ポピュラー文化のアーカイブと芸術の哲学

Jan 31, 2015|美学・芸術の哲学

いろいろなアーカイブ関係の話を聞いたり読んだりした結果の雑感とポジショントークです。以下「アーカイブ」は、作品を含めた当の文化に関連する資料一般とその保存を指します*

この記事の主張は以下のとおり。

  • ポピュラー文化のアーカイブのプロジェクトは、実務以前の段階で必ず概念的な整理の仕事を含む。
  • 芸術の哲学は、その概念的な仕事に役立つ枠組みを提供する。
  • 仕事くれ。

ポピュラー文化にかぎったことではないが、アーカイブの方針や方法がそれほど明確に確立してない領域のアーカイブをしようとなったときに、ある種の概念的作業がまず第一に必要になる。

ポピュラー文化のアーカイブの理念的な目的は、ふつう「当の文化(マンガであれアニメであれビデオゲームであれ)とその所産を利用可能なかたちで残す」というものだろう(ここで「利用」というのは研究目的・教育目的・一般公開目的の利用のこと)。

アーカイブの実務上の問題は、具体的にどんなブツをどのようにして集めたり作ったりするか、それらをどのような方法で保存するか、どのようなメタデータをつけて管理するか、どのようなかたちで利用可能にするか、etc…といったものだろうが、アーカイブの目的とそれら実務のあいだをつなぐレベルで概念的な仕事が必要になる*

これは、一言でいうと、なにがどうなればその目的が満たされたことになるのかを整理・確定する仕事である。この仕事が扱う問題には、たとえば以下のようなものが含まれるだろう。

  • 当の文化にとって関与的な資料(たとえば「作品」)をどのように個別化するか。たとえばタイプとして個別化されるものなのか、トークンとして個別化されるものなのか。
  • そのように個別化される資料にはどのような種類があるか。「オリジナル」、「コピー」、「現物」といった伝統的な概念は、当の文化を記述するのにどれだけ適切なのか。
  • どこまでが関与的な資料なのか。
  • 関与的な資料のうちのどれを残せば、当の文化をアーカイブするという目的を果たしたことになるのか。たとえば、オリジナルや現物を残す必要があるのか、コピーやデジタルデータでも十分なのか。
  • 具体的になにをどうすれば、「その資料を残している」ことになるのか。

具体例を出そう。たとえば、あるひとつの(ソフトウェアとしての)ビデオゲーム作品を保存しましょうとなったときに、おそらく以下のような問題を考える必要がある。

  • 「その作品」の同一性基準はなんなのか。
  • ビデオゲーム作品に「オリジナル」(あるいは「マスター」)やその「コピー」といった概念は適用できるのか。
  • 開発資料のどこまでが関与的な資料であり、そのうちのどれを残すことがその目的の達成にとって必要なのか。
  • その作品を保存することは、具体物としてのROMカートリッジ、ROMイメージ、ソースコードを記録したもの等々のどれを(あるいは全部を)保存することなのか。

この種のことを考えるのは、経験的研究というよりも概念レベルのお仕事である。もちろん最終的に同一性基準や選別基準を決めるときに、当の文化の受容の実態にかんする経験的データ(本人の直観も含む)に訴えることになるだろうが、仕事のほとんどは概念のやりくりである。

英語圏の芸術の哲学における芸術作品の存在論の分野は、この種の仕事にとって役立つ概念的枠組みを提供するだろう。芸術作品の存在論の主な関心のひとつは、おのおのの芸術形式(あるいはより細かいジャンル)ごとに作品(あるいは当の実践における受容や評価の焦点)の個別化のちがいを記述するところにあるからだ。そこでは、上記のようなたぐいの事柄を明確に記述し、文化ごとの特殊性を拾い出すための概念群が用意されている*

というわけで、実務以前のアーカイブの目的や方針を整理・確定する段階での概念的なお仕事をするときに芸術作品の存在論はとても役立つはずなのだが、どの分野のアーカイブの議論でもそれが参照されている形跡をついぞ見たことがない。これは、議論のクオリティやその共有の観点から言って、いくらか不幸なことに思える。

もちろん、個々のプロジェクトのなかで実際に仕事している/してきた人たちは、この程度の概念化は似たようなかたちでおのおのしているだろう。それでも、芸術の哲学がその種の概念化の枠組みを明確かつ一般的なかたちで提供する領域だという事実は、もうちょっと広く周知されるべきである。その一般性は、伝統ある分野はともかく、ポピュラーカルチャーのような既存の枠組みが適用しづらいものについて考えるときには、とりわけ役立つものになるはずである。

Footnotes

  • 美術の分野で「アートアーカイブ」とかいうときの「アーカイブ」は作品関連資料だけを指して作品自体を含まない印象があるが、「マンガのアーカイブ」とかいう場合は明らかに作品を含んでいる。このへんの言葉づかいのちがいはもうちょっとなんとかならんのかなと思う。ついでに言うと、たまに見かけるが「アーカイブ」を「デジタルアーカイブ」の省略としてつかうのは最低の用語法である。ビデオゲームを「ゲーム」と呼ぶのと同様に混乱のもとにしかならない。

  • 実際には、理念的な目的に実務を適合させるというトップダウンの方向とは別に、実務上の制約が目的のほうを左右するというボトムアップの方向もしばしばあるかもしれない。とはいえ、ボトムアップのレベルでも概念的な整理は必要になる。それなしにたんに実務上の都合を優先するだけのプロジェクトはぐだぐだになるだろう。

  • 実際、芸術作品の存在論は実践的な問題に直接かかわる論点をしばしば扱ってきた。贋作の問題などはその典型である。あるいは、より限定的な論点として、美術作品の修復の問題にかんする議論も昔からある(最近のだとたとえばこれ: R. De Clarcq, "The Metaphysics of Art Restoration")。日本ポピュラー音楽学会大会(2012; 2013)での存在論の議論も実践に寄り添ったものである。