ビデオゲームは芸術か:『ビデオゲームの美学』3章をわかりやすく書く

Dec 13, 2019|ゲーム研究

帯にでかでかとあるように、拙著『ビデオゲームの美学』の主張のひとつ(中でもあまり重要ではないもののひとつ)は「ビデオゲームは芸術だ!」なんですが、諸概念の関係が複雑で議論もねじれており多くの人にとってわかりにくいと思うので、できるだけ簡単な言い方でまとめておきます(正確さよりもわかりやすさを優先します)。該当箇所は第3章の2~3節。

本に書いてないことを自由に読み込んだうえでなされる疑問・批判・反論(たとえば「じゃあビデオゲームは娯楽ではないのか?」みたいなやつ)に対してはとくにフォローしません。まず文章を読んでください。

芸術形式と芸術作品の区別

「ビデオゲームは芸術か?」という問いはよく問われる。この問いはふつう、「特定のビデオゲーム作品が芸術かどうか」と問うているのではなく、「ビデオゲームという表現媒体が芸術かどうか」を問うている。なので、この場合に使われている「芸術」という語は、「芸術作品」ではなく「芸術形式」の意味でとるべき。

芸術形式というのは、絵画とか音楽とか映画とか演劇とか、そうした表現媒体のこと。それらの表現媒体で作られた個々の作品(たとえば『モナリザ』とか『ハムレット』とか『タイタニック』とか)のことではない。

というわけで、「ビデオゲームは芸術か?」という問いは「ビデオゲームという表現媒体は芸術形式か?」と言い直したほうがよい。

芸術形式の定義

さて、「ビデオゲームは芸術形式か?」という問いに対する答えは、「芸術形式」をどう定義するかによる(あたりまえだ)。とはいえ「芸術形式」はどう定義するのが適切か。

おおよそ以下のように定義すれば、明らかに芸術形式と言える事物をすべてカバーしつつ、同時に明らかに芸術形式とは言えない事物をすべて排除できる。

芸術形式の定義:ある提示形式Fは、以下の二つの条件が満たされるとき、またそのときにかぎり、芸術形式である。(a) Fという提示形式を持つおかげで芸術作品であるようなFプロダクトがある。(b) 芸術作品を作ることを主な目的として意図的に選ばれる提示形式の候補の集合にFが含まれるような慣習が成立している。〔p. 57〕

「提示形式」というのはおおむね「表現媒体」のこと。以下めんどくさいので、変数Fにはじめからビデオゲームを代入しておく(ビデオゲーム以外の表現媒体が芸術形式かどうかについて考えたい人は適当に置換してください)。

この定義をわかりやすく言い換えると:

ビデオゲームが芸術形式であるための条件:(a) 芸術作品と言えるようなビデオゲーム作品がある。(b) ビデオゲームという媒体で芸術作品を作るぜ~という活動がわたしたちの社会においてわりと普通になされている。

(a)(b)ともに問題なく満たされるだろう。したがって、ビデオゲームは芸術形式だ!*

芸術作品の定義

次のような疑問が想定される。いやいや「芸術形式」の定義の中に「芸術作品」が入っているんですが? 「芸術作品」ってなに? それをちゃんと言わないと(a)(b)の条件が満たされるかどうかわからないのでは?

もっともですね。というわけで、次に芸術作品の定義をしないといけない。芸術作品の定義はいろいろ提案されているが、ここでは「制度説」と呼ばれる立場をとる*

芸術作品の定義:芸術作品とは、それがそれとして位置づけられる慣習内で芸術的受容の対象と見なされている人工物のことである。〔p. 58〕

言い換え:

芸術作品とは、ある芸術文化(アートワールド)の中で、芸術的な良し悪しの判断の対象と見なされているもののことである。*

はい、またよくわからない「芸術ホニャララ」という言葉が出てきましたね。というわけで、次に「芸術文化」「芸術的な良し悪しの判断」とは何なのかをはっきりさせる必要がある。

良し悪しと好き嫌い

「芸術文化」というのは、ようするに、その中で芸術的な良し悪しの判断が行われている文化のこと。なので、「芸術的な良し悪しの判断」のほうがより基礎的な概念だ。

さて「芸術的な良し悪しの判断」とは何か。しかし、この概念の定義を論じはじめると大変なことになる(古今の美学者が延々と議論している話題である)。そういうわけで、ここでは「それは何でないのか」というネガティブな特徴づけを与えてみよう。

  • 芸術的な良し悪しの判断は、倫理的な善し悪しの判断ではない。
  • 芸術的な良し悪しの判断は、役に立つとか役に立たないといった有用性の判断ではない。
  • 芸術的な良し悪しの判断は、たんなる好き嫌い(個人的な好み)ではない。

以上は現代の美学者であれば(完全に同意するかどうかはともかく)おおむね同意する特徴づけだろう。

良し悪し論争と理由づけ

芸術的な良し悪しの判断と好き嫌いのちがいは一見わかりづらいかもしれないので、さらに説明しておく。

たとえば、友達同士がある作品に対する自分の好き嫌いを互いに言い合ったとしよう。それが本当にたんなる個人的な好みの話なら、仮に好みが食いちがっていたとしても論争にはなりえない(この人とは気が合わないなという気持ちにはなるかもしれないが)。他人の好みに対して「いやいや、そんなことはないだろ」とは言えないのだ。

いっぽう、ある作品に対して良し悪しを言い合う場合、その評価が食いちがっていると論争になりえる(「なりえる」のであって必ず論争になるというわけではない。納得できなくても論争を避けるタイプの人はいくらでもいる)。つまりその場合、他人の評価に対して「いやいや、そんなことはないだろ」と論争をふっかけることができるのだ。

関連することだが、論争になりえるかなりえないかというちがいに加えて、その判断に理由づけが求められるかどうかというちがいもある。純粋な好き嫌いに対して「なぜ?」と問う必要はない*。いっぽう、良し悪しの判断には理由づけが(暗にであれ明示的にであれ)伴っている。とりわけ、評価が割れて論争している場合は、理由づけによる評価の説明(なぜ良い/悪いと言えるのか、作品のどの点がどのように良さ/悪さに寄与しているのか)がふつう求められる。

ビデオゲーム作品に対してこの意味での良し悪しの判断をする文化は、わたしたちの社会の中でふつうに成り立っている(評価の理由づけをするレビュー≒批評は典型的)。したがって、ビデオゲーム作品を対象にした芸術文化は存在し、その中で評価の対象と見なされているビデオゲーム作品は芸術作品である。

批評の中身

ある文化の中で芸術的な良し悪しの判断がなされているかどうかをもっとポジティブなやり方で見分ける方法はないのか。たしかにビデオゲーム作品のレビューはあるが、ビデオゲーム作品は本当に芸術的な良し悪しの判断の対象なのか? あるいはラーメンのレビューなんかもあるが、だとするとラーメン文化も芸術文化なのか?

そういうわけで、ここで想定している「批評」の内実をもう少し限定しておくと:

  • 評価対象の同一性が問題になりがち。(e.g. リメイクは同じ作品なのか別作品なのか?)
  • 当のカテゴリーならではの特徴が問題になりがち。(e.g. ムービーゲーはナラデハ特徴を活かしてないからクソ!)
  • 評価や作品記述の語彙が豊富。
  • サブジャンルが細分化されがち。

こうした豊かな批評のあり方は、ラーメン文化には見られないだろうが、音楽文化や映画文化にははっきりある。そしてもちろんビデオゲーム文化にもある。豊かな批評の有無は、その文化の中で芸術的な良し悪しの評価が行われていることの必要条件でも十分条件でもないかもしれないが、ひとつの有力な指標としては使えるだろう。

まとめ

以上をまとめると:

  • ビデオゲームは芸術形式です。なぜなら、(a) 芸術作品と言えるようなビデオゲーム作品があり、かつ、(b) ビデオゲームで芸術作品を作るぜ~という活動がわたしたちの社会においてわりと普通になされているから。
  • 芸術作品というのは、芸術文化の中で評価の対象になるもののことです。
  • ビデオゲーム作品を対象にした芸術文化があるというのは、ビデオゲーム作品を芸術的な良し悪しの判断の対象にした文化があるということです。
  • 芸術的な良し悪しの判断というのは、善悪の判断、有用性の判断、好き嫌いとはちがうもので、理由づけが求められるものです。
  • ある文化が芸術文化かどうかを見分けるひとつの指標(必要条件でも十分条件でもない)は、豊かな批評の実践があるかどうかです。

おわり。

Footnotes

  • ついでにここに書いておくが、たまに「本で「ビデオゲームは芸術作品だ」と書かれてますよね」的なことを言われることがあるが、そんなことはどこにも書いていない。いくつかのビデオゲーム作品は芸術作品だとは書いているが、あらゆるビデオゲーム作品が芸術作品だとは書いていないし、「芸術形式」と「芸術作品」の区別はこの本でかなり強調していることである。

  • なぜ制度説を採用するのかという疑問があるかもしれない。この疑問はもっともだが、その議論をしたければ芸術の定義論の土俵にようこそということになる。さしあたりここで言っておきたいのは、分野外の人にとってそこはおそらくかなりの地獄だということだ。興味がある方は、とりあえずロバート・ステッカー『分析美学入門』(森功次訳、勁草書房、2013年)5章からどうぞ。

  • 「芸術的受容」(箇所によってはたんに「受容」と呼ばれる)と「芸術的評価」(=芸術的な良し悪しの判断)は、『ビデ美」の中で微妙に別の概念として使われている。2章のpp.44–45を参照。ただこの区別は話をややこしくするだけなので、ここでは単純化する。

  • 好き嫌いの理由を聞いてくる人はたまにいるかもしれないが、他人の好みに口出しするのは場合によっては失礼かいやがらせになりえる。たいていは理由を聞かれてもしらんがなとしか言えない。(たとえば「なぜ青が好きなの?」とか。しらんがな。)「どこが好き?」というのがしばしば話のネタになるのはわかるが、それが面白い会話になるのは多少良し悪しの判断の成分が入っているからではないかと思う。