画像的再現のサーベイ論文 (1)

John Kulvickiによる画像的再現(pictorial representation)*のサーベイ論文が非常にまとまりがよくてすばらしいので、まとめる。

  • Kulvicki, J. (2006). "Pictorial Representation." Philosophy Compass 1(6): 535-546.

Kulvickiは、いろいろやってるみたいだけど、芸術の哲学の文脈だと、長らくまともなフォロワーがいなかったとされるグッドマンの構造論的な再現理論を発展的に展開させてる人みたいなポジションの人だと思われる。2006年に画像的再現についての本を出している(On Images)。最近出たコンパニオン(The Continuum Companion to Aesthetics)にも画像的再現の記事を書いている。

Kulvickiの構造説がdepictionの議論の中で具体的にどういう反応を引き起こしたりしなかったりしてるのかは調べてないが、少なくとも、depictionについての主要なアプローチのひとつとして見なされているみたい(Stecker 2010やAbell & Bantinaki 2010を見るかぎり)。

とりあえず、記号厨としては、最近の美学の文脈でこういう人がいるのは頼もしい。構造説にかぎらずdepictionの諸々の論点自体面白いし汎用性があると思うので、もうちょっと知られるべき。というか、depictionが専門ですみたいな日本の分析美学者はよ出てくるべき。

そういうわけで、以下Kulvickiのまとめをまとめたものです。〔〕内と注は補足。


要約

画像(pictures)*が世界を再現するしかたを説明するための3つのアプローチをサーベイする。

  • 知覚説(perceptual accounts)
  • 内容説(content accounts)
  • 構造説(structural accounts)*

イントロダクション

地図、音符、記述、図表(diagram)、フローチャート、写真、絵画、版画――これらすべては、事物についての(be about)もの、あるいは、事物を表す(stand for)ものである。画像的再現にかんする哲学的問題は、部分的には、画像的再現と他の種類の再現の相違点と共通点を特徴づけることである*

研究史上の2つの不幸がある。

主に美学・芸術の哲学において扱われてきたおかげで、画像にかんする諸問題のうち特定の部分(芸術作品としての画像にかんする問題)しか取り上げられてこなかった。しかし、画像は芸術作品だけに限定されるものではない。美的なものに焦点をあわせてしまうと、画像的再現と、図表やグラフのような他の種類の再現の関係が目立たなくなる。

主に〈われわれは画像をどのように知覚するのか〉という点のみに焦点があわせられてきた(知覚説)。しかし、なにが画像を特別にしているのかを説明するために、その知覚のありかたの考察から始める必要はない。むしろ、非知覚的な観点をとることで、なにが画像を知覚的に特別なものにしているのかが明らかになることもある。科学哲学や心の哲学にとっても、画像やグラフや図表についての非知覚的な説明はウェルカムなはず。

知覚説

知覚説によれば、画像は、それを知覚するしかたのおかげでその内容を持つという点で、他の再現と区別される。

知覚説についてとりあえず重要なのは、以下の2点:

  • 画像の内容(描かれるもの)は一様でない。それは、場合によっては個物(お気に入りのあの大司教)だが、場合によっては不特定なもの(ある大司教)である。そして、画像は、その内容を特定の諸性質を持ったものとして描く。
  • 画像の表面(surface)が、あるもの(大司教)を描くためには、標準的で適格な知覚者の知覚が、なんらかの重要な点において、そのもの(大司教)の知覚に関係づけられる必要がある。知覚論者の焦点は、画像の知覚がどの点において描かれた対象の知覚と関係しているのかを明らかにすることにある。

これらの知覚的条件は、画像的再現の十分条件であるとは考えられていないが、画像的再現の他の必要条件は、画像的再現の弁別的特徴ではないとされる。

以下、主な論者たち。

ゴンブリッチ(E. Gombrich, Art and Illusion, 1961)

  • 画像は、われわれがそこに描かれている対象を見ているとわれわれに思い込ませる(錯覚させる)もの。
  • したがって、Xを描くためには、Xを知覚しているという印象のもとにわれわれを引き込むことができる表面を作り出さねばならない〔実際には、これは有名な"making and matching"のプロセスを踏む〕。

ウォルハイム(R. Wollheim, Art and its Object, 1980)

  • ゴンブリッチへの反論。
  • 画像を見るとき、われわれは決して錯覚しているわけではない。画像を見るとき、われわれは画像の表面に気づきつつ、同時にそこに描かれているもの〔画像の内容〕に気づいている。 つまり、画像の表面のうちに描かれているものを見る(seeing in)のである〔この特徴は「二重性」(twofoldness)とも呼ばれる〕。

ウォルトン(K. Walton, "Pictures and Make-Believe", 1973; Mimesis as Make-Believe, 1990)

  • 〔ウォルトンによれば、画像もフィクション(特定の内容を想像するごっこゲームのために使われる小道具)の一種とされる。〕
  • 画像は、suitably vividなごっこゲームにおける小道具として働くという点で、知覚的に特別である。たとえば、〈トマトの画像を見ることは、トマトを見ることである〉と想像するごっこゲームにおける小道具としてのトマトの画像。
  • もちろん、われわれは文章を読む場合でも、その文字列を小道具にしてトマトを見ることを想像することはしばしばあるが、その場合、〈その文字列を見ることはトマトを見ることである〉と想像するわけではない*
  • トマトの画像を知覚することとトマトを知覚することのあいだには密接なつながりがある。

最近の知覚説

最近の知覚説は、ゴンブリッチの議論を直接引き継いでいるものがほとんど(錯覚とは言わないものの、画像と画像内容の知覚のしかたがかなり同じであるとする点で)。

F. Schier(Deeper into Pictures, 1986) / D. Lopes(Understanding Pictures, 1996; "The Domain of Depiction", 2006)

  • 画像は認知的リソースを動員するもの。
  • なんであれ、事物の認知(recognition)を可能にするものは、一般的に、その事物の画像の認知もまた可能にする。
  • たとえば、ブルドーザーの画像を見る場合、われわれは、ブルドーザーの認知を可能にするのと同じ知覚的リソースを使って、その画像を認知する。

R. Hopkins(Picture, Image, and Experience, 1998; "The Speaking Image", 2006)

  • 表面と描写対象の(経験された)類似による説明。
  • ある画像の表面が虹を描くのは、われわれがその表面を、特定の点で虹に似ているものとして経験するから。

Schier / Lopesであれば、Hopkinsが言うような類似が経験されるのは、その画像が虹の認知の場合と同じ認知的リソースを動員するからである、と主張するだろう。したがって、Schier / LopesとHopkinsの相違点は、最初に来るのが、画像内容の知識なのか、画像と対象の経験された類似なのか、という点にある〔つまり、画像Pが対象Oと同じ認知リソースを使うからPはOに似ているというふうに経験されるのか、PがOに似ているという経験があるからPはOの画像なのか、のちがい〕。

J. Hyman(The Objective Eye Pt. II)は、歴史的な観点から、この弁証法は近代を通じて画像と知覚の研究にとって根本的であったと論じている。


つづく。

Footnotes

  • Pictorial representationは「depiction」とも呼ばれ、いわゆる分析美学の主要なトピックのひとつになっている。

  • とくに美学が扱ってきたおかげで、その中心的な適用対象が絵画芸術だったということもあるのだろうが、「picture」はしばしば「絵画」と訳される。しかし、ふつう外延的にpictureには写真や版画も含まれるわけだから、「絵画」は端的によろしくない訳語だと思う(「絵画」に対応させるべきは「painting」である)。ただ「画像」という訳語がベストかというとそれもちょっと微妙。とくにKulvickiの場合、pictureには、視覚的なものだけではなく、聴覚的なもの(録音とか)も含まれるから。語源的にはこういうかんじらしいが。

  • 画像的再現へのアプローチの分類はいろいろある。Stecker(2010, 186)は「記号的ないし構造的」な理論と「知覚的ないし経験的」な理論の2つに区分している。Abell & Bantinaki(2010, 2-6)は「構造的」、「現象学的」、「認知的」、「類似ベース」の4つのアプローチに分類している。

  • Depictionを、言語的記述や図表などを含む再現一般の一種としてとらえたうえで、その種差を考えるという方針は、すでにいくらか構造説的なものだと思う。古典的な知覚論者は、そういうことあんまり考えないはず。

  • 小道具が文字列である場合でも、〈ある文字列を見ることは、当のゲームワールド内でその文字列を見ることである〉と想像することはできるが、その場合、文章を読んでいるのではなくて、文章が描かれた画像を見ていることになる(正確には、そのインクのしみとか画面上の光の配列とかを、記述的なフィクションとしてではなく画像的なフィクションとして扱っていることになる)。映画の字幕の文字列と、映像内の(カメラで撮られた)文字列のちがいとか考えるとわかりやすい。

References

  • Abell, C. and K. Bantinaki (eds.) (2010). Philosophical Perspectives on Depiction. Oxford: Oxford University Press.
  • Kulvicki, J. (2006). "Pictorial Representation." Philosophy Compass 1(6): 535-546.
  • Stecker, R. (2010). Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction. 2nd Edition. Lanham: Rowman & Littlefield.