『なぜ人はゲームにハマるのか』について

感想と指摘です。

200ページ弱のうちの3分の1くらいは画像と名作ゲームの紹介なので、実質的な分量は少ない。文字たくさんの文章がつらい向きには読みやすい本かもしれない。

想定読者層のひとつとしてゲーム研究者を挙げているが、先行研究をちゃんと紹介したりそれとの接続を試みたりというかんじではないので、研究書とは言いづらい。

おおまかな内容は以下の書評によくまとめられている。

面白かったのは10章。難易度バランスのとりかたのバリエーションを「効率予測」という概念をキーにして説明しているところ。「効率予測」は「高リスク短時間と低リスク長時間のあいだの最適解を、プレイヤー自身のスキルレベルに応じて判断する」ことであるとされる。11章では、この「効率予測」を「喚起するデザイン」が「ルド」と呼ばれ、ゲーム性の本質とされる。実際の個々のゲームの内部では、複数の「ルド」が組み合わさって全体の構造を形づくっているとされる。

個人的には、「最適な挑戦」がゲーム性の本質であることには同意だが、それを「効率予測」という概念で説明することには同意しない。難易度の調節が部分的にプレイヤーに委ねられているという発想はよくわかるが、その調節の内実は「最も効率的に達成しうるプレイ手法を選択」することではない。むしろ、自身の能力をもっとも気持ちよく働かせられるようなプレイが選択される(目指される)と言ったほうがいいのではないか*。もちろん「もっとも効率的に目標を達成する」こと自体が気持ちいい場合もあるかもしれないが、それはたんにひとつの特殊ケースだろう。

12章では、「物語として機能する要素の最小単位」として「ナレーム」という概念が定義される。正直、この概念を導入するメリットがわからない。「ナレーム」概念によって説明されている事柄は、たんに表象内容がゲームルールの理解に寄与するというぐらいの話なので、「表象」(representation)とか、それで外延が広すぎるなら「虚構的表象」とかいう概念で説明すれば済む話だと思う*


以下、文献紹介などに関してそれはちがうやろ系の細かい指摘をしておきます。自分の専門に近いところだと、いちおうお仕事としてやらなきゃいけないので(もちろん私の指摘が正しいとはかぎらないので、引用元を確認されることをおすすめ)。

1章 ゲームの定義

Jesper Juulのゲームの定義の6項目のうちの2つめを「2. 変数、定量化可能な結果」と紹介しているが(p.8)、この「variable」は形容詞で、「可変的かつ量化可能な結果」の意味。つまりゲームは「different possible outcomes」を持つということ。

「3. 結果内容に準じた価値設定が可能」の内容が意味不明。Juulが言っているのは、それぞれの結果が価値の点で差異化されているということ。わかりやすく言えば、可変的な結果のそれぞれに対して「勝ち」とか「負け」が割り当てられているということ。

5つめの「ゲームの勝敗にプレイヤーが感情的につながりを覚えること」は、まちがいではないが誤解を生みかねない。プレイヤーがゲームの結果に感情的な執着(attachment)を持つという話。

「6. 交渉可能な結果」の内容もまちがいではないが、原文にイタリックで「optionally」とあるように、ゲームの結果と現実生活上の帰結の関係が任意であるという点を強調したほうがいい。これは、ゲームないし遊びが現実生活の利害関心から分離しているというよくある考えを拾う概念なので*

3章 ゲーム記号学

「指標記号」(index)についての説明「時計、風見鶏が示す風の方向、何かを指し示している手など、具体的な事象を指し示す記号群」が決定的にまちがっている(p.50)。パースの「icon / index / symbol」は記号と対象の関係のしかたについての分類だが、インデックスは、記号と対象が現実的な関係(典型的なのは結果と原因の関係)で結ばれているものであって、指示対象が具体的事象とかいう話ではない。風見鶏が風の向きを示す、煙が火を示す、病気の徴候が病気を示すなど*

12章 ナラティブとナレーム

気になるところは山ほどあるが、とくに気になったところだけ。

「ジュネットをはじめとした物語論研究者は、ナラティブは、ストーリーと物語言説で構成されるとしました」(p.153)とあるが、ジュネットは「ナラティブnarratif」という語はテクニカルタームとしては使わない。日本語訳の「物語」にあたるのはだいたい「récit」だが、これは早々に物語言説を指す語として固定される。「ナラティブ」を「語りnarration」として取ってもおかしい。語り(物語行為ないし物語状況)は物語言説と物語内容を含むが、それらのみで構成されるわけではない。

「物語言説とは、『ストーリーを語る技法』とされています」(p.153)。されていない。「技法」ではなく言表自体(文学ならばテキスト自体)のことである。

「シーモア・チャットマンは、〔…〕『言説』を『transmission』に置き換えました。すなわち物語伝達と表現したのです」(p.155)。していない。原文は以下。

Narrative discourse[...] divides into two subcomponents, the narrative form itself--the structure of narrative transmission--and its manifestation--its appearance in a specific materializing medium[...].

というように、物語言説を形式とその物質的現れ(媒体)にばらしているところ(このあとイェルムスレウの形式/実質の話になる)。強調点は、明らかに物語「形式」とか物語伝達の「構造」にあるのであって、「transmission」にはない。というか、「discourse / story」は一貫してチャットマンの中心的な用語。

結局、「ナラティブ」という言葉の定義ないし特徴づけがまったくない。物語論のところまでは、いちおう「narration」の同義語として一貫して読めなくはないが(でそれはふつうの用語法だが)、p.156以降、明らかに意味がずれている。

Juulの時間論について「物語世界での時間と現実時間との比較に加えて、プレイ時間なども考察の対象になると指摘」(p.162)とあるが、Juulの理論は「虚構時間」と「プレイ時間」の二層モデルであり、「プレイ時間」がプレイヤーが実際にプレイに費やす現実の時間である*。Juulは、これに加えて、時間の主観的経験の話をわずかにしているが、それは「現実時間」とも「プレイ時間」とも呼ばれない。

「ウィットマンはナレームを『表面的な構造を有する全ての物語的に機能する最小単位』〔…〕だと定義しました」(p.164)とあるが、原文は以下のとおり(Wittmann 1974)。

Let us call "narreme" (following Dorfman 1969) any minimal narratively functioning unit having the superficial structure (S0, ..., Sn) where S stands for "sentence" linked to other sentences in a relationship which cannot be ungrammatical as to logical form; and let us call "narrative" any string of narremes with a preceding narreme always being the effective cause of the following one.

というわけで関係副詞で限定がかかっている。これを読むかぎり、「ナレーム」は、互いに結びついた文の集合からなる表面的構造を持つ機能単位であり、また「物語」は前後する「ナレーム」が因果的に結びついた全体として定義されている。つまり、いずれもこの本における「ナレーム」や「ナラティブ」よりもはるかに限定された概念。

人文学徒としてとりあえず言いたいのは、オリジナリティあふれるしかたで自前の概念を定義するのはまったく自由だけども、「この概念はこれこれの人がしかじかに定義しました」と言って元の定義を都合のいいように曲げて提示するのは学問的に誠実な態度ではないということ。

13章 アーキテクチャ

異なる「アーキテクチャ」概念が並べられて論じられている。情報社会学系の「アーキテクチャ」概念はビデオゲームが(アナログゲームとちがって)ルールの内面化を必要としないとかいう話につながるもの。「ビジネスアーキテクチャ」の議論は産業的構造が文化に影響を与えるという一般的な話。「プラットフォームアーキテクチャ」の議論は媒体や技術によってコンテンツが規定されるというメディア論的な話。結びつけてもいいけども、概念としては互いにまったく関係ないことははっきりさせとくべきだと思う。

誤表記

  • p.49. 「Peirce」の綴りが軒並みまちがってる。
  • p.164. 「クリスチャン・メルツ」→「クリスチャン・メッツ」。

Footnotes

  • ゲーム性についての私の考えは以下。
    » 「行為のデザインとしてのゲーム」

  • ついでに言うと、一般に「物語」という概念が理論的につかわれるときの焦点(その概念で拾いたい側面)は、おおむね以下のいずれかだろうと思う。

    ① (無時間的な対象・人物・状態の表象ではなく)出来事連鎖の表象
    ② その出来事連鎖が(たんなる羅列ではなく)一貫性を持つ(少なくともそう期待されている)こと
    語り手による語り

    逆に言えば、これらとは別の事柄を拾いたいのであれば、「物語」概念をつかう意味がない。むしろ、概念的な負荷を背負わないために別の言葉をつかったほうがいい。たとえば、たんに「フィクション上の対象を表すもの」という程度のことを指したいのであれば、「記号」とか「表象」とか「フィクション」とか言っておけばいいと思う。JuulがHalf-Realでとった戦略はこれ。彼はゲームに「物語」概念を適用することに対してはひどくアンチだが、ビデオゲームにおける表象的側面を拾うために「フィクション」概念を導入している。

  • 定義の話ついでに言っておくと、一般に既存の概念の定義をするしかたは、少なくとも、①われわれがその概念をどのような意味でつかっているのかを明らかにすること(概念分析)と、②理論的な目的にとって有用であるよう再定義すること(解明的/理論的定義)の二種類がある。Juulの「ゲーム」の定義や井上さんの「ゲーム性」概念の分析は明らかに①だが、「業界人の『ゲーム性』談義」のリスト(p.15)で挙げられているのは明らかに②だろう(Salen & Zimmermanの定義はどっちを意図したものかわからないが、①だとすればクオリティが低い)。というわけで、①と②をいっしょくたにして「定義は多様ですね」というのはあまり適切な論じかたではない。これは「ゲーム」や「ゲーム性」だけではなく「ナラティブ」などにも言える話。

  • あんまり関係ないが、ある意味で、ビデオゲームのメカニクスの状態を示す記号の大部分はインデックス的性格を持つのではないかとぼんやり思っている。画面上の変化はメカニクスの状態の変化の結果であり、かつ前者から後者を知るわけなので。

  • 二層では足りないだろうというモチベーションのもとにしたのが以下の発表。
    » 松永伸司「ビデオゲームにおける時間」