時の試練とスノビズム

いわゆる時の試練(the test of time)と美的判断の関係をどう考えるかというのが長らく懸案だったのだが、ぐぐってたまたまひっかかったなんかの事典の「美的価値」の項目を眺めてたらいい考えがひらめいた気がするのでメモっておく(すでに誰かが同じようなことを言ってるかどうかはしらない)。

読んでたのはこれ。

  • Levno Plato & Aaron Meskin. "Aesthetic Value." Unedited draft of entry on Aesthetic Value forthcoming in Encylopedia of Quality of Life Research (Springer 2013). [doc]

以下の内容には直接関係ないが、とてもわかりやすくていい文章。

時の試練は、美的価値の高い作品は時代を超えて高評価されるよねという直観を拾う概念で、ヒュームが言ってるのが有名。「古典」と呼ばれる作品の価値を説明するのに好都合かもしれない。

この概念がうざいなあと思ってたのは、以下のような議論でスノッブを正当化してしまうように思えるからだ*

  • (a) 美的価値が相対的に高い作品を称賛する人はすべて相対的に趣味がよい。
  • (b) 時の試練を経た作品はすべて美的価値が相対的に高い。
  • (c) したがって、時の試練を経た作品を称賛する人はすべて相対的に趣味がよい。

これだと、自分で判断はしないが名作とか古典とか呼ばれてるものをとりあえず称賛しとくみたいな人も趣味がよいことになる。〈趣味がよい=適切な(あるいは説得的な)美的判断をする能力を持つ〉と考えたい私にとって、美的判断をしてないのに趣味がよいケースがありえてしまうのは不都合である。たんに美的判断のふりをしているだけのスノッブがセンスがいいとは言えない。

(b)は否定しがたい。時の試練の概念が拾う直観は擁護すべきものであるように思える。それなしには古典とか名作という概念をどう特徴づけていいかわからないし*、美的判断の普遍性もあやしくなるからだ。

なのでスノッブ的判断を排除するかたちで(a)を限定したいのだが、このレベルで正当な美的判断者とスノッブを区別するのは難しい。ひとつの戦略は内的基準を持ち出すことだが、これでは判別がつかないという議論がある。スノッブは自分が美的判断をしていないことを自覚してないかもしれないからだ。以下参照。

というわけで懸案だったのだが、(a)を以下のようにすればいいのではないかというのを思いついた。

  • (a') 〈その評価の時点で時の試練を経ておらず(あるいは時の試練を経ていることを評価者が知らず)かつ美的価値が相対的に高い作品〉を称賛する人はすべて相対的に趣味がよい。*

これで、古典をほめることで趣味を誇ることがまったく正当化されなくなる。

この変更の副作用はいくつかある。第一に、古典作品を評価することは(少なくともこの観点だけでは)仮にそれが正当な美的判断であったとしても趣味のよさを示すことにとっていかなる材料も与えなくなる。これはまあいいんじゃないかなと思う。センスをうんぬんするなら評価の定まっていないところでつねに勝負するべきという帰結にはわりと同意できる。

第二に、仮に時の試練以外に作品が持つ美的価値の客観的な判断材料がないとすると、趣味のよしあしは当の評価の時点ではわからないということになる。この前件を否定するのはけっこうたいへんかもしれない。とはいえ、シブリーのラインでいけば、自分の美的判断を他人に説得すること(広義の批評)がどれだけ成功するかが当の美的判断の正しさの(したがってその対象の美的価値の)材料にはなるかもしれない*

個人的には、この前件を認めてもいいかなと思う。つまり、美的価値が定まっていないある対象についての判断はその時点では正誤がいえないが、その対象が時の試練を経るかどうかによって正誤が定まるということである。作品だけではなく、趣味もまた時の試練にさらされるということだ。

のちに評価されることになる当時無名の作家を評価した人が、事後的に「目が肥えてる」とされるのはようするにそういうことだろう。これは、サブカル的中二病者が言いがちな「評価されるまえからよさがわかってた」系の発話が持つ趣味の誇示力(もしあれば)を説明するという点でも利点がある*

(a')の基準は、ある判断がスノッブ的な判断であることをはっきりさせることはない。一方でそれは、ある判断がスノッブ的判断でないことをはっきりさせるかもしれない。現時点で評価の定まっていない作品を評価し、かつその評価のおかげで自身の趣味が時の試練にさらされることを引き受けているかぎりにおいて、その人はスノッブではなく正当な美的判断者であると言えるかもしれない。

まあただ指摘しておくべきは、実際のところセンス競争はしばしばスノッブ的態度から入るものだということだ。また、純粋に主観的な美的判断をしてるつもりでも実際はつねに既存の評価に左右されているかもしれない。つまり、正当な美的判断者とはある種の理念であって、実際にはみな多かれ少なかれスノッブなのかもしれない*

ついでに言うと、センス競争は倫理的には悪かもなあとはしばしば思う。いうてもディスタンクシオンの手段なわけなので。なので、せいぜい当のゲームの参加者だけの問題に留めるべきだと思う。

以下のなんか熱い記事もどうぞ。

Footnotes

  • ちなみに、この記事で「スノッブ」と呼んでるのは、自分で美的判断をしないが古典作品を称賛することを通して自身の趣味のよさを示そうとするような人(いわばセンス競争におけるチーター)のことであって、たんに古典作品のほうが個人的な好みにあうとか、美的・非美的な教養のために古典作品に触れたいとかいう人のことは念頭においてない。後者の人は、たぶん美的判断の正誤を議論するとかセンスのよしあしを戦わせるとかいうことにあまり関心がないはずなので。

  • 「古典」概念には、たんに当該ジャンルの「起源である」とか「典型である」とか「範例である」とかに加えて「普遍的価値を持つ」みたいのが含まれてると思う。

  • ()内は以下の指摘による追記。 https://twitter.com/shinimai/status/542513396831117313

  • あとは、「趣味がいい人が称賛するものはすべて美的価値が高い」とする転倒した基準もありえるかもしれない。これは直観にそこそこ合致する側面もあるが、明らかにスノビズムの温床なので認めたくない。

  • 「売れるまえのほうがよかった」系はとくに説明しない。たぶんそれは(発話者の意図はどうあれ)そもそも趣味のよさを示す発話でもない。

  • とはいえ、理念を持つ人と開き直る人の区別ははっきりある。開き直りは、チートを超えてゲーム自体をぶちこわしにするスポイルスポートなので、センス競争から締め出すべきである。