スーツの「非効率的な手段」に対するユールの批判について

Jul 18, 2017|ゲーム研究

昨日は『ハーフリアル』の読書会でした。範囲は2章。

レジュメ担当の山本貴光さんが、スーツの「非効率的な手段」(inefficient means)概念に対するユールの批判(『ハーフリアル』邦訳pp.47–48)を取り上げて、この概念にもそれなりに見るべきものはあるのではというお話をされていた。時間の制約上その場ではとくにコメントしなかったが、いくつか思うところがあったので書いておく。

まず、「非効率的な手段」に対する批判は、3章(邦訳pp.79–80)にも再度出てくる。ここではより一般化された議論になっていて、ゲームのルールを〈制限〉(limitation)としてのみ理解する立場が批判されている(具体的に名前が出ているのはスーツとサレン&ジマーマン)。ユールによると、ルールには制限の側面だけでなく、意味を作り出す側面もある。それゆえ、ルールを制限としてのみ理解するのは、ゲームにおけるルールの働きを十分にとらえていない。

3章の全体を読めばわかるが、ユールはゲームのルールの中心的な働きを〈挑戦課題を作り出すこと〉として理解している。その課題がプレイヤーにとって適度な難易度を持つものであれば、プレイヤーは楽しい。ゲームの楽しみは、適度な挑戦としておおよそ理解できる。これがユールの基本的な考えだ。

この見方からすると、ルールによる制限は、挑戦課題を作り出すひとつの方法だということになるだろう。そして、それはひとつの方法ではあるとしても唯一の方法ではない、というのがpp.79–80でのユールの主張だろう。

2章での「非効率的な手段」に対する批判も、この主張にそのまま対応している。非効率的な手段を持つという特徴は、一部の古典的ゲームにはあてはまるとしても、すべての古典的ゲームにあてはまるわけではない。ようするに、それは古典的ゲームの必要条件(定義的特徴)ではない。

このユールの主張は適切だと思う。一方で、スーツの概念にも見るべきところがあるという山本さんの感想もよくわかる。「非効率的な手段」という概念は、〈制限による挑戦課題のデザイン〉という考え方を的確に表している。これは、たとえばゲーム開発者がゲームを作るときに、何を考え、何を実行しているかを(少なくとも部分的に)理解/説明するのに役立つだろう。

ユールは、「制限としてのルール」という考えがうまくあてはまるのは、既存のシステムをゲームの道具として利用する場合だと言っている(邦訳pp.79–80)。物理法則を利用するスポーツ(おそらくスーツがゲームの例として主に想定していたもの)に「非効率的な手段」の概念がうまくあてはまるのは、この理由による。

山本さんは、「非効率的な手段」の概念によって、たとえばレベルデザインの実践をうまく説明できるというお話をされていたが、これもまた同じ理由によるものだろう。というのも、基本的にレベルデザインは、何もない空間と基本メカニクス(物の挙動やプレイヤーができる行動の集まり)という既存のシステムをベースにして、地形の設計やオブジェクトの設置といった制限を加えていくプロセスだからだ。しかしこの場合もやはり、レベルデザインはビデオゲームの挑戦課題を作り出すひとつの(そしておそらく現代のゲームデザインでは主要な)方法ではあるが、唯一の方法でもないし、あらゆるビデオゲームに含まれるものでもない。

「ビデオゲームのゲームデザインの本質はレベルデザインである」みたいな主張があったときに(わりとよく目にする)、「いや、それはゲームデザインの(おそらく重要な)一側面ではあるとしても、あらゆるビデオゲームに言えることではない(つまり定義的特徴=本質ではない)」という反応がありえる。これは、ごく常識的でつまらない指摘だが、適切な指摘ではある。スーツの概念に対するユールの批判は、ようするにそういうことだろうと思う。