ゲーム研究における美学の役割

というか私の役割について。

先日モリス・ワイツの古典的論文を訳してアップしたんですが、その結論部分でいかにも美学ってかんじの上から目線の文章があって、あらためて美学と自分のお仕事について反省しているところです。

われわれ哲学者としては、芸術の定義とその背後にあるものの区別をいったん理解したなら、伝統的な芸術理論に寛大な態度で接するのが適切だろう。〔…〕理論の役割を理解することは、それを定義――論理的に言って失敗が運命づけられているもの――として理解することではない。

ここで「芸術理論」と呼ばれてるのは、「芸術とはxxなんである」という「定義」を主張する俺理論みたいなやつで、哲学的に洗練されてないような理論のこと。ようするに、ワイツは、「そういう俺理論が言ってることは定義としてはおかしいんだけど、それはそれでそれなりの役割と意義を持ってるので、なまあたたかい目で観察しましょう」という完全に上から目線のことを言っているわけです。

これは実感としてとてもよくわかる主張で、文化的な事柄にかんして素朴なかたちで定義話が出てくる場合に(「ゲーム性」であれ「ラノベ」であれ「インディー」であれ「ナラティブ」であれ)美学者が一般にとる(そしてとるべき)スタンスだろうと思う*。言い換えると、批評的な言説や理論に対して、美学はメタ批評あるいは批評の哲学というポジションにあるということだ。

こういうメタ批評としての仕事は美学の重要な役割のひとつだと思うが、一方で自分のメインのお仕事(具体的には博士論文)はちょっとちがうなあという感覚がある。

あらためて反省してみると、自分の議論はだいたい以下のような構成をしている。

  • 当該の分野(たとえばビデオゲーム文化)に特徴的な事柄Mがある。
  • Mは、日常的な理解や既存の理論では整合的かつ十分に説明できない。
  • 私の理論ならMを説明できます。
  • 理論=概念枠を提示する(自前の概念を定義したり、ほかから持ってきたり)。
  • 理論を適用する。
  • このようにMをうまく説明できました。おわり。

2番目のところで日常的な言説や既存の理論をとりあげたうえでその不十分さや不整合を指摘することになるので若干メタ成分が含まれるかもしれないが、基本的には既存の理論と同じ土俵の理論である。その評価は、問題になっている事柄をどれだけ十分かつ整合的に説明できるか、つかっている概念がどれだけ明確に定義されているか、他分野のより堅固な理論にどれだけ接続できるか、といった点でなされるだろう。

このいみで、この種の議論は、上述のようなメタ批評としての美学ではない。とはいえ、概念をやりくりして説明モデルを提示する(そして説明する)という点では、これはふつうに哲学と呼ばれるものだろうし、美学の少なくともひとつの側面が芸術の哲学であるかぎりは、それは美学だろう。

しかしながら、この種の(私がやってる)哲学的・美学的な議論の意義というかポイントを他分野の人にいまいちわかってもらえてないところがあるような気がしている。自分ではいろんなところで自明に役立つだろうと思っているが、なかなか伝わらない(少なくともあんまり伝わっていないという感触がある)。

そういうわけで、アピールしていかないといけないわけなんですが。たとえば以下のようなアピールがぱっと思いつくが、おそらくあまり効果的ではない。

  • 哲学的に興味深い問題を説明しているという点で意義がある。というのも、哲学的な問題は事柄の根底にあり、一見どうでもよく思えたとしても、深く考えれば必ずつきあたるだいじな問題だからである。
  • 人々や既存の理論が関心をもって言及し、かつ説明しそこねている事柄を、整合的に説明しているという点で意義がある。

こういうのだと「うまく説明してなにがうれしいの?」みたいな反応があるかもしれない。なので、もうちょっとわかりやすいアピールとして、以下のようなのを考えている。

  • 概念の取り扱いは、どういう場面であれ思考がかかわるかぎりは、なにをするにもまず第一に重要なことである。哲学は概念の取り扱いを専門にする領域である。なので、哲学的研究とそれによる概念の整理やモデルの構築は、ものごとの基礎として重要である。より具体的にいうと、
    • 作品制作や批評的言説の場面では、個人の考えの整理と明確化にとって役立つものになる。
    • コミュニケーションを改善する。たとえば、集団制作であれば、制作者間のコミュニケーションを正確におこなうために、適切なかたちでの概念の整理と共有が重要になる。
    • 経験的研究に対しては、調査・実験のデザインやその結果の解釈のための概念枠を洗練されたかたちで提供する。

ただ、これが説得的なアピールになるかどうかは、概念の取り扱いの専門性がどれだけ認められるかに依存する。「概念とか誰でも作れるしつかえるでしょ」「むしろ哲学者は小難しく言ってるだけでは」といった見解に対しては、哲学的な道具立てのアドバンテージをわかりやすいかたちで示していかないといけない。

あと、哲学的な議論になにか発見法的な役割が求められることがしばしばある気がするが、そういうのがむちゃな要求であることも示していかないといけないかもしれない。たとえば、「こういうふうに理論的に整理したからってなにか作品が作れるようになるわけではないですよね」というたぐいの言説は本当によく見かける*

理論は地図に似たところがある。地図は、すでに明らかになっている土地を示すためのものであって、未発見の土地を探るときに頼りにするものではない。とはいえ、その探索の前提として必要なものであり、またその探索の結果を整理するものである。

説明モデルの提示は地図作りに、それをつかった説明はその土地のありかたを伝えることに似ている。この比喩は、概念をやりくりして説明モデルを提示するタイプの芸術学(文学研究であれ美術研究であれ音楽研究であれ映画研究であれゲーム研究であれ)に一般にあてはまるだろう。

Footnotes

  • 私も「ナラティブ」概念についてはいろいろ思うところがありますが(「ナラティブ」概念について - Togetterまとめ)、言いたいことは基本的に「概念・用語の出所について適当なこと言うな」と「なに言ってるのかわからんようなしかたでつかうな(外延か内包のどっちかを固定しろ)」の2点だけであって、オリジナルの概念を責任もって自前で明確に定義してつかうぶんにはとくに文句ないです(というか、なまあたたかく見守るスタンス)。そのように定義された概念とそれが組み込まれた理論の整合性・説明力については文句つけるかもしれないけど、それはまた別の議論になる。

  • この種の非難に対しては、とりあえず以下のように応答できる。第一に、概念の整理によって思考がまとまりやすくなったり新たな発想が生まれやすくなるということはあるだろう。また、集団制作であれば、概念の整理と共有は制作者間でのコミュニケーションを円滑するものにもなる。そのいみで、「制作にまったく役に立たない」という非難は端的に偽である。第二に、哲学的な議論だけでなく制作理論一般もまた、それを知ってすぐになにかを作れるようになるようなものではない。それはガイドにすぎない。第三に、そもそも哲学的な議論は、制作に寄与することが主な目的なわけではない。第四に、その手の素朴な非難が、芸術にかんする理論が生まれて以来絶えずなされてきた定型中の定型であって、美学者にとっては耳タコどころの話ではないことを知るべき。