ビデオゲームの構成的規則?

Aug 19, 2017|ゲーム研究

ハーフリアル勉強会関連。ちょっと時間が経ちましたが、羊太夫さんの以下の記事について思ったことです。

思ったことは以下の通り。

  • ビデオゲームにも構成的規則はあるが、羊太夫さんの出している例はちょっとちがうのではないかと思う。サールの概念は便利だが、ビデオゲームに適用する場合はややこしい。
  • ゲームプログラマーの規範のアナログゲームにおける対応物は、プレイヤーの規範というより、直接にはルール運用者(審判)の規範だろう。

それぞれ説明します。

ビデオゲームの構成的規則?

羊太夫さんが持ち出している統制的規則(regulative rule)と構成的規則(constitutive rule)は、ジョン・サールが『言語行為』(Searle 1969: ch.2.5, ch.2.7)のなかで提示した区別。とくに構成的規則のほうは、のちのサールの社会存在論のなかでも重要な役割を果たしている(中山 2011)。

両者のちがいを簡単に言うと、

  • 統制的規則:その規則がなくても、その規則に従う行為が特定可能なもの。たとえば、エチケットの規則や飲酒運転禁止の規則があろうがなかろうが、〈右手にフォークを持つ〉や〈飲酒せずに運転する〉という行為は特定可能である。一般に「Xせよ(するな)」という形式に書き換え可能。
  • 構成的規則:その規則がないと、その規則に従う行為が特定可能ではないもの。たとえば、チェスやサッカーのルールがないかぎりは、当のゲーム内での行為(〈チェックメイトする〉や〈オフサイドする〉)を特定できない。一般に「文脈CにおいてXをYと見なす」という形式に書き換え可能。

羊太夫さんは、統制的規則と構成的規則をアナログゲームとビデオゲームのそれぞれに当てはめている*

アナログゲームもビデオゲームも、先程論じたように構成的規則はふつうに成り立っています。

  • (A1)チェスにおいて、ルークは縦横に動く
  • (A2)SMBにおいて、ジャンプはAボタンを押す

また個別の指し手に関しては、規制的規則として表現することもできるでしょう。

  • (B1)ルークを動かすならば、縦横に動かさなくてはならない
  • (B2)マリオをジャンプさせるならば、Aボタンを押さなくてはならない

問題にしたいのは(A2)。ビデオゲームの構成的規則とされている例だが、『スーパーマリオブラザーズ』において〈Aボタンを押すとジャンプする〉というのは、たとえばサッカーにおいて〈しかじかの事態をオフサイドと見なす〉というのとはまったくちがう。両者とも条件文に書き換え可能という点で形式上は共通するところがあるかもしれないが、前者は構成的規則ではなく因果関係である*

構成的規則は、その規則とは独立に成り立っている特定の事態を、当の文脈のなかで何か別の事態として見なす規則だ。しかし『スーパーマリオ』のプレイにおいて、われわれは〈Aボタンを押すこと〉を〈ジャンプ〉と見なしているわけではないだろう。そこで何が〈ジャンプ〉と見なされているのかは議論のあるところかもしれないが、ふつうに考えればAボタンを押した結果生じるコンピュータの特定の状態変化が〈ジャンプ〉と見なされるのだと思う*

もちろん、マリオのジャンプに関しては、入力行為(Aボタン押下)と処理結果(〈ジャンプ〉と見なされる状態変化)がほとんど一対一対応であり、かつ同期しているので、両者の関係を構成関係と同一視したくなるのもわかるが、これは一般的に成り立つことではない。もうちょっと複雑なゲーム内行為(たとえば〈1UPキノコをとる〉)を考えてみれば、コントローラの操作そのものがゲーム内行為と見なされるわけではないのがわかるだろう*

プログラマーの規範

羊太夫さんは、ビデオゲームにおいては、プレイヤーに要求される規範が少ないこと、および制作者に要求される規範としてルール*とプログラムの一致(ようするにバグをなくす)があることを指摘したうえで、次のようにまとめている。

ビデオゲームにおいては、プレイヤー側が従わなくてはならない規範はあまり多くはない一方、製作者の側にはプレイヤーのそれとは異なった規範――ゲームの挙動とルール上可能なことを一致させよ――が成り立っているのではないか。この2つは全然違うものですが、歴史的に前者が後者に置き換わった、のかもしれません。

ビデオゲームはゲームの挙動とルール上可能なことを一致させることができるので、ゲームに向いたメディアである、というだけでなくて、そうするべきだという規範が成り立ったメディアでもある、ともいえるかもしれません。

ここでは、アナログゲームにおけるプレイヤーに対する規範が、ビデオゲームにおける制作者(たぶんここで想定されているのはそのうちのプログラマー)に対する規範に「置き換わった」というストーリーがひとつの可能性として示されている。

これは突飛なストーリーではないと思うが、ややポイントがずれているのではないかと思う。歴史的にみれば、ビデオゲームにおいてコンピュータが代替またはシミュレートした機能(新たに創出された機能でなければ)は、第一に物理法則であり、第二に審判=ルール運用者の役割だ。スポーツ由来のビデオゲームは前者、ボードゲーム・カードゲーム由来のビデオゲームは後者の性格が強いと言えるかもしれない。TRPGからCRPGへの転換などは後者の典型だろう。

アナログゲームの審判には、正式に取り決められたルールを正しく運用すべしという規範が課せられる。この規範は、ビデオゲームのプログラマーに課せられる規範にかなり正確に対応するように思える。プログラマーに求められているのは、正式に取り決められたルール=仕様を自動的に正しく運用する人工物を作ることだからだ。

もちろん、制度化されていないアナログゲームの場合、ルール運用の仕事はプレイヤーが兼ねるのがふつうである。そこでは、ルールを正しく運用する規範がプレイヤーに課せられる。その意味で、羊太夫さんのストーリーは真実を部分的に言い当てているとは思う。

追記(2017.08.29)

議論の続き。

Footnotes

  • ちなみに、ユールがいう「制限としてのルール」と「アフォーダンスとしてのルール」は、サールの統制的規則と構成的規則にそれぞれ大まかに対応していると思う(不用意に結びつけないほうがいいとは思うが)。以下も参照。

  • 『スーパーマリオ』のプレイについて「Aボタンを押すことによってジャンプした」という記述が可能なわけだが、一般に「FすることによってGした」における「によって」を因果関係と考えていいのかどうかはかなり難しい問題である(アンスコムのようにFとGを同一の出来事の異なる記述と考える立場もある。細かい議論は柏端(1997)を参照)。とはいえ、少なくとも『スーパーマリオ』におけるAボタン押下と〈ジャンプ〉の関係は因果関係と考えて問題ないだろう。

  • 議論の余地があるというのは、ゲーム状態を構成するのは、コンピュータの内部状態ではなく、グラフィックの状態だとする立場が考えられるからだ。Sageng(2012)などはこの立場として理解できる。わたしはこれには同意しない。グラフィックは内部状態を表すものであって、それ自体がゲーム状態を構成するわけではないだろう。以下を参照。

  • ビデオゲームにおける構成的規則についての私見は博論(6.3.5.4)に書いた。以下参照。

    なお、諸事情でまいど博論の全体ではなく部分を切り取ってアップしていますが、博論の全体が見たいという方はメールでお知らせください。

  • ここでの「ルール」はプログラム仕様のことだと思われる。

References

  • 柏端達也. 1997. 『行為と出来事の存在論』勁草書房.
  • 中山康雄. 2011. 『規範とゲーム』勁草書房.
  • Sageng, J. R. 2012. "In-Game Action." In The Philosophy of Computer Games, eds. J. R. Sageng, H. Fossheim, & T. M. Larsen. Dordrecht: Springer.
  • Searle. J. R. 1969. Speech Acts. Cambridge: Cambridge University Press.(『言語行為』坂本百大・土屋俊訳、勁草書房、1986)