ウォルトンの「想像の対象」と「表象の対象」

Apr 06, 2017|美学・芸術の哲学

以下の論文を読んだ。Mimesis as Make-Believe(以下MM、ページ数は原書)を読んでいていまいちよく飲み込めていなかったところをあらためて考えさせていただいた。

この論文は主に以下の高田ブログによる批判に対する応答になっている。個人ブログの批判を正面から取り上げる真摯さとフットワークの軽さがとてもよい。生産的。

以下、田村論文の主張に対する自分の考え。田村・高田の主張はともにオンラインで見れるので(かつともに明晰なので)、ここで細かく説明することはしない。ウォルトンの基本的な枠組みについても説明を省く。


私の見解をまとめると以下の通り。

  1. 田村の言い分とはちがって、想像の対象と表象の対象は同じレベルのものとして整合的に読める。高田も言うように、表象の対象は〈特定のごっこ遊びにおいて想像の対象として命令されるもの〉だという点で両者は概念的には異なるが、それらの語で指示されているものはたいていの箇所で同じである。

  2. 田村との見解のちがいは、「想像の対象」の解釈ではなく、「表象の対象」の解釈のほうにある。詳細は後述。

  3. 田村が「想像活動のオブジェクトは依り代である」という言い方で強調しようとしている事柄は、ウォルトン自身は「反射的表象 reflexive representation」(MM §3.6)や「描写 depiction」(MM §8.1)という概念で十全に拾っている。反射的表象では、当の表象自体がその表象の対象になる。描写では、対象に対する知覚(視覚にかぎらない)が想像的にしかじかの知覚と見なされる(反射的表象と描写は明らかに排他的ではない)。田村は「想像活動のオブジェクト」のvivacityを強調するが、それは反射的表象(たとえば演劇)や描写(たとえば映画)のケースではそうなるというだけの話である。

  4. ようするに、田村が「想像活動のオブジェクト」の例として引いているのがたまたま反射的表象のケースなだけである(実写映画は小道具自体が表象の対象になるわけではないが、スクリーンを通して見られる俳優が二次的な小道具として反射的に機能する)。〔追記で修正あり〕

  5. 以上が高田の解釈と同じなのかはわからない。


以下2についての説明。

はじめに、私が理解するかぎりで、表象の対象と想像の対象が別物だとする田村の理屈を示しておく(以下引用ではないが、わかりやすさのために引用の体裁にする)。

a.
『ハムレット』の上演において、観客は〈オリヴィエ卿(俳優)はデンマークの王子だ〉という想像をする。ウォルトンはこのケースについて「オリヴィエ卿は想像活動のオブジェクトである」と述べている(田村 p.3)。

b.
実写映画の場合は多少事情が異なる。観客はスクリーン上の映像を想像活動のオブジェクトにするわけではない。ウォルトンによれば、そこでの想像活動のオブジェクトは映画俳優である(田村 pp.3–5, 7)。以上が「想像活動のオブジェクト」の用例である。

c.
一方、表象体の対象は、〈フィクション作品によってそれについての虚構的真理が生み出されるところのもの〉と定義される(田村 pp.5–6, 8–9)。

d.
表象体の対象と想像活動のオブジェクトのちがいは、実在の人物を描いた実写映画に明確にあらわれる。たとえば、『ワイアット・アープ』ではケヴィン・コスナーがワイアット・アープを演じる。ウォルトンの理論にしたがえば、『ワイアット・アープ』はワイアット・アープを表象の対象とするが、ケヴィン・コスナーを表象の対象とすることはない(コスナーについての虚構的真理を生成しないため)。一方、bでみた言葉づかいにしたがえば、『ワイアット・アープ』の観客はコスナーを想像活動のオブジェクトにする。そして、おそらくはアープも想像活動のオブジェクトにする(田村 pp.6–7, 9–11, n.6)。

私の考えでは、a、bは問題ないが、おそらくcに誤解があるせいで、dがおかしいことになっている。つまり、ケヴィン・コスナーが表象の対象ではない(コスナーについての虚構的真理が生成されない)という見解に同意できない。ウォルトンの枠組みだと『ワイアット・アープ』はコスナーについての虚構的真理を生成するはずである。同じように、『ハムレット』の上演はローレンス・オリヴィエについての虚構的真理を生成するし、エリックとグレゴリーのごっこ遊び(MM pp.37f)は切り株についての虚構的真理を生成する。

cに誤解があるというわけは以下の通り。

田村は「単純化して言えば、表象体の対象とは、『サン・ヴィクトワール山』という絵画が、サン・ヴィクトワール山を表現するように、その表象体が表現している実在物のことである」(田村 p.2)と言うが、この言い方は正確ではない。

ウォルトンによれば、表象の対象は、当の表象によってそれについての虚構的真理(de re)が生成されるところのものであり、言い換えれば当の表象によってそれについての想像が命令されるところのものである(MM §3.1; 対象として非実在物も認めるかどうかについては細かい議論がある。MM §3.8, ch.10)。この規定はMMを通じて一貫している。この点だけなら田村も理解を共有するだろうが、「虚構的真理」についておそらく理解のちがいがある。

ウォルトンがいう「虚構的真理」は、当の虚構世界(この言葉もウォルトンは独特の使い方をするが、ここではふつうの意味での作品世界を指す)の中で成立している真理(たとえば、『ドラえもん』の世界では、ドラえもんは猫型ロボットである)のことではない。「虚構的真理」は、「ドラえもんは猫型ロボットである」のような命題がフィクショナルであること、言い換えれば、特定のごっこ遊びにおいてそうした命題内容を想像するよう命令されていることである(MM §1.5, p.69)。

それゆえ、ある実在物Aについての虚構的真理は〈Aについてpという命題がフィクショナルであること〉であって、Aについてのなんらかの命題が当の虚構世界の内部の事実である必要は必ずしもない(MM p.107)。『ハムレット』の世界にオリヴィエ卿が存在しなくても、『ワイアット・アープ』の世界にケヴィン・コスナーが存在しなくても、オリヴィエ卿やケヴィン・コスナーについての虚構的真理は成立しうる。たとえば、画面に映ったケヴィン・コスナーを指して「彼がワイアット・アープだ」と言うことは、『ワイアット・アープ』の公式のごっこにおいて適切なふるまいだろう。

これは「彼はケヴィン・コスナーでありかつワイアット・アープだ」とか「ケヴィン・コスナーでありかつワイアット・アープである人が存在する」といった命題がフィクショナルであるということではない。そしてこれと同じことは、想像の対象についての説明の中で、赤ちゃんと見なされるぬいぐるみについても言われている(MM p.25)。

このように、虚構的真理と作品世界の中での事実を区別すれば、表象の対象と想像の対象が別物だとする解釈は問題なく回避できる。

また最初に書いたように、田村が「想像活動のオブジェクト」の独特の解釈を通して強調している論点は、ウォルトン自身は「反射的表象」や「描写」といった概念で明確に扱っている。それゆえ、ウォルトンの議論のうちに「想像活動の依り代」なる概念を見いだす理論的な意義もとくに感じない。


追記(2016.04.09)

「依り代」という語に引きずられて田村のポイントについてずれた理解をしていたかもしれないので補足。

実在物を想像の対象にすることが当の想像にsubstanceを与える(当の対象を想像者が知っている場合はとくに)とウォルトンが言っているのはたしかである(MM pp.26, 116)。これは反射的表象のケースにかぎらない(直感的な説明に使われる例は反射的表象だが)。

それゆえ、想像の対象が一般的にいってsubstantialなものとして働くことがあるという見解には同意する。また、ウォルトンがそれを強調している(もっといえばごっこ説の眼目のひとつがそこにある)のもたしかだと思う。田村論文は、反射的表象のvivacityというよりも、想像の対象が持つsubstanceとしての役割に焦点をあわせたものかもしれない。そのかぎりで、それはごっこ説の急所について重要な指摘をしていると思う。

しかし、あらためて以下の2点は言いたい。

  • 想像の対象が持つとされるsubstantialな役割は、表象の対象についてもまったく同じように言われている(MM §3.5)。上に書いたように、想像の対象と表象の対象を別レベルのものとして読むべき積極的な材料はない。

  • ウォルトンが「想像にsubstanceを与える」と言っているのは、想像/表象の対象の役割や使用目的や意義であって、その定義ではない。なぜ想像/表象の対象が必要なのか、あるいはなぜ他でもなくその実在物を対象にするのか、という問いに対して、それはしかじかのかたちで重要な貢献をする(ことがある)からだというのが§1.3や§3.5の議論である。そこでは想像/表象の対象とは何かということが問題になっているわけではない。

いずれにしろ、想像/表象の対象の話は、シャーロック・ホームズやドラえもんを「虚構的対象」と呼ぶような言葉づかいや考え方とウォルトンの理論とのちがいが顕著に出るケースなんだろうと思う(それでいて事例の上では重なったりするのがわかりにくい)。あらためて読んでへんな理論だと思った。