井上明人『ゲーミフィケーション』についての書評的ななにか

Feb 04, 2012

雑記

井上明人『ゲーミフィケーション』(NHK出版, 2012)がでてた。

ちょっと時間できたので、書評的ななにかというかステマ。

いくつか先行の読書感想文を読んだが、いずれも、他のゲーミフィケーション本とのちがいを指摘しつつも、この本のいいところをスルーしているように思える。

この本において見るべきところとして、少なくとも以下のふたつがあるはず。

いいところ①

なんにでも適用されてぐだぐだになりがちな「ゲーミフィケーション」という用語について、きちんと複数の異なる用法を区別しようとしている(ここには、井上さんがしばしば強調する「ゲーミフィケーション」と「シリアスゲーム」の区別も含まれる)。

本の末尾(p.252)にまとめられているように、「ゲーミフィケーション」という概念には、少なくとも以下のような3つの意味のひろがりがある。

  • (a) 最広義: ようするに、ゲームっぽくて役に立つものなんでも。
  • (b) 狭義: 「コンピュータゲームのなかで特徴的に培われてきたノウハウを現実の社会活動に応用する」こと。
  • (c) 最狭義: そのなかでもとくに「強化学習プロセスやフロー体験を成立させるための最適なフィードバック設計のノウハウ」を応用すること。

で、本全体としては主に(b)が議論される、とされる。

いいところ②

上記の(c)最狭義のゲーミフィケーションの実践を、着想・設計・洗練という3つのフェーズに分けたうえで、具体的に論じている。これは5節全体で議論される。

おそらく著者自身の力点は、この5節にあるんだろうと思う。議論がいちばん細かいし、ちゃんと実践的なことも念頭に置いてるし。逆にいうと、5節の議論を適切な枠組みの中に位置づけるために(つまり、話がでかくなりすぎてぐだぐだにならないように)そこまでの節で議論を整理してるのかなという気もする。


個人的には(ぐだぐだ概念の定式化厨としては)、いいところ①のほうに興味がある(もちろん①にフォーカスするような本は決して売れませんけれども)。

あと、4節で論じられているような、(b)の意味でのゲーミフィケーションがいまになってうまくいっている(or うまくいくだろう)ことを説明するものとしての「環境」(というか条件というか)にも興味ある。著者は、そのような環境として、計測テクノロジーの進歩やインターネット/ソーシャルメディアの登場やゲーム世代の成熟といったことを挙げているが、踏み込んだ議論はしていない。このへんがもうちょっと掘り下げられると、わくわくするかもしれない。

たとえば、これらの環境は、ゲーミフィケーションにとって、たんなる〈メディア〉なのか、そのメディアを扱うための〈メディアリテラシー〉なのか、そのコンテンツを受容するための〈文化的素養〉なのか、といった観点から、カテゴリ分けできるだろう。で、その環境としての(あるいは要求される条件としての)メディアリテラシーや文化的素養の特殊性が、ゲーミフィケーションの可能性と限界をあるていど決定するような気がする(たとえば、インターネットつかえない人はメディアリテラシーの点でゲーミフィケーションからはじかれるだろうし、SNS的なコミュニケーションを楽しめない人は文化的素養の点で(SNS的な)ゲーミフィケーションをうけつけないだろう)。

そういう議論が今後展開されれば、ゲーミフィケーションまわりの話がおもしろくなるかもしれない。


というわけで論点が多くておもしろい本です。

事例もいっぱい紹介されてるよ。(というか、事例がどうのみたいなのがたいていの読書感想文の中心的部分なんだけど、やっぱりこういう本だと具体的事例の紹介が重要だということかな)

すてまおわり。