映像のリアリズムについて

最近ちょっと読んだジョン・カルヴィッキの『Images』(2014)の紹介も含めて、映像のリアリズム(写実性)についての話をいくつか。

佐々木友輔さんによる以下の記事を面白く読んだ。

とりわけ、以下の主張はまったくその通りだと思う。

すなわち、映画における物語世界への深い没入は、あるメディア経験が慣習化・透明化することによってこそ可能になるのであり、技術の発展によって登場する新たなメディアがもたらす映像の質感は、物語世界への没入よりもむしろ、そのメディア自体の特殊性や偏向性への関心を強く引き起こすのだ、と。「まるでテレビ映像のよう」だという言葉が象徴するように、『ホビット』をめぐる言説が--自覚的なひとであれ無自覚的なひとであれ--メディア論的な方向に流れていくのには、このような背景があるのではないでしょうか。

適切だなあと思ったのは、「物語世界への深い没入は、あるメディア経験が慣習化・透明化することによってこそ可能」というところ。

つまり、媒体の透明性は没入経験ないし「リアリティ」の必要条件であり、それゆえ媒体の不透明性は没入を破壊するのに十分だが、逆に媒体の透明性はそれのみでは没入を生むとはかぎらない(つまり十分条件とは言えない)という考えが、「可能」という言いかたで適切に表されているところだ。

これはあたりまえといえばあたりまえな話だが、実際のところ「慣習化」とか「自動性」とか「透明性」とか「後景化」とかそういう用語のみで画像や映像のリアリズムを特徴づけようとする論者も少なくない。

たとえば、ネルソン・グッドマンの悪名高い主張は以下の通り。

簡単に言えば、写実的な表象は、模倣(imitation)や錯覚(illusion)や情報〔の量〕(information)に依存するのではなく、〔慣習的な〕植えつけ(inculcation)に依存するのである。

Goodman, Languages of Art, 2nd ed., 1976: 38.

おそらく、グッドマンの批判者たちが主張してきたように、リアリズムを慣習の観点からのみ説明するのは無理があるし、直観にも反する。

つい最近出たジョン・カルヴィッキの画像的表象についての本では、写実性の議論にひとつの章が割かれている(John Kulvicki, Images, 2014: ch.6)。

カルヴィッキがまとめるところによると、画像的表象の写実性の判断には、以下の3つの基準がある。

  • 内容の写実性(content realism)
  • 描きかたの写実性(manner realism)
  • 種類の写実性(kind realism)

内容の写実性は、その画像がその内容としての情報量をどれだけ豊富に持っているか(informativeness)の基準だとされる。カルヴィッキが言うように、情報量の豊かさはそれ単独で画像的表象の写実性を特徴づけるものではないだろう。それはふつう描きかたと組み合わせられることで、写実性に寄与する(ibid: 115-116, 119)。

描きかたの写実性は、その画像がどれだけ正確に描写対象を描いているか(accuracy)の基準だとされる。これはごく常識的な基準のように見えるが、いくつかの限定が伴う。カルヴィッキによれば、

写実性の判断は、その対象に対するその人の理解(conception)のなかで、その対象がかくかくの性質を持つものとして知覚されうると考えられているところの、その諸性質についてなされる。

Kulvicki, "Pictorial Realism as Verity," 2006: 346, quot. Kulvicki, Images, 2014: 120.

つまり、第一に、正確性の判断が直接に参照するのは、その対象が実際に持つ性質ではなく、あくまでその対象が持つものとして判断者が理解している性質であるということ、第二に、その性質は知覚的なものに限られるということである。こういう面倒な限定がつくひとつの理由は、見たことのないものや虚構的対象についての写実性の判断を説明するためだろう。

この基準にかんしては、さらに、その画像の目的によって規定される情報の関連性(relevance)が写実性の判断にどれだけかかわるかについての議論もある(ibid: 121-123)。

種類の写実性は、その画像が画像的表象一般の「典型」(exemplar)にどれだけ即しているかどうか、言い換えれば、その画像が、われわれが慣れ親しんでいる「表象システム」にどれだけ即しているかという基準である。上述のグッドマンの主張などはこれに相当する。

ある画像が写実的であるかどうかの判断は、これらの基準の組み合わせにもとづいてなされるが、カルヴィッキが言うように、実際には、これらの基準は協働することもあれば、「トレードオフ」の関係になることもある。たとえば、色がちょっとおかしい(それゆえ正確さが低い)絵について、その色を統語論的に無視することで(つまり情報量を犠牲にすることで)正確な絵として見ることが可能である。カルヴィッキは、これらの写実性のあいだのトレードオフの関係は、画像的表象に特徴的なものであり、「画像の写実性が面白いトピックである理由のひとつ」であるとしている(ibid: 129)。

カルヴィッキの議論は絵も写真も含めた画像一般についてのものだが、写真や映画のような実写的な媒体に話を限定したときに、どういう応用ができるのか、あるいはできないのか、というのは気になるところだ。たとえば、佐々木さんも言及する「VFX臭」や「CG臭」といった判断の基準は、上述の三つの基準のうちに含まれるのかどうか。

ひとつのありうる答えは、そのような判断はVFXやCGが真実を伝えていない(つまり嘘をついている)という判断に他ならない、というものだろう。われわれはふつう、実写表現から、絵と同種の表象作用による内容だけでなく、現実の被写体および撮影状況についての情報もまた得る。そして、VFXやCGはその情報を十分に伝えていないか、あるいはゆがめて伝えていると判断される、というわけだ。

たしかに、たとえば「フォトショ詐欺」や「自撮り詐欺」という語が否定的な意味で使われる場合、明らかにそこで非難されているのは事実を正しく伝えていないという点である(その意味で、これはジャーナリズムやドキュメンタリーに要求される基準に近い)。この基準は、上に述べた意味でのリアリズムの基準ではない。というのも、それは「本当らしいかどうか」(realistic or not)の基準ではなく「本当かどうか」(true or not)の基準だからだ。

しかし、VFX臭やCG臭の判断は、これとは別種のものだという感覚がある。それはやはり「嘘だ」という判断ではなく「嘘くさい」という判断のように感じる。同時に、それは情報量や正確さという基準での判断でもないように感じる。

おそらく、この感覚を穏当に説明すれば、「VFX臭い」という判断は、当の作品が、それが属しているカテゴリ(実写映画)の典型にどれだけ即しているかという基準にもとづく判断である、ということになるだろう。つまり、カルヴィッキが挙げる「種類の写実性」の基準による判断である。VFX感やCG感を醸し出している映画は、標準的あるいは伝統的な実写映画の典型として見た場合に、「それっぽくなさ」という意味でのunrealisticな臭みを放つというわけである。

とはいえ、実写映画の典型に即しているかどうかという基準の内実がどのようなものかを考え出すと、またよくわからなくなってくる。そこに「種類の写実性」による説明のずるさがある。結局それは、「どのような点でその表現は写実的なものと見なされるのか」という問題を、「どのような点でその表現はそれが属する写実的なカテゴリの典型と見なされるのか」という問題にすりかえるだけであって、その「典型」の内実の説明をさらに必要とする。

種類の写実性の基準の内実を探ることは、一種の批判的効果をもたらす。それは透明だったものを不透明化することだからだ。そういうわけで、種類の写実性の基準に反しつつも他の写実性の基準を満たすような表現(たとえばVFX臭いが正確かつ情報量がある)や、あるカテゴリにその種類の写実性とは別の種類の写実性を持ち込む表現(たとえば実写映画だがドキュメンタリーっぽさやテレビ番組っぽさがある)は、そのよくわからない違和感によって、種類の写実性の内実についての反省を促すものとして機能するのかもしれない。その意味で、「すごくリアルなVFX」やフェイクドキュメンタリーは、透明化した慣習に対する批判的な機能を持ちうるのかもしれない。

画像の写実性や描写の哲学一般については以下が勉強になります。