ゲームのヒーローは誰か

Jul 25, 2012|ゲーム研究

今週末のDiGRAJの夏季大会の高橋志行さんの予稿を読んで考えたことなど。

↓予稿の内容はおおむねこんなかんじ↓

ある種のゲームは、プレイヤーの活躍を物語として描くよう意図されてデザインされているわけだが、そのようなデザインでは一種の「逆説」が生じる。つまり、その種のゲームは、一方で (a) プレイヤーの活躍を可能にするためにプレイヤーの選択に応じた異なる帰結の可能性を必要としつつ、もう一方で (b) プレイヤーの活躍を保証するために特定の(ふつう望ましい)帰結が予定されていなければならない。

ようするに、一本道だと活躍もくそもないので失敗する可能性がなければならない一方で、活躍を描くよう意図された(そしておそらくそのように期待された)ゲームである以上、活躍の筋書きも用意されてなければならない(つまり必ず成功しうるものとして提示されなければならない)。

(a) プレイヤーの活躍は、〈プレイヤーが選択肢の幅(「可能性の空間」と呼ばれる)を持ち、かつ、その選択(「意志確認」ないし「意志決定」と呼ばれる)によって事態の帰結が異なりうるようなある状況〉をプレイヤーに与えるデザインによって可能になる。

(b) プレイヤーの活躍の保証は、「キャラクタ原理」、つまり、「ゲームの登場人物の活躍が一定程度約束されること」を通しておこなわれる。マリオがピーチを助け出すキャラクタであることは、ゲームを始めるまえからすでにプレイヤーに与えられている(少なくともプレイヤーがそのような予期を持つようデザインされている)。そして、そのことを通してプレイヤーの活躍は約束される。

↑おおむねたぶん以上のかんじ↑

(以上の議論を展開する過程で「シナリオ」という用語がピックアップされているが、この語の役割がいまいちよくわからない。ゲーム設計の場面で(a)と(b)の両側面についてつかわれる概念ということなのかな。)

「逆説」と呼ぶべきかどうかはともかく、議論の内容にはまったく同意する。またゲームデザインの場面でしばしば要求されつつもやりくりが難しいところ(したがって、うまいこといくと評価されるところ)だろうから、論じる価値はおおいにあると思う。ゲームデザインの観点からすると、「可能性の空間」のデザインは、プレイヤーの手段のデザインの側面で、「キャラクタ原理」によるデザインは、プレイヤーの動機づけとか目的のデザインの側面にかかわるのかなとぼんやり思った。発表でさらに話が展開するかもしれないので楽しみ。


以下蛇足。

高橋さんがいう「逆説」は、たぶん部分的には「物語とゲームの対立」という伝統的な問題と重なるもので、EskelinenとかJuulとかのルドロジストたちが強調してたのもこの問題のバリアントだろう。たしかに、ジュネットが言うように、物語内容(histoire)は語られるものであり、語られるためには(事実にしろ虚構にしろ)語りの時点より以前にすでに生じたものとして想定される必要があるのであって、そのかぎりである種の過去性・不可変性を持つだろうし(この主張はまあ正しいんじゃないかと思う。"histoire"という語の持つ含みはなかなか馬鹿にできない)、一方のゲームは、ふつうに考えれば(そして古典的な諸定義によれば)プレイヤーのふるまいに応じた異なる帰結(つまり可変性)を必要条件とするわけだから、ゲームと物語(少なくとも物語内容)の不調和は避けがたい。

部分的には伝統的な問題だが、ある種の動機づけ(成功の保証)をプレイヤーに与えるためにゲーム自体が物語とその不可変性(少なくともプレイヤーキャラクタのヒーロー性についての不可変性)を要請するという観点は新鮮かもしれない。素朴なルドロジストのように物語はゲームにとって本質的なものではないとするのでもなく、また、ゲームと物語の幸せな融合を夢見るのでもなく、物語と根本的に対立しつつも物語による動機づけを要請してしまうものとしてゲームをとらえるところにこの観点の新鮮さがある。

とはいえ、いずれにしろ、この対立・不調和は、〈プレイヤー=プレイヤーキャラクタ〉という特定のドグマ(「同一化ドグマ」と呼んどく)を前提すればそうなるってだけで、そういう考えを採用しなければなにも問題ないんじゃないかと思う。ぬるいゲームプレイをしつつ、別腹で、フィクション上のヒーローが世界を救うドラマやら「複雑な過去を抱えたファンタジーチックな長い名前の戯画化されたキャラクタたち」(by Tavinor)のメロドラマやらを傍目から眺めるという受容態度があってもいいだろう。その場合、ぬるいゲームプレイをすると世界が救われなくなる(たんなるゲームオーバーではなく物語の帰結として)みたいなヘビーなゲームデザインは別に求められていない。

もちろん、プレイヤーとプレイヤーキャラクタの同一化およびゲームプレイと物語の一致への要求はあっていいし、その要求に応えようとするゲームデザイン思想もあっていいが、唯一のドグマである必然性はない。無双ゲーで人間離れしたふるまいをしているヒーローはフィクション上の武将であって、ぼんやりボタンを連打するだけのプレイヤーは微塵もヒーローではない。一方、ウメハラが操作するケンは確かに英雄的ないけめん御曹司格闘家かもしれないが、その種のフィクション上の事柄はウメハラのヒーロー性にとってまったく関わりがない。そしてどちらもゲームとしてそれでまったく問題ないだろう。

プレイヤーのすごさ・活躍・成功・勝利・ドラマが、プレイヤーキャラクタのすごさ・活躍・成功・勝利・ドラマとして虚構的に彩り豊かに描写される必要は必ずしもないし、虚構的キャラクタの活躍がプレイヤーの活躍を伴わねばならないわけでもない。フィクション上のヒーローとゲームプレイのヒーローは一致しなくてもいいのである。

まあ言説史的に見れば、ゲームソフトの宣伝文句が「君がhogehogeになって云々」「君の力で云々」みたいなかんじで同一化ドグマ推しだったのはたしかっぽい気がするが、そういうのにわりと心理的距離を感じてた身からすると、別にビデオゲームってそういうもんじゃなくねと思うわけです。ジャンルにもよるけど。あと、日本のビデオゲーム受容文化と欧米のそれとでは同一化ドグマに対するスタンスがだいぶちがうと思う。誰か研究するべき。