フランク・シブリー美学論文集のまとめ

フランク・シブリー(Frank Sibley, 1923–1996)という美学者がいる。美学を専門にする人であれば誰もが名前を知っている(かどうかはあやしいが、少なくとも全員知っているべき)偉大な美学者である。20世紀の英米の美学者の中では、ダントーやグッドマンがなぜか日本ではよく知られているっぽいが、少なくとも美学の領域での貢献度でいえば、シブリーのほうが圧倒的に上だと思う*。以下も参照。

シブリーの何がえらいかというと、美学の中心テーマである「美的なもの」(美的判断、美的概念、美的性質など)*が持つ独特の特徴を明確に示し、分析美学における美的なものについての議論のスタンダードを確立したところだ。異論も含めて、美的なものについての現代美学の議論はすべてシブリーの仕事をスタート地点にしていると言っても過言ではない。

従来、美学専攻の学生が自分の領域の固有性と中心テーマを理解するためにまず最初に読むべきとされてきた文献はカントの『判断力批判』だっただろうが(いまやそういうカルチャーもないかもしれないが)、個人的にはこの役目はシブリーの論文に任せたほうがいいと思う*。もちろん『判断力批判』はいまも全員読むべき古典ではあるが、初学者には(文章と背景が)むずかしすぎるうえに論点が散漫すぎる。

その点、シブリーの議論はポイントがわかりやすいし、さらに身近な事例に引きつけて読める。たとえば、わたしたちはふだん、ファッションであれグラフィックデザインであれ音楽であれMVであれインテリアであれウェブデザインであれSNSの写真であれ、プロパーな意味での美的判断をしまくっているわけだが*、シブリーの議論は、そうした身近な美的判断の実践を深く理解することに直結する。『判断力批判』を現代の身近な実践の理解につなげるのは、かなりハードルが高いだろう。

というわけでシブリーはえらいのだが、しかしシブリーの論文は、いまのところほぼ日本語で読めない。『分析美学基本論文集』に入っている「Aesthetic Concepts」の訳が、おそらく唯一の邦訳だ。シブリーの美学論文集『Approach to Aesthetics』を訳す企画はなくはないのだが、知名度の低さがネックになっている。

そういうわけで、少しでも知名度を上げるべく、シブリー論文集の内容を紹介する。版元のOxford University Pressのサイトに章ごとの要約があるので、それをざっくりと訳した。それぞれの要約はごく短いが、どんなかんじの論点が扱われているかはおおよそわかるだろう。16章あります。

1. 美的概念
Aesthetic Concepts

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-1

シブリーはこの章で、ある用語が美的用語(シブリーの考えによれば、それを適用するのに趣味や鋭敏さが必要となるような用語)であるとはどういうことなのかを明らかにしている。シブリーは、美的用語の適用には自然的基礎があることを強調している。つまり、それなしでは美的用語を習得できないような、さまざまな種類の反応の自然的基礎がある。たとえば、さまざまな種類の類似性、目につく色、形、香り、大きさ、複雑さなどだ。こうした自然的基礎にもとづいた反応は、美的用語〔の使い方〕の習得(しばしば比喩的な意味のずらしによって習得される)を可能にするだけでなく、それを習得したあとに芸術作品を評価したりそのありさまを伝えたりするのにも使える。まさにこの意味で、批評家〔の仕事〕とは、美的用語とその自然的基礎の関係を補強するものなのである。

2. 美的なものと、ものの見え
Aesthetics and the Looks of Things

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-2

この章では、美的視覚を通常の視覚と引き比べるのは正当であるという考えが検討される。この考えによれば、美的視覚の必要条件(十分条件ではない)は、その対象が「実際にしかじかであること」ではなく、それが「しかじかに見えること」がつねに重要である(それだけではないとしても)という点にある。シブリーはまず、そうした考えがどのように理解できるのかを明確にする。次に、この議論の範囲を、見た目だけでなく、音、味、感じ、においなどにも広げる。そして最後に、そうしたさまざまな外見のうち、特定の種類だけが、それ自体として〔美的に〕称賛することができる(あるいは美的な称賛のための根本的な材料として機能しうる)ということを論じる。そのような美的称賛の材料になるものを暫定的に特徴づければ、人間の経験に生き生きとした仕方で関わるものということになる。

3. 美的なものと非美的なもの
Aesthetic and Non-Aesthetic

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-3

シブリーは、美的判断、非美的な判断、評決を区別する。評決(verdict)は純粋に評価的な判断である。美的判断と非美的な判断の(ぱっと見の直観的な)区別は、(想定される境界事例を除いて)美学の対象の境界を定めるものである。この章の主題は、美的判断がどのようになされ、正当化され、説明されるかを大まかに描くことによって、この〔美的判断と非美的な判断の〕区別をはっきりさせることにある。シブリーはさらに、美的判断と非美的な判断のあいだにある、さまざまな概念的・偶然的な相互関係や依存関係を解きほぐし、次のように結論する。ある美的判断が真か偽かは、機械的に(つまり規則に訴える仕方で)検証も確証も裏づけもできない。

4. 趣味について
About Taste

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-4

この章は2ページしかない短いノートだが、趣味(taste)という能力の重要性が取り上げられる。趣味には、ものの美的質を見分ける能力という側面と、美的な良さを見てとって美的な価値判断をおこなう能力という側面がある。

5. 色
Colours

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-5

わたしたちは「ものが色を持つ」と言うことができるが、それはいったいどういうことなのか。この章では、この問題を明らかにすることが試みられる。シブリーは次のように論じる。〔ものの色が〕偶然に変化することを考えよう。このとき、〔そのものの色が何であるかを〕決定する手続きを述べたり適用したりしようとすれば、見解の不一致、困難さ、複雑さが生じるだろう。この事実は、一見したところ懐疑論の根拠になるかもしれない。同じことが、色や味だけでなく、それらと同じ意味で客観的な事柄についても言える。とはいえ、非美的な領域では、そうした可能性があるからと言って、性質帰属の真偽が言えなくなるわけではないし、それによって客観性が否定されることもない。この事実は、美的な客観性が同じラインで擁護可能であるという考えをいくらか支持するだろう。

6. 客観性と美的なもの
Objectivity and Aesthetics

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-6

この章では、美的記述の客観性が略図的に論じられる。シブリーはまず、性質の明白な典型例を取り上げ、〔いろいろな性質が〕それと同様であることを示す。次にシブリーは、そうした諸性質のうちに種類と程度のちがいを見いだし、典型例よりもあやふやな概念があることを示す。そうした概念は、美的性質にかなり近いものである。ここでシブリーは、その手の概念が客観的な事柄に関わるものではないとされるのはなぜかという問いを提起する。シブリーの議論によれば、〈わたしたちは、実際の実践において、美的用語を性質用語として(完全にではないとしても)それなりに首尾よく使っている〉という信念が正当化されるかぎりで、美的用語の客観性を完全に放棄する必要は必ずしもない。

7. 個別性、芸術、評価
Particularity, Art, and Evaluation

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-7

この章では、美的価値の基準はあるのかどうかという問題が取り上げられる。シブリーによれば、〈〔ある種の〕価値用語があるものに適用できるなら、そのものはそれによってなんらかの美的価値を持つ〉という意味では、美的価値の基準はたしかに存在する。しかし、この「基準がある」を〈ある価値用語が適用できるかどうかを左右する諸性質の記述(ある価値用語を適用する基準または正当化として機能しうるもの)が確定可能であること〉としてとるなら、美的なものの価値の基準はほとんどない。さらにシブリーは次のように論じる。美的価値の査定に関して〔ケースごとの〕ある種の個別性があるのだとすれば、あるものが価値中立的な記述的性質を持つことと、そのものが美的価値性質を持つことのあいだにはどんな関係があるのかということが問題になる。

8. 美的判断における一般的な基準と理由
General Criteria and Reasons in Aesthetics

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-8

この章では、ビアズリーの「一般説」の見解が論じられる。つまり、批評における美的判断には、一般的な理由がありえる(そして実際にある)という見解である。シブリーもこの見解に同意している。シブリーは、この一般説の立場を擁護するために、ビアズリーの見解に見られる「極端で大げさな」性格をまずはっきりさせ、続いて「個別説」を負かす必要はとくにないことを示す。シブリーはさらに次のように論じる。ビアズリーの立場を突きつめると、〈美的価値の究極的な基準は、美的価値の究極的な消極的基準とは分離できる〉という、より突っ込んだ主張(一般説への反論のいくつかが立脚している前提)が維持できなくなる。

9. オリジナリティと価値
Originality and Value

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-9

この章では、(よく言われるような)芸術作品のオリジナリティとその美的価値のあいだには込み入った関係があるのかどうかという問題が取り上げられる。シブリーは、オリジナリティ(非評価的な意味でのオリジナリティ、つまりたんに〔先行する作品との〕ちがいとしてのオリジナリティ)は美的価値には関係しないと主張する。この点は、ビアズリーと同じである。しかし、シブリーによれば、「オリジナル」という語が持つ複数の用法を区別する必要がある。オリジナリティの重要さに関しては、一見したところ批評家間で見解の不一致があるが、その語の複数の用法を区別することで、そうした見解の不一致の根底にあるあいまいさを明らかにすることができる。

10. 芸術と美的なもの、どちらが先か?
Arts or the Aesthetic—Which Comes First?

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-10

この章では、「美的なもの」という概念の起源の問題(それは何から派生したのか)が扱われる。シブリーは、この問いへの部分的な回答として、ふつうの人々の美的関心がどれだけ広まっているか(とくに、高度に発達した芸術に対する、ごく限られた少数派の美的関心と比較した場合に)を示し、わたしたちの素朴な美的反応の自然的な基礎を強調する。シブリーは次のように結論する。「芸術的」と「美的」のどちらの概念が論理的に先行するかを定めようとする議論には、たいして意味がないだろう。とはいえ、美学的探究は、諸芸術に関するより洗練された問いと少なくとも同じ程度に、原始的な美的満足の本性と起源に注目すべきである。

11. 音楽を自分のものにする
Making Music Our Own

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-11

この章では、音楽の記述(とくに比喩的な記述)と、そうした記述が音楽の理解・解釈にどう関わるかが論じられる。シブリーは、音楽家や音楽批評家が言いがちな記述を引きながら、ある種の純粋主義的な立場の一貫性と、「純粋に音楽的な観点から」音楽を理解・経験するという考えに対して、疑問を投げかける。シブリーはさらに、音楽の正当な解釈をする際に重要なものとして音楽外の要素がひそかに含まれるケースを掘り下げ、音楽外的な現象は(標題音楽以外の音楽であっても)たんなる周縁的な要素ではないと主張する。

12. 述定的な形容詞と限定的な形容詞
Adjectives, Predicative and Attributive

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-12

この章では、ギーチによる「論理的に述定的(predicative)」な形容詞と「論理的に限定的(attributive)」な形容詞の対比について論じられる*。シブリーによれば、ギーチは二種類の区別を混ぜてしまっている。そのうちのひとつは、〔複数の述語に〕分割できる述語と分割できない述語の区別である。この区別は、美的な用語の本性に深く関わる。「xは赤い車だ」は「xは赤い」という述定と「xは車だ」という述定に分割できるが、「xは大きなノミだ」は「xは大きい」と「xはノミだ」に分割できない。シブリーは、ギーチが示している〈本質的に限定的な形容詞〉の包括的な基準を受け入れない。そのかわりに、かなり暫定的なものではあるが、次のように提案している。「xはA」という命題において「A」が本質的に限定的な形容詞であるためには、わたしたちは、ある事物のクラスを(それらを名指す名詞を知っている必要は必ずしもないが)理解していなければならない。

13. 美的判断:小石、顔、ごみの山
Aesthetic Judgements: Pebbles, Faces, and Fields of Litter

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-13

この章では、12章の議論が要約されるとともに、そこでなされた形容詞一般についての議論が「美しい」「優美」「すてき」「エレガント」といった美的な形容詞に応用される。シブリーによれば、ある種の美的判断は正当に述定的である。たとえば、「美しい」という形容詞が限定的に使われることなしに*、事物が美しいと判断されるような場合だ。そのようなケースでは、当の事物に適用される名詞あるいは概念が、その美しさ(あるいは美しさをもたらす性質)に関する制限的な基準を作り出していない。それゆえ、判断者は、その事物がどんな種類のものであるかを知る必要はない。逆に、その事物に適用される名詞が適切さの概念を組み込んだ〔美的判断の〕基準を作り出す場合、その美的判断は限定的である。

14. 醜についての覚え書き
Some Notes on Ugliness

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-14

この章では、醜という概念が論じられる。シブリーによれば、この概念は、これまでほとんど論じられてこなかったとはいえ、美学者が大きな関心を持つべきものである。シブリーは、12章の一般的な議論と、13章で示された〈「美しい」という語は必ずしも限定的ではない〉という見解にもとづきつつ、醜の概念を明確化しようと試みている。シブリーによれば、「醜い」は実のところ限定的な美的判断であり、たんに暗黙の比較というわけではない。

15. 味、におい、美的なもの
Tastes, Smells, and Aesthetics

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-15

味とにおいは美的関心、美的鑑賞、美的満足の対象になりえるのか。この章では、このあまり取り上げられない問いが扱われる。シブリーは、「味覚や嗅覚の対象は芸術作品になるかどうか」という問いを迂回したうえで、次のように言う。味とにおいが美的なものの領域から全面的に排除されているというのは事実ではない。言い換えれば、それらは必ずしも、それについての美的判断や美的記述を適格なものとして可能にするような特徴を欠いているわけではない。シブリーは、美的評価の文脈においてわたしたちが典型的に対象に課すたぐいの要求を味とにおいが満たしているという見解に立って、さまざまな考察を示している。さらに、美的なものと感覚的なもの(sensuous)を線引きする基準はどれもうまくいかず、結果的に両者の領域は連続するものとして理解するしかない。そういうわけで、両者の領域がさまざまななかたちで交差しているおかげで、感覚的なものについての美的評価ができるのである。

16. 《モナ・リザ》がひとつの絵画作品ではない理由
Why the Mona Lisa May not Be a Painting

https://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0198238991.001.0001/acprof-9780198238997-chapter-16

「絵画作品と彫刻作品は、物理的な事物と同一視できる。それゆえ、それらにはタイプ/トークンの区別が当てはまらない。」このような考えがある。この章で、シブリーはこの考えに歯向かっている。わたしたちは、膨大な美術作品についての知識を持ち、それを鑑賞することができる。それができるのは、作品のコピー、印刷物、図版つきの美術書(ほとんどの美術愛好家は持っているだろう)、カラースライド、テレビといったもののおかげだ。それゆえ、たとえば《モナ・リザ》の諸複製が一個のタイプの諸トークンであるという考えを否定する強い根拠はないように思われる。この主張は、たんに〈美術作品の複製がより正確になれば、わたしたちは価値あるものにより近づける〉(シブリーによれば、わたしたちはすでにその状態に達している)というだけの話ではない。シブリーの結論は次のようなものだ。美術作品は、ある意味では物理的な事物と同一視できる。しかし同時に、美術作品はタイプ/トークンの区別を許容するものでもある。それゆえ、わたしたちが絵画作品について持っている概念は内的に不整合であるか、または絵画作品という概念がふたつあるか、このいずれかだろう。

Footnotes

  • ついでにいうと、同じく知名度がなぜか低めのリチャード・ウォルハイム(Richard Wollheim)もシブリー並みにえらい。こちらは、主著『Art and Its Objects』の邦訳が進んでいるはず。

  • ここで「美的」と訳している「aesthetic」を「感性的」と訳そうとする研究者は一定数いる。個人的には訳語自体はどちらでもいいのだが、この語の外延に関して(ひいては学問領域としての美学の境界設定に関して)注意すべき論点があるのは確かである。

    第一に、〈伝統的に「美的なもの」と「芸術」はつねに結びつけられてきたが、その結びつきを解消すべきである〉という考えがある。美的でない芸術もあれば、美的な非芸術もあるからだ。第二に、〈美的なものについての議論は、領域を不当に限定せずに知覚一般や感覚一般の話に広げるべきである〉という考えがある。この手の議論はしばしば、「aesthetic」の語源であるギリシア語の「アイステーシス」の原義と、美学の創始者バウムガルテンがこの分野を「感性的認識の学」として規定したという事実に訴える(ついでにカントの『純粋理性批判』での用法も持ち出すかもしれない)。

    シブリーもわたしも(というか分析美学者の大半はそうだろうが)第一の考えには同意するものの(自明すぎる話なので)、第二の考えには同意しない。美的経験や美的判断は、たんなる知覚経験やそれについての言明とは異なる独特の特徴を持っている(少なくともそのような特徴をもった独特のものがこれまで「aesthetic」と呼ばれてきたし、これからもそう呼ぶべきである)。その独特さをどう特徴づけるかは、また別の話である。たとえば、美的判断のカント的な特徴づけ(無関心性など)を受け入れるかどうかは、この話と関係ない。

    もちろん、美的なものが通常の知覚に近い性格やそれとの重要な関係を持っていることはシブリーもわたしも否定しないが(個人的にはむしろ積極的に肯定していきたい。源河さんの諸仕事を参照)、それ固有の特徴を持った「美的なもの」という概念を捨てて美学をただの知覚論に解消しようとするのは現実をとらえる目が粗すぎるだろう。おそらくそういうムーブをとりたがる人は、本来の美学の議論のポイントにぴんときておらず、美的文化の重要さにも興味がないのではないかと思う。

  • 美学史の教科書的には、美的判断(趣味判断)を善悪の判断やたんなる好き嫌いの言明とは区別される固有のものとして決定的に確立したのは『判断力批判』である。カントの議論は、基本的に快不快ベースの諸判断の中で趣味判断の特殊性をどう特徴づけるかという話だが、シブリーは快不快のような感情の観点をまったく持ち出さない。結果として、美的なものの固有性を、対象を価値づける側面(「美的判断」という語でしばしば想定されるもの)とは独立に特徴づける方向で議論を展開している。

  • ここでいう美的判断は、シブリーが挙げているような美的用語を事物に適用することである。これらの用語の例でぴんとこなければ、たぶんふだんあまり美的判断の実践になじんでいないのではないかと思う(ファッション誌などは美的用語のオンパレードなので見ればわかると思うが)。

  • 文法的な区分では「predicative / attributive」=「叙述的/限定的」と訳すのがふつうだと思うが、ここでは論理的な区分なので別様に訳してある。定訳は微妙に定まっていないっぽい。

  • 原文は「without ‘beautiful’ being used predicatively」だが、明らかにタイポなので「attributively」として読む。