内容のフィクションが例として出されている。これを〈その現実の事物は当のお話のなかでは存在しないが、それでもそれは当の表象の対象になっている〉ということの例として読んでしまったが、ちゃんと読めば〈その現実の事物についての命題が当のお話のなかで偽だとされていたとしても、それについての命題の想像が命じられているという意味で、その事物は当の表象の対象になっている〉ということの例として出されている。つまり、ウォルトンが想定しているのは、たとえば〈実はケヴィン・コスナーという俳優は存在しないのだ〉という内容のフィクションであって、たんに俳優が何かを演じるという一般的なケースよりもはるかに特殊なケースである。

  • 演劇か映画かのちがいは、ここでは問題にしていない。どちらにも言える話として考えている。

  • この主張に対しては、田村さんが明快な反論を書いている。

    簡単にいえば、「ケヴィン・コスナー」は『ワイアット・アープ』の虚構世界において意味のある固有名ではないので、「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープである」という文が当の世界の真理になることはないというものだ。しかし、私が問題にしているのは、「ケヴィン・コスナー」という固有名が当の世界でどういう役割を持つか(持たないか)ということではなく、われわれが通常「ケヴィン・コスナー」と呼ぶその人が当のごっこ遊びのなかでどういう役割を持つかである。実際、田村さんも「ケヴィン・コスナー」ではなく「彼」という指標詞によってケヴィン・コスナーを指示する場合には、それとワイアット・アープの同一視は理解可能だと書いている。

  • つまり、この文脈での「ケヴィン・コスナーはワイアットアープである」は、「クラーク・ケントはスーパーマンである」とはまったく別の意味でフィクショナルである。

  • この両義性にウォルトンがどれだけ意識的かはわからない。レーガンがレーガン役をすることを反射的表象の例として出しているところを見ると、けっこうあやしげなかんじがある。俳優AがA自身の役をするケースでは、ふつう、AがAを指示するだけでなく、Aが実際に持つ諸属性(名前が「A」である、俳優である、など)が当のごっこ遊びのなかでAに帰属されるということも起きている。もちろん、「反射的表象」をただの自己指示ではなく、自己指示+〈それが実際に持つ属性をフィクション上でもそれに述定すること〉を指す用語として使うならこの事例は適切なのだが、反射的表象はそのようには定義されていない。