作者の意図と作品の解釈

作者の意図と作品の解釈の関係にかんする以下の論文がサーベイとして優秀だったので内容をまとめておきます。

  • Irvin, Sherri (2006). "Authors, Intentions, and Literary Meaning." Philosophy Compass 1(2): 114-128. [pdf]

分析美学では、文学作品の解釈とはどういうものか(あるいはどうあるべきか)の議論は、ニュークリティシズムの代表者であるWimsatt & Beardsley(1946)による意図主義批判とそれに対する意図主義者Hirsch(1967)からの反論から始まったこともあって、作者の意図と作品の解釈の関係をどう考えるかという論点を中心に展開してきた。

この論文では、この論点に対する諸説が以下のようにまとめられている。

  • 極端な実際的意図主義(Extreme Actual Intentionalism)
  • 穏健な実際的意図主義(Moderate Actual Intentionalism)
  • 慣習主義(Conventionalism)
  • 仮説的意図主義(Hypothetical Intentionalism = HI)
    • 実際の作者の仮説的意図主義(Actual Author HI)
    • 仮定された作者の仮説的意図主義(Postulated Author HI)

著者のIrvin自身は、一番下の「仮定された作者の仮説的意図主義」を好んでいるようだ。他の説を擁護する論者も、おおむね同じような区分をしている(Davies 2006; Stecker 2010)。

ちなみに、このトピックにかんする日本語文献としては、河合大介さんの論文ステッカー『分析美学入門』(第7章)があってとても便利(他にもあるかもしれないけど知らない)。

というわけで、以下Irvinの論文のまとめ。

テキストと作品

ある文学作品にその意味を与えることにかんして作者の意図が果たす役割についての理論と、あるテキスト(=文字列)をひとつの文学作品にする(つまり、文学作品にその同一性を与える)ことにかんして作者の意図が果たす役割についての理論は、それぞれ別個にありうる。

そういうわけで、たとえばLevinson(1992/1996)のように、作者が実際に持つ意味論的意図(semantic intention)はその作品の意味を決めないが、作者が実際に持つカテゴリ的意図(categorial intention)はその作品のジャンルを決める、といった主張もできる*

以下では、作品の同定と作者の意図の関係については扱わない。

意味と解釈

この論文では、作品解釈にまつわる諸議論(批評的一元主義か批評的多元主義か、解釈の目的の多様性をどれだけ許容するか、など)には踏み込まない。この論文は、出発点として以下を仮定する。

  • 作品解釈の少なくともひとつの適切な目的は、関連する証拠と整合的なしかたで作品の意味を突きとめることである。
  • 作品への意味の帰属は、証拠と整合的でないかあるいは証拠を説明できない場合に批判される。

なので、無制約の解釈の戯れによる意味の帰属〔バルト的なやつ〕は扱わない。

極端な実際的意図主義

作者の意図が単純に作品の意味を決定する、とする立場(Hirsch 1967; Irwin 1999)。

極端な実際的意図主義は、作品自体の外部に作品の意味の証拠を求めている(たとえば、作品自体を無視して作者の伝記を調べたりする)という点を難じられてきた(Wimsatt & Beardsley 1946)。しかし、ほんものの実際的意図主義にはこの批判は当たらない。というのも、作品の意味にかかわる作者の意図についてのもっともよい証拠は、その作品自体の中に見い出されるはずであり、それゆえ、作者の意図を突きとめることのうちには、作品を綿密に読むことが含まれているはずだからである。

実際的意図主義にとって問題なのはむしろ以下の二点。

実際的意図主義の問題点①
書き間違いがありえなくなる。

実際的意図主義にしたがえば、「righteous indigestion」〔正当な胃弱〕という言葉は、たんに作者がそのような意味を意図していたという理由だけで、righteous indignation〔正当な憤り〕を意味してしまうことになる。これは明らかに直観に反する。というのも、特定の意味をもった作品を作り出すことは、直観的にいって、失敗可能なことだからである。

実際的意図主義の問題点②
作者の意図がわからない場合に作品の意味へのアクセスが不可能になる。

たとえば、作者の意図がふつうの言語的慣習と一致しないような場合には、注意深い読み手さえもその意図がなんであるかを探ることができなくなり、その結果、作品の意味はアクセス不可能になる。文学作品がふつう公共的な鑑賞のために提示されるものであることを考えれば、注意深い読み手にとってさえも意味がアクセス不可能であるとか、言語的な慣習にもとづいて確信をもって割り当てた意味が(それ以上のなんの手がかりもないにもかかわらず)まちがっていることがありうるとかいう帰結は望ましいものではない。

このふたつめの問題が深刻であるかどうかは、文学作品を公共的なものとして考えるかどうか(つまり、その意味がちゃんとした読者にとって原理的にアクセス可能であるべきものとして文学作品を考えるかどうか)に依存する。

穏健な実際的意図主義

穏健な実際的意図主義(とくにCarroll 2000)は、意味の確定において言語的慣習が果たす役割を認めることによって、極端な実際的意図主義がかかえる問題の多くを回避している。

穏健な実際的意図主義(以下MAI)の主張はおおむね以下。

  • あるひとつの作品に対して、言語的慣習はしばしばひとつ以上の意味を読むことを許容する。
  • 作者の意図がこれら複数の慣習的意味のうちのひとつと一致する場合、作者の意図は作品の意味を決定する。
  • 作者の意図したものが言語的慣習と食い違う場合については、MAIは以下のいずれかの主張を採りうる。
    • MAI1: その不自然な箇所は意味を持たない(meaningless)と考える。
    • MAI2: その箇所は慣習によって示唆されているほうの意味を持つと考える。そして、もしそのような意味が複数ある場合には、多義的であると考える(Stecker 2003)。

MAI1もMAI2もそれぞれ問題を抱えている。

MAI1の問題点
慣習的に明らかに有意味な表現を無意味なものとしてしまう。

たとえば、作者が〈緑〉という意味を意図しつつ「黒」と書いてしまった場合、MAI1にしたがえば、この「黒」は無意味な文字ということになる。

また極端な実際的意図主義の場合と同じく、言語的慣習にもとづいて問題なく適用できるように見える解釈が(なんの証拠もないにもかかわらず)実はまちがっているということがありえてしまう。

MAI2の問題点
ほとんど慣習主義と同じだし、ちがう点もMAI2に利点があるとは言えない。

MAI2によれば、作者の意図した意味が慣習的意味と食い違う場合には慣習的意味が勝つわけなので、慣習主義とMAI2が異なるのは、慣習的意味が複数あり、かつ、作者の意図した意味がそのうちのひとつであるようなケースのみ。

しかし、実際には、慣習的意味の多義性はそんなにないのではないか。理由は以下ふたつ。

  • 文学作品においては、文脈によってほとんどの意味候補が除外される。
  • 言語的慣習(広く共有された関連する背景知識と結びついたもの)はそこそこしっかりした(robust)ものであり、ふつうは顕著(salient)ないしデフォルトの意味を指す。

慣習的意味が多義的であることがなければ、MAI2は慣習主義と変わらない。また、慣習的意味が多義的であるケースがあったとして、それをそのまま作品が多義的であると言っていけない理由がわからない。慣習的意味と作者の意図する意味が食い違う場合にMAI2は意図せざる作品の意味を認めるわけなので、それと同じく多義的な慣習的意味のうちに作者の意図する意味が入っている場合であっても意図せざる作品の多義性を認めてもいいのではないか*

慣習主義

慣習主義は、作者の意味論的意図を考えることなしに作品に意味を割り当てる。この説によれば、作品が意味するものを知るために必要なのは、たんに関連する言語的慣習(および適切な背景知識)のもとに作品を考えることだけである。

言語的慣習を適用してもなお作品に多義性が残る場合には、慣習主義は以下のいずれかを採りうる。

  • 単純にその作品は多義的であるとする。
  • 作者の意図とは別のなにかを持ち出すことで、意味を確定する。たとえば、もっとも美的な価値を作品にもたらす意味を選ぶ(Davies 1982)*

慣習主義の難点は以下のふたつ。

慣習主義の問題点①
作品の意味に関連する言語的慣習をどのように決めるのかが定かではない。

複数の言語的コミュニティで読まれる作品はふつうにありうる。言語的慣習を細分化すれば(たとえば都市や隣近所ごとに言語的慣習が異なると考える)、この問題は深刻になる。

可能な応答のひとつは、関連する慣習は作者が属する言語的コミュニティによって決められるというものである。しかし、作者が複数の言語的コミュニティに属していることはありうる。また、結局のところ、この応答は慣習主義が回避しようとしている作者へのアピールを理論に持ち込むことになる。

仮説的意図主義や穏健な実際的意図主義もまた部分的に言語的慣習に依拠するわけなので、これと同様の問題を抱えることになるが、しかしそれらは、作者へのアピールによって、慣習主義よりも満足のいくしかたでこの問題を扱える。

慣習主義の問題点②
作者に特有の(慣習的でない)言葉づかいを説明できないように見える。

慣習主義は、作品の意味として、言語的慣習によって許されている意味のみを許容するように思われる。しかし、文学作品において、作者が独特の(idiosyncratic)言葉づかいをしつつ、同時にその言葉づかいを解釈するための十分な手がかりをテキスト内で与えることは珍しいことではない。慣習主義がこのようなケースを説明できるかどうかは明らかではない。

そのような独特の言葉づかいはある種の作品の見どころなわけなので、それを説明できないのは文学的意味の理論にとって深刻な問題である。

仮説的意図主義

独特の言葉遣いの問題が示すのは、文学は、言語的慣習に一致したテキストを量産する文ジェネレータによって書かれるものではなく、作者――つまり、特定の社会・歴史的文脈の中にいて、特定の文体で書き、特定の言葉づかいをし、特定の背景知識と経験を持ち込み、互いに影響しあう一群の作品を書いた、特定の人間――によって書かれるものだということである。慣習主義は、この意味での作者を放棄しているように見える。

仮説的意図主義(以下HI)は、実際的意図主義と慣習主義の双方の弱みを回避しつつ、両者の強みを結びつけようと試みる。HIには、実際のところ、以下のふたつの種類がある。

  • 実際の作者の仮説的意図主義(Levinson 1992/1996; Tolhurst 1979)
  • 仮定された作者の仮説的意図主義(Nehamas 1981, 1986, 1987; see also Booth 1961)

実際の作者の仮説的意図主義(以下AAHI)によれば、作品の意味は、注意深くかつ適切な知識を持つ読者が実際の作者に帰属させるであろう仮説的意図によって決まる。

仮定された作者の仮説的意図主義(以下PAHI)によれば、作品の意味は、注意深く適切な知識を持つ読者が仮定された作者に帰属させるであろう仮説的意図によって決まる。この仮定された作者は、多くの点で実際の作者と似ているものの、同時に、完璧な言語能力といった追加の特性も持つものとして想定される。

AAHIとPAHIが共有する特徴は以下。

  • 作者の実際の意図ではなく、適格な読者がおこなう作者の意図の帰属によって、作品の意味が決まる。
  • 作品は、関連する言語的慣習と背景知識のもとで考えられなければならない。
  • ある作品にかんする作者の意図についての仮説を作るとき、その作者の他の作品や、作品についての公的な発言を顧慮するのは適切である(それらの発言の中に作者の意図についての言明があったとしても、必ずしもそれが帰属される意図を決定するわけではない)。作者にかんする公的に利用可能な伝記的情報もまた顧慮してよい。

AAHIとPAHIには以下のような相違点がある。

AAHIのポイントは、公的に利用可能な関連する証拠をもとにして、特定の特性集合を持った歴史上の実在の人物が特定の文脈においてその文学テキストを生み出す際におそらく意図していたであろうことについての仮説を作るという点にある。

一方、PAHIは、歴史上の実在の人物の意図についての仮説を作るのではなく、その意図が作品の諸特徴を可能なかぎり完全に説明できるような理想化された作者を構築することを目指す。この理想化された作者は、完璧な言語能力をもち、自身の作品が持つあらゆる意味のポテンシャルや、他の作品や歴史的出来事等々との関係を把握している。

PAHIは、可能なかぎり、この仮定された作者の行為者性の観点から作品のすべての特徴を説明する(偶発的な出来事や作者の誤りなどの観点では説明しない)。その点で、PAHIは文学作品をよりすみずみまで鑑賞することを可能にする理論だと言えるかもしれない。つまり、実際の作者の意図からすれば純粋に偶発的であったかもしれない諸特徴を理解し、それに意味を与えることができるのである。

HIは、実際的意図主義が陥っていた問題――つまり作者の実際の意図が(認識論的に)利用不可能であった場合に作品の意味が公共性を失ってしまうという問題――を回避している。というのも、適格な読者による作者の意図についての最良の仮説は、原理的に利用可能だからである。HIはまた、作品が非慣習的な意味を持つことを許容できないという慣習主義の問題も回避している。

実際的意図主義からの反論①
文学作品が公共性を持つという仮定には説得力がない。

実際的意図主義者(Carroll 1992)は、文学作品の鑑賞を日常的な会話とかなり似通ったものとして考える〔ので、このような主張になる。Irvinは、この反論①に対する応答をしていないように見える〕。

実際的意図主義からの反論②
実際的意図と仮説的意図が異なる場合に、仮説的意図をとるべき理由がない。

とくに、作品の諸特徴を作り出すことにおいて、仮説的意図はいかなる因果的役割も果たさないということを考えれば、これは問題だろう。仮説的意図は、作品の特徴を説明するのに役立たない(Carroll 2000)。

しかし、PAHIは、作品の特徴についての因果的説明というよりむしろ、規範的説明を与えることを明らかに目的としているので、この種の批判は当たらない。

慣習主義からの反論
PAHIは洗練された慣習主義に他ならないのでは。

好意的に解釈された慣習主義は、作者の個人史や他の作品が、どの言語的慣習が関連あるものであるかに影響し、それゆえまた作品の意味に影響することを認めるかもしれない。初期の慣習主義は、作者への参照をすべて排除していたが、洗練された慣習主義は必ずしもそうではない。

この主張は正しいかもしれないが、しかしPAHIの批判にほとんどなっていない。PAHIは、文学作品が作者によって作られるという事実に、適切なしかたで注意を向かわせるものである。PAHIは、さらにすすんで、最大限の能力を持った作者がきっと意図したであろうあらゆる意味性質を持つものとして作品を鑑賞することを可能にする。この発想は、文学作品は、それがいったん発表されたあとは、それを作った歴史的個人の精神によって負わせられた限界を超えうる自律的な実体になる、と考える人にとっては魅力的だろう。

Footnotes

  • Steckerは、Levinsonの「categorial intention」に相当するものを「constitutive intention」と呼んでいる(Stecker 2010: 148; 邦訳: 233-4)。作者の意図が作品がどのカテゴリに属するかにかかわり、その結果として作品が持つ性質を少なくとも部分的に構成する、という考えは多くの論者の認めるところである。Dutton(1987)もおおむね同じようなことを言っているし、Walton(1970)もカテゴリを決める条件のひとつとして挙げている。

  • この論文での実際的意図主義の扱いはやや雑なかんじがする。実際的意図主義者側の主張(e.g. Stecker)も読んだほうがいいかも。

  • 慣習主義のこのバージョンは「価値最大化説」(value-maximizing theory)と呼ばれる。Davies(2006)は、仮説的意図主義もまた、価値最大化説に還元されると主張している。

References

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