ゲームはフィクションではない

ゲームをフィクションないしメイクビリーブといっしょくたにするなという話です。主張の内容は以下のとおり。

  • フィクションとゲームは、そのなかでの事柄が現実の利害関心から分離しているという点で似ている。
  • フィクションとゲームは、そのなかでの事柄が、想像されるものであるか、制度的に構成されるものであるか、という点でちがう。
  • 現実的利害からの分離という特徴を指すのに「フィクション」という語をつかうのは、議論の整理という観点からいって致命的にまずい。

ケンダル・ウォルトンの『In Other Shoes』(2015)のKindle版が出てたので、とりあえず5章の「"It's Only a Game!": Sports as Fiction」だけ読んだ。

ウォルトンは、スポーツに代表される競争的なゲームを観戦することが、演劇のようなフィクションを鑑賞することと同じくメイクビリーブの側面を持っていると主張している*

この主張の根拠は、以下のような事実である。演劇の鑑賞者は、主人公の行く末を気にかけ(care about)つつも、それが「お話にすぎない」(it's only a story)ことをわかっている。それと同様に、スポーツの観客は、ひいきのチームのゲームの結果を気にかけつつも、それが「お遊びにすぎない」(it's only a game)ことをわかっている。つまり、スポーツの観戦者は、フィクションの鑑賞者と同様に、その結果が重大なことであると没入的に(immersely)想像しつつも(あるいはそうであるふりをしつつも)、実際にはそれがたいして重大ではないことをわかっている。

ロミオとジュリエットの悲劇的な運命に対して悲痛な涙をぼろぼろ流したその20分後にはもうエスプレッソカフェで友だちと上機嫌になっているような芝居好きと、熱心なスポーツファンを比較せずに済ますのは難しい。〔…〕スポーツのファンは、演劇の観者がそのお話に夢中になるのと同じように、そのゲームの世界に夢中になる。そしてそのあとで、やはり芝居好きと同じように、当のメイクビリーブから抜け出して、まるでなにもなかったかのように自身の生活に戻るのである。〔…〕それがたんなるお話にすぎないのと同じく、それはたんなるゲームにすぎないのだ。

もちろん、ゲームの観戦とフィクションの鑑賞にはちがいもある。たとえば、選手の体調を気づかったりする場合には、それはメイクビリーブではなくほんものの気づかいである。これはロミオやジュリエットに対する気づかいとはちがう。

あるいは、いわゆる悲劇のパラドックスがスポーツには言えない。スポーツにおいて、ひいきのチームが負けた場合でも「いい試合だった」と感動するケースがあるかもしれないが、それはその負けという結末のゆえに感動するわけではない。対して、悲劇的なフィクションで感動する場合、それはふつう悲劇的な結末のゆえに感動する。これは、フィクションにおいては不幸な出来事が起きた理由がはっきりしているのに対して、スポーツにおいてはそれは不確定(indeterminate)だからである*

とはいえ、これらのちがいがあるにせよ、ふりに従事する(engage in pretense)ものであるという点では、ゲームのプレイや観戦は、フィクション作品の鑑賞や子どものごっこ遊びと共通の特徴をもっている。

以上がウォルトンの主張。

フィクションとゲームに共通のものとしてウォルトンが記述する特徴は、それぞれの事柄が、実際にはたいしたことではないにもかかわらず、当の実践のなかでは(あるいはそこに参加するという特定の態度のもとでは)重大なこととして受け取られるということだろう。ひいきのチームが勝とうが負けようが、あるいはロミオが生きようが死のうが、観客にとっては実利も実害もなにもない。それらが重大事なのは、あくまでその当の観戦や鑑賞の実践の内部でのみであるというわけだ。

この特徴は、多くの論者が「現実ないし日常生活の利害関心からの分離」といった言いかたで、遊びないしゲームの本質的特徴のひとつとして指摘してきたものである*。また、フィクションがふつう現実に存在しない事柄を描くものであることを考えれば、フィクションの内容もまた明らかにこの特徴を持つ。その意味で、フィクションとゲームはこの特徴を共有するというウォルトンの主張は正しいだろう。

しかし、この特徴を「ふり」、「想像」、「メイクビリーブ」といった言いかたで記述することは疑問である。ウォルトン自身が言うように(Walton 1990)、フィクションの内容は、鑑賞者が想像するもの(メイクビリブるもの)として定義されるべきものだろう。しかし、ゲーム上の事柄はふつうに言って想像されるものではない。それは、そこで実際に生じていることである。われわれは、スポーツを観戦しながらホームランを想像したりオフサイドをメイクビリブったりしているのではない。それらの出来事を実際にその場で見ているのである。

これは、ゲーム上の存在者とフィクション上の存在者をくらべればよりはっきりするだろう。サッカーのキーパーやフォワードは、競技場に実際に存在する。一方、ロミオやジュリエットは劇場のなかにはいない。そこにいるのはロミオ役の俳優やジュリエット役の俳優だけである*

サールの路線でいけば、ゲーム上の存在者や事態の存在論的な身分は制度的事実と同じである(Searle 1969: sec.2.5, 2.7)。それは、なまの事実とはちがって、なんらか特定の制度(〈文脈CにおいてXをYとみなす〉という構成的規則の体系)の存在を前提するが、それでも事実であることにはかわりがない(ibid: 51-52)*。盗塁は、万引きが現実的であるのと同じ意味で現実的である。

もちろん、ゲーム内事実と標準的な制度的事実では現実的な利害とのつながりの点で相対的に差がある。万引きは現実的利害に関係する諸々の事柄と結びつくが、盗塁はせいぜい当の試合内での価値を持つものでしかない*。しかし、この現実的な利害との結びつきの程度は、その事柄が存在論的にどういうものであるかにかかわらない。ある制度的事実が持つ現実的な利害とのつながりをどんどん弱めていくと、ある時点でそれが〈しかじかとしてみなされる事柄〉から〈想像されるしかじかの事柄〉に変わるという考えは明らかにおかしいだろう。

というわけで、ゲーム上の事柄は想像されるものではない。それゆえ、ウォルトンを含めたフィクションの哲学者の多くがそうするように、フィクションをメイクビリーブや想像の観点から定義するかぎりは、ゲームとフィクションは異なるものである。

もちろん、現実の利害関心からの分離という特徴のほうを「フィクション」という用語で言い表すことはできる。それはたんに言葉づかいの問題である。その用語法を採用すれば、ゲームはフィクションの側面を持つということになるだろう。実際、そのような用語法は素朴な言説から専門的な議論にいたるまで広く見られる*

問題は、その言葉づかいに引きずられて、異なる論点をごっちゃにすることである。述べてきたように、想像の道具であることと、現実の利害関心から分離していることは別の問題である。しかし、後者を「フィクション」と呼ぶことは、よほどの慎重さをもってつかわないかぎりは容易に両者の混同を招く。その意味で、この用語法には、概念的な混乱を避けるという観点からいって致命的な難点がある。

おわり。

Footnotes

  • ウォルトンは、ゲームのプレイヤーの観点の話を章の最後あたりを除いてほとんどしていなくて、もっぱら観戦者観点の話だけしているところがとてもよい。観戦と鑑賞を対比させるのは適切なアプローチだと思う。たぶんプレイヤーの行為とフィクションの受容を対比してしまうと論点が散漫になる。あと単純に観戦者観点の議論は新鮮。

  • ウォルトンは、ここからさらに進んで、作者によるコントロールの有無の観点からフィクションとスポーツを区別している。スポーツの試合は「偶然の産物」であり、それに対して「直接的なクレジットを与えうるようなものではない」。その意味で、試合は「芸術作品というよりも自然の事物(グランドキャニオンとかナイアガラの滝とか)に近い」。

    このあたりは論点としては面白いが、明らかにいろいろつっこみどころがある。とりあえず2点指摘しておく。

    第一に、出来事間になんらか統一的な連関を見い出せるかどうかと作者性があるかどうかは、原理的には独立の話である。たしかに作者がコントロールしたほうがより統一性をもった展開になりやすいかもしれないが、偶然そのような展開が成立することもあるだろう。

    第二に、ここでウォルトンが論じているのは物語の話であって、フィクションかどうかという話ではない。物語(複数の出来事の統一的な提示)はいかなる出来事を素材にしても成り立つものであって、メイクビリーブがかかわっているかどうかは関係ない。そして、スポーツやボードゲームの試合が(それをデザインする作者がいようがいまいが)事後的な語りのなかで物語化されるのはよくあることである。

  • ホイジンガやカイヨワからクロフォードやサレン&ジマーマンやユールにいたるまで、だいたい同じようなことをいろんな言葉づかいで言っている。Juul(2005: 32-33, 35-36, 41-43)に若干の整理がある。現実の利害関心からの分離は、遊びやゲームの時空間的な孤立性とごっちゃにされることもあるが、厳密には両者は別物である。拙博論ではそのへんも含めていくらか論じている。

  • このちがいは、ウォルトンも認めている。「〔ロミオとジュリエットが存在しないのとは異なり、〕レッドソックスとヤンキースは存在するし、野球の試合に現実に勝ったり負けたりする」。

    追記(2014.12.30)。この問題は、当のフィクションが虚構世界を想像するためにつかわれるかどうかでちがいがでるかもしれない。ウォルトンは、想像の道具ではあるがなんらかの世界を想像するための道具ではないような種類のフィクションを「世界をともなわない小道具」(prop without world)と呼んでいる(Walton 1990: 61-63)。この種のフィクションでは、想像の対象はそこにあるといえるかもしれない。たとえば、ごっこ遊びで切り株が熊に見立てられる場合のその熊や、人形遊びにおいて人形がそれに見立てられるところのキャラクタは、どこか別の世界のなかではなく、現実世界の当のそこの場所にいるものとして想像されるかもしれない。おそらくひこにゃんやふなっしーみたいなタイプのキャラクタもそうだろう。

    世界をともなわないフィクションは、想像の道具であるという点ではフィクションだが、その想像の対象が現実の時空間に位置づけられる(少なくともそう記述される)という点では、ゲームに近いかもしれない。この意味で、この種のフィクションは、標準的な(世界をもつ)フィクションとゲームの中間に位置するものであると言える。ウォルトンのメイクビリーブ説は、基本的に、世界をともなわないフィクションのありかたをモデルにしてフィクション一般の本性を説明しようというものだが、そのような中間的なものから議論を始めているおかげで、フィクションとゲームのちがいがあいまいになっているのではないか。ようするに、文字通りにはごっこ遊びという意味の「メイクビリーブ」によってフィクション一般を説明すること自体がそもそもの混乱のもとなのではないかということである。

  • 関係する話だが、ビデオゲームのプレイヤーの行為の存在論的身分については以下を参照。一見虚構的なものとして記述されるプレイヤーの行為は、実際は現実の行為であるという立場を擁護している。

  • もちろんプロの野球選手にとっては、盗塁の成否は年俸という現実の利害にかかわる問題である。

  • 現実の利害関心からの分離を指すのに「フィクション」や「虚構」をつかっている身近な例をいくつか挙げておく。

    河田先生(2013: 93-96)は、カイヨワやウォルトンの議論を引いて「フィクションとしてのゲーム」について述べているが、そこでの「フィクション」には少なくとも部分的に〈現実的関心からの分離〉という意味成分が含まれている。

    今年3月の京都ゲームカンファレンスで、西條さんがユールに対して「虚構性はゲームにとって必要なものなのか、もしそうなら賭博はゲームに含まれるのか」といった質問をしていたが(参照: ビデオゲーム研究にもっと専門家が参入してほしい:京都ゲームカンファレンス@みやこめっせ : ページからページへ)、この場合の「虚構性」も現実的利害からの分離としてのそれだろう(ちなみにユール自身の「フィクション」概念は、虚構世界を描くものとしてそれなので、この意味ではない)。

    吉岡先生はブログで「英米的な言語分析に基づいたゲーム研究」では「『現実』と『虚構』とがあまりに単純に前提されすぎてい」てそれゆえ「モテない」と言っているが(参照: Don't worry, it's just a game! - tanukinohirune)、この場合の「虚構」もまた「ゲーム」と交換可能な用語としてつかわれている。ようするに吉岡先生は、虚構=ゲームが現実的利害から分離したものとして考えられがちであることを前提したうえで、両者はそんなに明確に線引きできるものではない(というか線引きするとモテない)という主張をしている。

    カイヨワも遊びの定義の6つめの項目として「虚構的」(fictive)を挙げているが(Caillois 1967: 43[40])、これをどう解釈するかはけっこう微妙である。カイヨワは遊びの外延のなかにごっこ遊び(ミミクリ)も含めているわけだが、この第6項はそれを拾うための条件であって、遊び一般を特徴づけるものではないように読める。カイヨワは以下のように言っている。「〔規則を持つ遊びでは〕規則に従うという事実そのものによって、日常生活から隔離され」るが、ごっこ遊びでは「虚構が、つまりあたかも(comme si)という感覚が、規則に取ってかわり、正確にそれと同じ機能を果たしているといえるだろう」(ibid: 40[38])。「というわけで、遊びは規則をもち、また同時に(et)虚構、というのではない。むしろ、規則をもつか虚構か、いずれか(ou)なのである」(ibid: 41[39])。「〔遊びの定義の6項目の〕最後の二つ――規則と虚構――は互いにほとんど相容れないものであってみれば」云々(ibid: 43-44[41])。ようするに、遊びが一般にもつ現実からの分離という特徴は、規則をもった遊びでは規則自体によって、ごっこ遊びでは「あたかもの感覚」=虚構性によって、それぞれ実現されるということである。というわけで、この場合の「虚構」は、現実からの分離それ自体を指す用語ではなく、むしろそれを実現する方法のひとつであるように読める。ついでに言うと、ユールは、このカイヨワの「rule or fiction」に対して、ビデオゲームは「rule and fiction」だと言っている(Juul 2005: 12-13)。さらについでに、タヴィナーによるビデオゲームの選言的定義(Tavinor 2009: 26)は、ビデオゲームの楽しみかたが「ルールと目的にもとづいたゲームプレイ or インタラクティブなフィクション」であると主張する点で、カイヨワの発想にいくらか近い。

References

  • Caillois, R. 1967. Les jeux et les hommes: Le masque et le vertige. Paris: Gallimard. (『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳. 講談社学術文庫. 1990.)
  • Juul, J. 2005. Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds. Cambridge, MA: MIT Press.
  • 河田学. 2013. 「(コンピュータ・)ゲームの存在論――その虚構性と身体性」 日本記号学会編『ゲーム化する世界――コンピュータゲームの記号論』所収, 88-105. 新曜社.
  • Searle, J. R. 1969. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. Cambridge: Cambridge UP. (『言語行為――言語哲学への試論』坂本百大・土屋俊訳. 勁草書房. 1986.)
  • Tavinor, G. 2009. The Art of Videogames. Malden, MA: Wiley-Blackwell.
  • Walton, K. 1990. Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Cambridge, MA: Harvard UP.
  • Walton, K. 2015. In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence. Oxford: Oxford UP. Kindle version.