ゲームと規範

Mar 29, 2014|ゲーム研究

An English version of this post is here.

@hambalekさんがとても納得できる話を明快にツイートされていたのでまとめた。

ざっくり言えば、アナログゲームのプレイが一般に規範を伴う一方で、ビデオゲームのプレイは一般に規範を伴わない(縛りプレイや対戦での決めごとなどを別にすれば)ということだろう。

ビデオゲームは、あくまで「できること/できないこと」*を作り出しているだけあって、そこに「していいこと/してはいけないこと」のレベルはない。

これは、ビデオゲームを記述するのに「ルール」という言葉がなじまないというたまに見かける主張*にもつながるもので、とても同意できる。

さて、この話から見えてくるのは、規範はゲームのプレイにとって本質的ではないということだ。

法哲学のH. L. A. ハートや言語行為論・社会の哲学のJ. サールのように、規範的事態の典型としてゲームを持ち出す議論は多い。中山康雄『規範とゲーム』などはタイトルそのまんまだ。

しかし、ビデオゲームのプレイに規範が必要ないように思われる以上、規範はゲームのプレイに内在的なものとは言えない。

ゲームと規範の関係は以下のようなものだろう。

  • ゲームのプレイはあくまで「できること/できないこと」のレベルでおこなわれる。
  • アナログゲームは、そのゲーム内部での「できること/できないこと」を実現するために、ゲーム外部における「していいこと/してはいけないこと」という規範を必要とする*
  • ビデオゲームは「できること/できないこと」を物理的に実現できるので、ゲーム外部の規範をそもそも必要としない。

もちろん、規範やルールによる事態の構成や統制といった側面がアナログゲームやスポーツによく見られるものであることはたしかだ。そのかぎりで、その側面を持つほかの物事を説明するために典型としてゲームを持ち出すことに問題はない。しかし、その側面はゲームの本質ではない。

ホイジンガやカイヨワもゲームがある種の規範性を持つことを強調しているが、それはアナログゲームしか知らなかったからだとも言える。

とはいえ、ビデオゲームのプレイにまったく規範が必要ないかといえばそうでもないような気がする。

ビデオゲームにおいても、目標の受け入れは(メカニクス側ではなく)プレイヤー側に属する。いかにメカニクスが「姫を助けろ」「魔王を倒せ」と言ったところで、プレイヤーがそれを目的として受け入れないかぎりはゲームのプレイは成立しない。

この側面を「規範」と呼ぶべきかどうかは微妙だが、少なくともそれが「できること/できないこと」のレベルでないことは明らかだ。ビデオゲームのメカニクスが物理的に実現するのは、入力可能性と因果の系列だけであって、それがある目的に対する手段の系列に変わるためには、プレイヤーが目的を受け入れる必要がある。

もちろん、ストーリーのドラマ性やキャラクタへの心情的な執着などを利用して、特定の目標を自然に受け入れるようプレイヤーを仕向けることはできるし、多くのビデオゲーム作品はそれを意図しているだろう。

このように目的の受け入れに合理性を持たせるためにストーリーやキャラクタを使うというのも、アナログゲームよりもビデオゲームに特徴的なことだと言えるかもしれない(なぜそうなったかは媒体の問題というより歴史的な事情だろうと思うが)。

Footnotes

  • hambalekさんは「デジタルゲームの括弧書きの(やれないこと)はそもそも存在しない行為である」と書いているが、この点は半分同意しつつ半分同意しない。プレイヤーがなんらかの「やれること」を期待しているかぎりで「(やれると思ってたのが)やれない」という事態は生じうる。この期待は、表象内容やジャンルの慣習によってもたらされる。たとえば、ドアが描かれていれば「それは開けられるものだ」という期待をもたらすし、JRPGで宝箱があれば「それは開けられるものだ」という期待をもたらすだろう。そして、その期待が裏切られた場合、プレイヤーは「できなさ」を感じる。

  • たとえば、アダムス&ドーマンズのゲームデザイン本を参照。とはいえ、これはたんに言葉づかいの問題であって、ビデオゲームのメカニクスを「ルール」と呼んで悪いわけではない。むしろ、アナログゲームとビデオゲームを同じ枠組みで考えるために「ルール」という言葉をつかうという選択もあるだろう(たとえばイェスパー・ユール)。いずれにせよ重要なのは「ルール」という言葉を明確に定義したうえでつかうことだ。

    以下も関連する話。

  • これにもとづけば、ゲーム参加の態度(lusory attitude)とは、「していいこと/してはいけないこと」を「できること/できないこと」に恣意的に変換する態度だと言えるかもしれない。