様式とは何か
Jan 06, 2020|美学・芸術の哲学
必要があって様式(style)という概念について多少勉強したのでメモ代わりにまとめておきます。「様式」(文学だと「文体」)という言葉を問題にしたいわけではなく、芸術学まわりで頻出するあの概念の中身を問題にします*。具体的には、「ロマネスク様式」や「定朝様」や「8bitスタイル」などと言われる場合のそれです。
学部生時分の自分が読んだらためになったであろう内容を意図して書いてます。注は詳しく知りたい人向け。
文献
目を通した文献は以下*。
- Elkins, J. 2003. “Style.” Grove Art Online. https://doi.org/10.1093/gao/9781884446054.article.T082129.
- Gombrich, E. H. (1968) 2009. “Style.” In The Art of Art History, 2nd ed., ed. D. Preziosi, 129–40. Oxford: Oxford University Press. (「様式」細井雄介訳、『様式』中央公論美術出版、1997年)
- Goodman, N. (1975) 1978. “The Status of Style.” In Ways of Worldmaking, 23–40. Indianapolis: Hackett. (「様式の地位」菅野盾樹訳、『世界制作の方法』筑摩書房、2008年)
- Lang, B. 2014. “Style.” In Encyclopedia of Aesthetics, 2nd ed., ed. M. Kelly. Oxford: Oxford University Press. Available online: https://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780199747108.001.0001/acref-9780199747108-e-694.
- Meskin, A. 2013. “Style.” In The Routledge Companion to Aesthetics, 3rd ed., eds. B. Gaut and D. M. Lopes, 442–51. London: Routledge.
- Meyer, L. B. 1987. “Toward a Theory of Style.” In The Concept of Style, revised and expanded ed., ed. B. Lang, 21–71. Ithaca, NY: Cornell University Press.
- Schapiro, M. 1953. “Style.” In Anthropology Today: An Encyclopedic Inventory, 287–312. Chicago: University of Chicago Press. (「様式」板倉壽郎訳、『様式』中央公論美術出版、1997年)
- Wollheim, R. 1987. “Pictorial Style: Two Views.” In The Concept of Style, revised and expanded ed., ed. B. Lang, 183–202. Ithaca, NY: Cornell University Press.*
様式概念の特徴づけ
芸術関係の概念に一般に言えることだが、定義論(必要十分条件の提示)をやろうとすると地獄を見る。なので、〈先行論者の見解をまとめると、様式概念のコアになっている意味成分はおおよそこれくらいではないか〉というやり方で特徴づけを試みよう。
どの論者も共通してだいたい次のことを言っている。
- 様式は、複数の作品に共通して見られる一定のパターン*である。結果として、様式は作品の分類に使える(もちろんジャンルなどの芸術カテゴリー一般と同じく批評をする上でも利用できる)。
- 様式は、ふつう特定の実体に結びつけられる。つまり、様式にはふつう帰属先(「xの様式」のxにあたるもの)がある。帰属先になる実体には、個人、流派、地域、時代などいろいろあり、それぞれに対応して、個人様式、流派様式、地域様式、時代様式などがある。この特徴のおかげで、様式は、作品の属性(作者、制作年代、制作地域、etc.)を推定するのに利用できることがある*。
- 様式は、作品の内在的な(つまり作品を鑑賞することで見分けることが可能な)特徴である*。それゆえ、作品としての特徴というより物体としての属性というべきもの(たとえばドキュメンテーションによって記録されるような、物としての履歴)は様式に含まれない。かつての美術史が「目利き」(connoisseur)の学問だったのはこの特徴が関係している。
これらの特徴づけは、様式概念の実際の使われ方とも整合しているだろう。
オプション
これらに加えて、よく言われる特徴づけがいくつかある。
- 様式は、作家の選択(自覚的かどうかはともかく)の結果である*。
- 様式は、美的に関心をひく特徴、つまり作品の評価に関わる全体論的な特徴である*。
- 様式は、心理的な(あるいは感情的な)ものの反映である。つまりある種の表出である。
これらは一部の論者しか言っていない。概念をより狭く使いたいときのオプションとして理解しておけばいいものだろう。
最近の論者は基本的に(6)を否定する。(6)を(2)と組み合わせるとけっこうやばい発想が引き出されるからだ。つまり、様式に結びつけられる実体の「心理的」な状態や傾向性を反映するものとして様式を理解するという発想である。個人はまだしも、集団・地域・時代などに心理的なものを見いだそうとする考えは「様式論的観相学」(stylistic physiognomy)などと呼ばれてさかんにけなされている*。
とはいえ、少なくとも20世紀前半までは、様式にもとづいて「民族精神」(たとえば「ドイツの芸術にはドイツ人の気質があらわれている」)や「時代精神」をうんぬんする様式論はふつうだった。また民間美学のレベルでは、現代でもたびたび見かけるものだろう(e.g. 「日本のゲームには日本人の精神性が~」)。
現代の美術史の中で様式論のうけがよくないのは、この手の「観相学」とセットになる傾向にあったせいもあるだろうし、次に示すようにもっぱら作品の「形式」にのみ注目して「内容」を無視する傾向にあったせいもあるだろう(どちらも様式論に必ずついてくる特徴ではないはずだが)。
Howとしての様式
以上に示したのとは別に、一般に言われがちなこととして挙げられる(そしてたいてい否定される)様式の特徴づけがある。
- 様式は、主題(subject)と対置されるものである。つまりそれは、内容に対する形式、何を表すか(what)に対するいかに表すか(how)である。
この〈what vs. how〉の対概念自体は相当古く、由緒あるものだ*。しかし、グッドマンなどが批判しているように*、この対概念の片方を近代的な様式概念と同一視しようとするのは明らかに無理がある。批判のポイントは以下の通り。
- 様式をhowとして特徴づけることは、作品が主題を持つことを前提としている。つまり、作品が表象芸術であることを前提としている。それゆえ、純粋器楽、建築、抽象的なデザインといった非表象的な芸術形式の作品には適用できない。しかし、もちろんそれらの芸術形式にも様式は言えるはずだ。
- 表象芸術にかぎったとしても、この特徴づけには問題がある。主題をどう表すかだけでなく、どんな主題を選ぶかにも様式(作家や流派の個性を示す作品内在的な特徴)は言えるからだ。つまり、whatのレベルにも様式がある。
実際のところ、様式論の中でこの意味での「形式」に注目する研究は少なくなかった。とりわけヴェルフリンの様式論は、「形式分析」を自任する通り、描かれている主題ではなく、その描き方に注目したものである。なので、〈様式=how=形式〉という理解は多少は実態に即している。
とはいえ、上に示したような様式概念を犠牲にしてまで、howの概念に「様式」という語を割り当てる利点はとくにないだろう。「いかに表すか」を表すための言葉は他にいくらでもあるからだ(たとえば任意の記号論的な枠組みを持ってくれば済む)。
おまけ:段階的な様式
ジェームズ・エルキンズが言うように(Elkins 2003, sec. 1)、複数の様式がワンセットで、ひとつの芸術カテゴリー(それ自体がひとつの様式の場合もある)の内部での発展プロセスの諸段階として理解されることがよくある。典型的なのは、古代ギリシア美術のアルカイック・クラシック・ヘレニズムのセット、近代ヨーロッパ美術のルネサンス・マニエリスム・バロックのセットなどだ。ヴェルフリンのルネサンスとバロックの対(特定の時代の様式発展というよりは、一般化された様式発展のパターン)もこれに相当する。個人様式も前期・中期・後期などと区分されることがある。
この種の様式観も批判されている。エルキンズによれば、よくある批判は次の4パターン。
- 歴史的な現象を人間の成長プロセス(少年・青年・壮年・老年)や植物の成長プロセス(発芽・開花・結実・枯死)の比喩で語るのは不適切。
- 連続的であるはずの発展プロセスを少数の段階に切り分けるのは乱暴。
- それぞれの段階が価値的に等しいように見せかけて、実は段階間に価値の差をつけている。
- 様式の発展が、それを取り巻いているはずのより広い社会的状況から分離したかたちで自律的に進むと考えている。
これらの批判はもっともだが、一方で様式の段階的な発展という見方はそれなりに直観に合致する面もある。素朴な表現からはじまり、ある種の調和・完成を経て、表現の歪曲や過剰へと至るという変化の流れは、わりとどの芸術形式・ジャンルにも見いだせる現象だろう。
この現象をむだに思弁的で大げさな話にせずに、経験的研究にもとづくかたちで説明できれば、様式論も様式概念もまだまだ十分に有益だろうと思う。
Footnotes
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たとえば「様式」という日本語の単語は、書類のフォーマットを指すのに使われたりする。英語の「style」も別の仕方で多義的である。ここでは、「様式」や「style」という言葉にそういういろいろな幅広い意味・用法があるという話がしたいわけではない。言葉の多義性を整理することと概念を明確化することが混同されることがあるが、それぞれ別の営みである(もちろん概念の明確化の予備的作業として多義性の整理がされることはよくあるし、概念史をたどることと語源をたどることが区別しづらいケースもよくある)。
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どれも美術史などの個別芸術学というよりは、美学(というかメタ芸術学というか)的な性格の文献である。つまり、いずれも様式概念のユーザー目線というよりは、様式概念の使われ方を傍から眺める人目線で書かれている(もちろんここに挙がっている人の半分はそれぞれ著名な美術史家・音楽学者でもあるが)。一方で、たとえばリーグルやヴェルフリンやフランクルといった様式概念のユーザーが、その概念について何を言っているか(それをどう使っているかではなく)については今回は気にしていない。ある概念のヘビーユーザーであることは、その概念の明確化にもっとも長けていることを意味しないからだ(日常的な概念を考えればあたりまえ)。グッドマンの言葉を借りれば、「わたしは批評家や美術史家が〔様式概念を使って〕やっていることにケチをつけたいわけではなく、彼らが提案する様式の定義・理論―たいてい彼ら自身がやっていることと食い違っているもの―にケチをつけたいのである」(Goodman 1978, 24)。
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他にいいサーベイがあったら教えてください。研究史を知りたいなら日本語でもそれなりの情報が得られるだろうが、概念の定義や明確化を求めているときには日本語の事典・辞典(邦訳除く)は基本的に使い物にならない(独仏はしらない)。いちおう日本語のオンラインソースのうちのましな部類も挙げておきますが、中途半端なものを下手に読むと混乱するだけなのであまり参考にしないほうがよいでしょう(このブログもその類かもしれないが)。
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これはいろいろな言い方がされる。レナード・マイヤーは「パターンの複製」(replication of patterning)、マイヤー・シャピロは「定常的な形式」(constant form)、ジェームズ・エルキンズは「質の一貫性」(coherence of qualities)、ベレル・ラングは「特徴的な規則性または反復」(characteristic regularity or reiteration)という言い方をしている。
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リチャード・ウォルハイムによれば、個人様式以外の様式はなんらかの現実的な事態を反映しているわけではないので、せいぜい作品の分類に使えるだけで現実を説明する力は持たないという(Wollheim 1987, 194ff.)。それに対してアーロン・メスキンは、地域様式・時代様式なども作品制作の慣習・伝統・規範といった社会的な現実を反映しており、一定の説明力はあるだろうと主張している(Meskin 2013, 447)。また方法論的にどれだけ正当化できるかはともかく、作品同定の根拠のひとつ(決定打にはならないとしても)として様式が持ち出されることは、美術史ではわりとふつうである(最近では、より「科学的」な方法が好まれるだろうが)。
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グッドマンは「内在的/外在的」という対比を嫌うのでこういう言い方はしないが、表象、表出、例示といった記号作用―グッドマンの理論におなじみの概念セット―を担う特徴かどうかという観点から、同じような限定をかけている(Goodman 1978, 35)。
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マイヤーはこの特徴を積極的に擁護している(Meyer 1987, 23ff.)。マイヤーが「選択」という言い方で強調しているのは、様式の記述や評価は、制作の時点において作家が取り巻かれていた諸制約がどのようであったかに依存するということである。つまり、ある作品の様式を適切に理解するには、その作品の制作時点での作家の「選択肢」(できることの幅)を考慮に入れる必要があり、単純に作品の見える特徴だけを気にしていれば済むわけではないという主張だ。ゴンブリッチが『規範と形式』で主張していることもおおむね同じだと思う。
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ちなみに、前にTwitterでtrickenさんへのリプライとして書いたが、美術史の人はしばしば(5)の限定込みで「様式」という言葉を使っているように思える(そして、(5)を満たさないものとして「形式」という言葉が使われることがたまにある。たとえば、上記のTogetterで松下さんが挙げている通り、日本彫刻史の文脈で)。シャピロもこの限定込みで話を進めているところがあるので(Schapiro 1953, 289f.)、美術史の実践家からすればわりとふつうの用法なのかもしれない(実際ヴェルフリンのディスクリプションには美的概念が相当使われている)。(5)と(3)がごっちゃにされやすいだけかもしれないが。
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シャピロやゴンブリッチはこの「観相学」をかなり痛烈に批判している(Schapiro 1953, sec. 7; Gombrich 2009, 136ff.)。両方とも20世紀半ばの文章だが、その時点では古めかしい様式論(ヘーゲル的な発展史観に結びつけられがちなもの)がまだそれなりに生きていたということだろう。
ついでに言うと、19世紀~20世紀初頭くらいの古い美学の一部では、「内面形式」と「外面形式」を分けて前者に「様式」を割り当てていたらしい(竹内敏雄編『美学事典』の「様式」の項目を参照)。リーグルの「芸術意志」も同種の発想かもしれない。この時代の人たちは、芸術史的な変遷を「内的」とか「精神」とか「生命」とか「自律的」とかなんだとか擬人化したがる傾向にある。この種の考えも、もともとは技術決定論的な様式論に対するオルタナティブだったのかもしれないが(Schapiro 1953, sec. 6)。
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遅くともアリストテレス『詩学』には明確にこの区別がある。また古典的な修辞学にも、語る内容を考える部門と、その内容にどんな表現を与えるかを考える部門がそれぞれ独立してある。
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グッドマンとマイヤーがそれぞれわかりやすい批判をしている(Goodman 1978, 24ff.; Meyer 1987, 26f.)。ちなみにグッドマンは、様式を〈how=形式〉(〈what=主題〉と対置されるもの)と同一視することは否定するのだが、一方で、様式がある種の仕方(way)であるということは維持しようとする(つまり、「how」と「way」を別の意味で使う)。この点に注意して読まないとかなり混乱すると思う。