定義と記述をごっちゃにする
Jun 17, 2014|雑記
定義と記述はちがう。「人間とは理性的な動物のことである」は定義だが、「人間は遊ぶ」は定義ではなく記述である。「トマトは赤い」や「梅干しはすっぱい」も記述である。定義はその概念の適用条件を示し適用対象を確定するが、記述は当の対象がしかじかの性質を持つということを述べているだけである。
両者がごっちゃにされることはままある。以下のようなケースを考えよう。
AさんとBさんは、ある言葉(とりあえず「テクスト」にしておく)の定義「テクストとはPのことである」と、「テクスト」の適用対象(Pであるものの集合)を共有している。
あるときAさんは「テクストはFだ」という記述をした。Aさんのこの記述は有名になった。Aさんの話を聞いて感銘を受けたCさんは、Aさんの記述を「テクストとはFのことである」という定義として解釈した。
あるときBさんが「テクストはGだ」という記述をした。それを聞いたCさんは、この記述を「テクストとはFのことである」という定義のもとに解釈し、「テクストはそもそも定義上Gではない」と反論した。
さて、仮にFとGが対立する記述であったとしてもAさんとBさんは議論ができるが、BさんとCさんは話がかみあわない。AさんとBさんは同じPであるものについて語っているが、CさんはFであるものという別のものについて語っているからだ。Cさんは定義と記述をごっちゃにしており、結果としてBさんの言っていることを(そしてAさんの言っていることも)誤解している。
もちろん、たとえばDさんがAさんの記述を前提したうえで、その記述を明示的にではなく暗に響かせるかたちで自身の記述を示しているとき、Dさんの記述からその背後にあるAさんの記述の含みを聞きとることはだいじなのだが、その場合でも定義と記述のちがいははっきりあるだろう。
いずれにしろ、記述を共有しなくても話はできるが、定義(あるいは少なくともその概念の適用対象)を共有しないと話にならない。つまり、われわれはなにかについてなにごとかを述べるわけだが、その「なにごとを述べるか」のところではなく「なにについてか」のところですでに理解がずれている場合にはまともに話ができない。
こういうケースは、外国語がカタカナ語に訳される場合に起きやすいかもしれない。カタカナになるとなにか特殊な術語のように見え、もとの文脈ではたんにひとつの記述であったものが定義に見えてしまうということかもしれない。「ディスクール」とかしばしばそういうかんじだろうし、「ナラティブ」もそういう側面がいくらかあると思う。