『ハーフリアル』邦訳3章の訳いろいろ
Aug 01, 2017|ゲーム研究
昨日は『ハーフリアル』の読書会でした。まいど盛況でありがたいです。
3章前半担当の七邊信重さんから翻訳についていくつか指摘があったので(七邊さんのレジュメ参照)お答えしておきます。ほんとは読書会のなかでやったほうがいいんでしょうが、まいどそういう時間も雰囲気もないので!
なお、訳につっこんだりつっこまれたり解釈を戦わせたりするのはかなり好きなタイプの議論なので(というか哲学者は基本そういうことばっかりやってるわけですが)ねちねちめでやります。
原文p.55、邦訳p.76
以下、下線はとくに問題になっている部分。
Many games are played using either playing cards or computers, but the rules appear to be the same, even if it is the players that uphold the rules when played with cards, but the computer that upholds the rules in the video game version. As a game can move between different media, so can the rules that make up the game. But then what are rules made of and what function do game rules serve? (Half-Real: 55)
ひとつのゲームがトランプのカードでもコンピュータ上でもプレイできるというケースはよくある。もちろん、カード版ではプレイヤーが維持するのに対して、ビデオゲーム版ではコンピュータがルールを維持するという点ではちがいがある。しかし、いずれの媒体を使う場合でも、ルールは同じである〔ママ。なぜか強調なし〕ように思える。そういうわけで、ひとつのゲームが異なる媒体間を移動できるのと同じように、そのゲームを作り上げるルールもまた異なる媒体間を移動できる。しかし、ルールを構成するものが媒体でないとすれば、それはいったいなんなのか。そして、ルールはどんな働きを持つのか。(『ハーフリアル』p.76)
七邊さんの指摘は以下の通り(レジュメp.2から引用)。
・しかし、それではルールは何なのか(※)。また、ルールはどんな働きを持つのか?
※翻訳は、「ルールを構成するものが媒体ではないとすれば、それはいったいなんなのか?」。しかし原文は、「But then what are rules made of?」であり、「媒体」については触れていない。それゆえ、ここは単に直前の英文(so can the rules that make up the game)を受けていると考え、「ルールはゲームを作る。ではルールは何で作られているのか」(?→ルール→ゲーム)という意味で理解するので良いのでは?
以下お答え。
まず、直前の英文「so can the rules that make up the game」についての七邊さんの解釈「ルールはゲームを作る」には同意できない。この文はよくある〈so V S〉(~もまた同じく~)の倒置構文であり、「that」以下は明らかに「rules」にかかる関係詞節だ。手前の文ではルールの媒体横断性が言われているわけなので、文脈からしてもこの解釈は自然だろう。逆に、どういう構文として読めば「ルールはゲームを作る」になるのかわからない。
問題の文は、直訳すれば「だとすると、ルールは何から作り上げられるのか」になる。この点は七邊さんも同意すると思う。それがなぜ「ルールを構成するものが媒体でないとすれば、それはいったいなんなのか」という訳になったかというと、「しかし、だとすると=but then」の内容をはっきりさせたかったからだろうと思う(たぶん)。前文までの流れでは、ルールの同一性は(それが作り出すゲームの同一性と同じように)媒体に依存しないという話をしているわけなので、ふつうに読めば、「だとすると、ルールは何から構成されるのか」という問いは、「媒体から構成されるものでないとすれば、ルールは何から構成されるのか」ということになるだろう。
ただ、訳文自体は意訳というより補足の域なので、〔〕を使うべきだったかもしれない。この点は反省したい。
この箇所については、むしろ問題になっている箇所の手前の文を相当意訳していて、やりすぎ感がある(たぶん議論の流れがわかるように訳すのが難しかったのだと思うが)。こちらも原文の構造を保持しながらもうちょっとうまく訳せたかなと思う。反省したい。
原文p.55、邦訳p.77
These are not the only enjoyable aspects of games, but they are surely among the most universal ones. (Half-Real: 55)
もちろん、ゲームの楽しさはこれらの要素に限られるわけではないが、これらがゲームの楽しさとしてもっとも普遍的なものであるのは確かだろう。(『ハーフリアル』p.77)
七邊さんの指摘は以下(レジュメp.2)。
・これらはゲームの楽しさとしてもっとも普遍的なものの一つ(※)
※翻訳では、「これらは…もっとも普遍的なもの」と訳されているが、「among the most universal ones」とあるので、「普遍的なものの一つ」ではないか?
つまり、達成感や社会的要素以外にも、楽しさの普遍的源泉はあるということ。たとえば、後で出てくる「ルールについて話し合う楽しみ」など?
なお、フィクションは(ゲームの楽しさの普遍的源泉ではないが)、近年のビデオゲームの楽しさの源泉の一つと論じられている(79)。
お答え。
とくに異論はない。「のひとつ」をつけなかった理由を思い返すと、「これら」という複数なのに「ひとつ」はなんかおかしいだろうという程度の判断だった気がする。ただ「の一部」とかにすれば問題なくニュアンスを汲めるわけなので、単純に雑な訳だっただけかもしれない。反省。ちなみに、同箇所についている訳注では、なぜか「のひとつ」をつけている。
原文p.56、邦訳pp.77–78
6. Games are learning experiences, where the player improves his or her skills at playing the game. At any given point, the player will have a specific repertoire of skills and methods for overcoming the challenges of the game. Part of the attraction of a good game is that it continually challenges and makes new demands on the player's repertoire. (Half-Real: 56)
6. プレイヤーは、ゲームをするなかで自身のスキルを上達させていく。そのかぎりで、ゲームは学習経験だ。どんな場面であれ、プレイヤーは、乗り越えるべき挑戦課題に対して役立つスキルと手法のレパートリーをその都度持っている。いいゲームの魅力のひとつは、挑戦課題を次々に提供することで、プレイヤーのレパートリーに対してどんどん新しい要求をしていくというところにある。(『ハーフリアル』pp.77–78)
七邊さんの指摘は以下(レジュメp.3)。
6.プレイヤーは、ゲームをするなかで自身のスキルを上達させる。
※翻訳では、「どんな場面であれ、プレイヤーは……スキルと手法のレパートリーをその都度持っている」とあるが、原文は「will have」なので「持とうとする」では?
お答え。
「will」を無視しているのはたしかなので、もっともな指摘だとは思う。意識的に訳出しなかった記憶がある。たぶん、必然性のwillとして読んだうえで、文脈(前後の文とあとの詳しい議論の内容)を踏まえつつ、読みやすくなるような処理をしたのだと思う。代替案については、ユールの言葉づかいでは「レパートリー」は手持ちの手法の集まりのことなので、「レパートリーを持とうとする」は表現としてやや不自然。
ユールはゲームのプレイをある種の学習プロセス=レパートリーの拡張としてとらえるわけだが、たしかに「その都度持っている」という訳だと、レパートリーが持つこの動的な性格が伝わらないかもしれない。そういう意味で訳がよくないという指摘であれば、その通りだと思う(本体の議論を読めばわかる話なので、細かいニュアンスにこだわるところでもないと思うが)。
原文p.56、邦訳p.78
7. Any specific game can be more or less challenging, emphasize specific types of challenges, or even serve as a pretext for a social event. This is a way in which rules can give players enjoyable experiences, and different games can give different experiences. (Half-Real: 56)
7. 個々のゲームはいろいろだ。より挑戦しがいのあるゲームもあれば、そうでないものもある。特定の種類の挑戦課題を押し出すゲームもある。場合によっては、なにかしらの社交の口実として使うためのゲームもある。これらはすべて、ルールがプレイヤーに楽しい経験を与える仕方だ。そして、異なるゲームはそれぞれ異なる経験を生み出すことができる。(『ハーフリアル』p.78)
七邊さんの指摘は以下(レジュメp.3)。
7.どのゲームも多かれ少なかれ挑戦しがいがあり、特定の種類の挑戦課題を強調し、何かしらの社会的イベントの口実として役立つ。
※翻訳では、「個々のゲームはいろいろだ。より挑戦しがいのあるゲームもあれば、そうでないものもある」とある。原文は「Any specific game can be more or less challenging」。ゲーム間の差異でなく、共通性(程度に差はあれ、どのゲームにも挑戦要素がある)を指摘する個所では?
お答え。
項目7の全体としては多様性を指摘しているわけなので、それを踏まえた訳にしてある。逆に共通性を強調する訳にすると、orで並べられている後続の文とつながらないと思う。また挑戦要素については、すでに項目4で言われている。なのでここでは、個々のゲームが挑戦要素の程度の点でちがうという点を強調するものとして読むのが自然だろう。もうちょっというと、「程度に差はあれ、どのゲームにも挑戦要素がある」だと「can」のニュアンスを完全に無視することになる。「can A or B」をふつうに読めば、「~の場合もあれば~の場合もある」だろう。
むしろ、この箇所の問題は、次の文の「これらはすべて」にあるような気がする。なぜ、「This is a way」が「これらはすべて~仕方だ」という訳になってるのか謎。というかむしろ、原文がなぜ「this」と単数になっているのかが謎。こちらがちゃんと読めてないのかもしれない。
追記(2017.08.02)
最後のところ、あらためて考えてみると若干の誤訳だと思う。おそらく「a way in which」以下の関係詞節は、うしろの「different games …」の文まで含んでいる。それを踏まえると、以下の訳が適切だろう。
This is a way in which rules can give players enjoyable experiences, and different games can give different experiences.
これらはすべて、ルールがプレイヤーに楽しい経験を与える仕方だ。そして、異なるゲームはそれぞれ異なる経験を生み出すことができる。そのようにして、ルールはプレイヤーに楽しい経験を与え、異なるゲームはそれぞれ異なる経験を生み出すことができる。
増刷のタイミングがあれば直します。