描写内容の理論
Sep 28, 2017|美学・芸術の哲学
画像の内容についての諸理論を整理します。もともと美学会の発表に組み込む予定だったのですが、本筋にあんまり関わらないということで、発表内容からは除外しました。かわりにブログに載せておきます*。この手の話に興味がある人には、きっとそれなりに有益なはず。
1. 用語
- 画像(picture):絵や写真。
- 描写(depiction):画像がそれ特有の仕方で何かを表象すること(pictorial representation)*。
- 描写内容(depicted content):画像が描写するもの(what a picture depicts)。画像は描写内容以外にもさまざまな内容を持ちうる(たとえば、図像学的内容、寓意的内容、表出的内容)。描写内容以外の内容はここでは扱わない。
2. 描写内容の先行諸理論
以下、先行理論のそれぞれについて、①どんな理論概念を提示したか、②その概念をどんな事例に適用しているか、の2点を簡単に示す。その作業を通して、描写内容の十全な理論にはどんな概念と区別が必要なのかが明らかになる。
2.1 Seeing-inと二重説
Wollheim(1987)は、画像知覚を〈うちに見る〉(seeing-in)という独特の知覚として説明している。この独特の知覚では、人は二次元の表面上のしるし(mark)を見つつ、同時にそのしるしのうちに別の何かを見る(Wollheim 1987: 46)。たとえば、人は壁のしみのうちに人の顔を見たり、雲のうちに熊の姿を見る。壁のしみや雲はたまたまそのように見えるというだけのものだが、Wollheimによれば、この〈うちに見る〉知覚をもたらすことを意図して作られたものが絵である(Wollheim 1987: 48ff.)。
Wollheimは、画表面とそのうちに見てとれるものを、それぞれ「構図的側面」(configurational aspect)と「再認的側面」(recognitional aspect)と呼ぶ。Wollheimによれば、画像知覚を特徴づけるのは、この「二重性」(two-foldness)である。描写内容の理論はすべて、基本的にはこの二重性の図式を受け入れていると言ってよい*。描写内容の理論にとっての問題は、Wollheimが「再認的側面」と呼ぶもののうちに、さまざまなレベルが区別できる(そして区別しなければならない)という点にある*。
2.2 三重説
Nanayは、画像知覚を記述するには、2つではなく以下の3つの側面を考える必要があると主張している(Nanay 2016: 48–59)。
- A: 二次元の画表面。
- B: 画像が視覚的にエンコードする三次元的対象。
- C: 描かれた三次元的対象。
Nanayの理論のポイントは、BとCの区別にある*。NanayはBとCの区別の具体的な例として、以下の3つを挙げている。
- ミック・ジャガーのカリカチュア
B: ミック・ジャガー本人とはかけ離れた特徴(たとえば唇がやたら厚い)を持つ三次元的対象。
C: ミック・ジャガー本人。 - マティス夫人の肖像画
B: 緑色の顔のマティス夫人。
C: マティス夫人本人。顔は緑色ではない。 - 白黒写真
B: 白黒のもの。
C: なんらかの色(不確定)を持つもの。
NanayによるBとCの区別は、これらの例を見るかぎり、少なくとも二通りの解釈を許容するように思われる。
- 解釈①:Bを〈画像が直接に表す内容〉として理解し、Cを〈Bを(たとえばそれに概念を適用することによって)意味的により豊かにした内容〉として理解する解釈。白黒写真のCは色を持つという言い方が、この解釈を支持する。
- 解釈②:Cを〈画像の志向的対象(画像がそれについてであるところのもの)〉として理解し、Bを〈画像によってCに帰属される性質〉として理解する解釈。Cはミック・ジャガー本人やマティス夫人本人であるという言い方が、この解釈を支持する。
この曖昧さは、次に見る2つの理論を踏まえると、よりはっきりするだろう*。
2.3 骨だけ内容/肉づき内容
Kulvickiは解釈①に相当する区別を提示している(Kulvicki 2006: 59, 122–124)。
- 骨だけ内容(bare bones content):画像が特定の描写法を通して表す三次元的な色と形の配置*。たとえば、線遠近法で描かれた画像は、特定の三次元的な色と形の不変項(invariant)を内容として持つ。
- 肉づき内容(fleshed out content):われわれがふつう画像に帰属させる内容。たとえば、犬、消防車、木、人、場所など。
Kulvickiは、この区別を使って、画像の内容が持つ、ある意味での確定性とある意味での不確定性を説明している。たとえば、ある写真が、人間を写したものなのか、よくできたマネキンを写したものなのかは、その写真を見るだけでは不確定だが、それが特定の色と形の空間的配置を表していることは確定している。つまり、肉づき内容については不確定だが、骨だけ内容については確定している(Kulvicki 2006: 123)。また、この区別によって、絵を描いた絵や写真を写した写真も説明できる。画像P1の画像P2は、肉づき内容についてはP1と異なるが、骨だけ内容についてはP1と同じである(Kulvicki 2006: 53)*。
2.4 主題/内容
Nanayの三重説の解釈②は、Bを性質、Cを対象として理解し、画像によってBがCに帰属されると考えるものだ。Lopesは、正確にこの区別に相当する概念を提示している(Lopes 1996: 3–4)。
- 主題(subject):画像が表象する現実世界の存在者*。たとえば、カナレットの《サン・マルコ広場 南東を望む》におけるサン・マルコ寺院。
- 内容(content):対象が持つものとして画像が表象する性質。たとえば、カナレットの《サン・マルコ広場 南東を望む》における、特定の角度から見た、さまざまな特徴を持った聖堂のあり方。
Hymanもまた似た区別を提示している。Hymanの理論のポイントは、この区別をFregeのSinn/Bedeutungの区別*と結びつけているところにある(Hyman 2012: 136–137)。
- 画像のBedeutung:画像の指示対象。
- 画像のSinn:画像によって対象が提示される仕方。同じ対象を描く絵でも、提示の仕方はさまざまである。たとえば、トルストイを〈黒い上着を着て座る暗い髪の人〉として描くこともできれば、トルストイを〈白い上着を着て立つ、灰色のひげを生やした人〉として描くこともできる。
Hymanによれば、「depict」という動詞には、関係的な動詞(個別者間の関係を示す動詞)としての用法と、非関係的な動詞(個別者の性質を示す動詞)としての用法がある。BedeutungとSinnの区別は、この2つの用法のちがいを説明する。関係的な描写はBedeutungを描くという意味での描写であり、非関係的な描写はSinnを描くという意味での描写である*。
以上の対象と性質の区別が、先に示した肉づき内容と骨だけ内容の区別と異なるのは明らかだろう。Nanayの三重説に見てとれる曖昧さは、これらの概念的な区別によって解消される。
2.5 トシテ描写
Goodmanは、「トシテ描写」(depiction-as)*という概念を提示している(Goodman 1976: 27–31)。たとえば、ウェリントン公を軍人として描く絵もあれば、ウェリントン公を市民として描く絵もあるし、チャーチルを人として描く絵もあれば、チャーチルをブルドッグとして描く絵もある。LopesもHymanも、このトシテ描写を説明するものとして自身の区別を使っている。チャーチルをブルドッグとして描く絵は、チャーチルを主題/Bedeutungとし、人面ブルドッグを内容/Sinnとする絵である*。
一方で、特定の個別的対象(たとえば、ナポレオン)を描くのではなく、不特定の対象(たとえば、ある人)を描く絵がある。Hymanによれば、この種の絵にはBedeutungがなく、Sinnしかない。不特定なものを描く絵には描写対象がないという考えに同意するかどうかはともかく、少なくとも、不特定なものを描く絵にトシテ描写の構造が見いだせないことはたしかである。たとえば、〈チャーチルをブルドッグとして描く〉や〈ルイ・フィリップを洋梨として描く〉ということは意味をなすが、〈猫をブルドッグとして描く〉や〈りんごを洋梨として描く〉ということは(その「猫」や「りんご」が特定の個別的対象を指すのでないかぎり)意味をなさない。
2.6 肖像
Beardsley(1981)は、不特定のものを主題にする絵を「描写」(depiction)と呼び、特定の個別的対象を主題にする絵を「肖像」(portrayal)と呼んで区別している。Beardsleyは、肖像をさらに以下の2つに区別する(Beardsley 1981: 273ff.)。
- 物理的肖像(physical portrayal):その絵の実際のモデルを主題にする肖像。
- 名目的肖像(nominal portrayal):物理的肖像でない肖像。
名目的肖像を説明するには、〈ある絵が何の絵であるか〉と〈それが何を見て描かれたか〉の区別が必要になる。名目的肖像は、とくに珍しいケースではない。たとえば、レンブラントは、バト・シェバの絵を描くために、妻のヘンドリッキェをモデルにした。同種の例は美術史上無数にある。
3. The 描写内容の理論
3.1 必要な概念的区別
以上の諸理論を総合すると、描写内容について以下の区別が必要であることがわかる。
まず、描写内容は、概念化の度合いによって区別される。
- 形態内容:平面的な色と形のうちに端的に見てとれる三次元的な色と形。Kulvickiの骨だけ内容に相当。画表面に帰属される二次元的な色と形とは区別される。
- 再認内容:形態内容が具体的に意味づけられた/再認された/概念化された内容。Kulvickiの肉づき内容に相当。典型的には、「これは何の絵か/何を描いた絵か」という問いの答えになるもの*。ここでの「再認する(recognize)」は、おおよそ「目で見てそれと見分ける」と同義(Kulvicki 2014: 32ff.)。
再認内容は、さらに以下のふたつの側面に区別できる。
- 描写性質:絵の対象に帰属される性質として何が描かれているか。Lopesの内容に相当。描写性質の密度は、絵によってさまざまである*。たんに〈赤い〉〈りんごである*〉〈丸い〉といった粗い密度で事柄の性質を描く絵もあれば、〈どの部分がどのように赤いか〉〈どんな種類のりんごであるか〉〈どんな丸さであるか〉を詳しく描く絵もある。
- 描写対象:描写性質が帰属される個別的な対象として何が描かれているか。言い換えれば、絵が何についてのものであるか。Lopesの主題に相当。描写対象は、特定の個別的な対象(たとえば、ナポレオンや桜田門外の変*)の場合もあれば、不特定のものの場合もある。描写対象がなんであるかは、基本的には描き手の意図が決めると考えてよいと思われる*。その意図へのアクセスは、いろいろな経路でなされる。タイトルによる場合もあれば、描写性質から判別できる場合もあるだろう*。
この描写対象は、絵のモデルとは概念的に異なる。
- 描写対象:描写性質が帰属される個別的な対象。上記参照。
- モデル:その絵が実際に何を見て描かれたか。もちろん、モデルと描写対象が同じであるケースは少なくない。
図にすると、以下のとおり。
以上の理論的枠組みを使って、以下の事柄が説明できる。
3.2 抽象画と具象画
- 抽象画:再認内容を持たない絵。抽象絵画であっても、形態内容(なんらかの三次元的な奥行きや重なり)を持つと言える場合はあるだろう*。
- 具象画:再認内容を持つ絵。通常は形態内容も持つ。とはいえ、再認内容を持ち、かつ、形態内容をほとんど持たない絵も想定可能である(たとえば棒人間の絵*)。
3.3 特定の対象を描く絵と不特定の対象を描く絵*
同じ描写性質を描く絵でも、その描写対象が特定のものであるか不特定のものであるかで性格が異なる。特定の対象を描く絵は、〈描写対象Sを描写性質Pを持つものとして描く(depict S as having P)〉という構造を持つが、不特定の対象を描く絵は、たんに〈Pを持つものを描く(depict something that has P)〉絵である。
- 特定の対象の絵:ナポレオンを〈禿げた〉〈小太りの〉〈男性である〉ものとして描いた絵。
- 不特定の対象の絵:〈禿げた〉〈小太りの〉〈男性である〉ものを描いた絵。
もちろん、絵が描写対象に帰属させる描写性質は、その対象が実際に持つ性質である場合もそうでない場合もある。たとえば、チャーチルをブルドッグとして描く絵は、後者の種類の絵である。
3.4 写生と模写の描写対象
何かを写生した絵であっても、不特定の対象を描いた絵になりうる。たとえば、事典の鷲の項目に添えられた鷲の絵は、画家が実際に特定の鷲を見て描いたものかもしれないが、その絵はその鷲を描写対象にした絵とは言えない。これは、モデルと描写対象の区別によって説明できる。
同じことは、模写にも言える。ある絵P1を模写した絵P2の描写対象は、P1(つまりP2のモデル)であることもあれば、P1の描写対象であることもある*。
Footnotes
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サーベイ論文としてどこかに書いてもいいのですが、載るまでに時間がかかるのがめんどう。
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画像がそれ特有の仕方でないかたちで何かを表象することは、ほとんど任意に可能(Goodman 1976: 41)。
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このふたつの側面の知覚が同時的でなければならないというWollheimの見解に対する反論は少なからずある。これは、トロンプルイユの類が描写であるかどうかという問題に関わる。たとえば、Lopes(1996: 49–51)を参照。
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構図的側面はしばしば「デザイン」とも呼ばれ、再認的側面はしばしば「内容」や「主題」とも呼ばれる(e.g. Beardsley 1981; Lopes 1996)。また、Goodman(1976)やKulvicki(2006)のように記号システムの一種として画像表象を理解する論者は、画表面とその内容を指すのに「統語論/意味論」という用語を使う。もちろん、記号システム論者は、画像の知覚を問題にしているわけではない。その意味で、Wollheimの「構図的側面/再認的側面」と記号システム論者の「統語論/意味論」は別の概念だが、それぞれが指している外延はおおよそ同じと考えてよい。
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Nanayによれば、「画表面のうちにりんごを見る」という場合の「りんご」が〈Bとしてのりんご〉を指すのか〈Cとしてのりんご〉を指すのかで、〈うちに見る〉知覚の理解は変わってくる(Nanay 2016: 51)。Nanay自身の見解によると、〈うちに見る〉知覚において知覚的に現れているのは、基本的にAとBである。Cは心的イメージ(mental imagery)として準知覚的に(quasi-perceptually)現れている。
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Husserlもまた、Nanayと同種の三重説を提示している(ただし以下のHusserl解釈に負う。Kurg 2014b; 小熊 2015)。Kurg(2014a)は、さらにWollheimの理論も実は三重説として解釈できると主張している。Kurgによれば、Wollgheimの理論には、構図(configuration)、表象(representation)、形象化(figuration)という3つのレベルがある(Kurg 2014a: 23)。この解釈はやや疑わしい。たしかにWollheimは、抽象画にも表象内容がある(それゆえ二重性がある)と述べている(Wollheim 1987: 63)。しかし、そこでのWollheimの説明は、具象画の内容にはfigurativeな概念(人など)が適用されるが、抽象画の内容にはabstractな概念(四角形など)が適用されるというものである。つまり、表象内容に適用される概念の種類のちがいによって説明しているのであって、Nanayの三重説のように内容を2つの層に区別して説明しているわけではない。もちろん、この説明のうちに〈概念の適用以前の内容〉と〈概念が適用されたものとしての内容〉の区別を見いだすことはできるが、それはNanayの三重説よりも、次に述べるKulvickiの理論に近いだろう。
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Kulvicki自身は、骨だけ内容について明確な定義を与えていないが、個々の記述や例示を総合すれば、おおよそこのような定義になるだろう。Kulvickiが依拠するHaugeland(1998)の説明のほうがわかりやすいかもしれない。Haugelandは、殺人事件現場を写した写真を例にして、次のように述べる。「〔…〕その写真は、散らかった衣服と壊れた家具に囲まれた床の上の血の海のなかに横たわる人間の身体すらも表象しているとは言えない。これらの特徴は、その描かれた状況について、ふつうの人が、世界についての一般的な背景知識にもとづいて、容易に「述べる」ことのできるものではある。しかし、〔…〕世界について無知であるかぎりは、つまり常識的な知識を欠くかぎりは、いかなるシステムもそのように述べることはできない。極端なかたちで言えば、次のようになるだろう。写真が「厳密な意味で」表象するものは、方向に関して特定のあり方をした入射光である〔…〕」(Haugeland 1998: 189)。
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Hopkins(1998: ch.6)も、おおよそ同じ問題関心(画像の内容の不確定性)のもとで似た区別を提示している。高田(2014–2015)の「分離された内容/描写内容」も同種の区別だろう。高田は、さらに次に示す「内容/主題」に相当する区別も提示しているが、描写内容の帰属先だけでなく、分離された内容の帰属先(「分離された対象」)も想定している点で、わたしがあとで提示する理論とは異なる。この理論的な相違は、虚構的なキャラクターの画像をどう説明するかという問題と密接に関わるため、ここでは扱わない(この問題についてのわたしの見解は、松永(2016)を参照)。
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Lopesはここでさしあたり虚構的対象を画像の主題から除外しているが、最終的にごっこ説によって虚構的指示を説明している(Lopes 1996: ch.10)。
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Hymanは「Sinn/Bedeutung」の標準的な英訳である「sense/reference」を使っているが、日本語に訳すとむだにややこしくなるため、ドイツ語のままにする。
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清塚(2017: ch.7)もまた、画像の内容に対してSinn/Bedeutungの区別を適用している(実際には、清塚は画像を含めたフィクション一般にこの区別を適用している)。しかし、そこで清塚が画像のSinn/Bedeutungとして述べている区別は、Hymanの区別というよりは、(清塚自身がそう言っているように)むしろHopkinsの区別(Kulvickiの骨だけ内容/肉づき内容におおよそ相当するもの)に近い。Fregeの概念がいずれの区別にも流用されているという事実は、Nanayに見られる混同が起きやすいことを示しているかもしれない。
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正確には「representation-as」だが、Goodmanにおける「representation」は、現代の用語では「depiction」とほぼ同義なので、「depiction-as」として読む。
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Goodman自身は、トシテ描写をpicture of xとx-pictureの区別によって説明している。picture of xはxを指示する画像であり、x-pictureは「x-picture」という述語に指示される画像である(Goodman 1976: 21ff.)。Goodmanによるx-pictureの説明は、外延主義的立場のおかげできわめてテクニカルなものになっているが、基本的な考え方はLopesの内容やHymanのSinnと同じと考えてよい。
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通常は、ある絵について、正しい再認内容とそうでない再認内容が言える。Wollheim(1987: 48ff.)によれば、まさにこれが言えるという点で、描写はたんに〈うちに見る〉知覚をもたらすもの(たとえば、そのうちに熊を見ることのできる雲)から区別される。この正しさの基準(standard of correctness)がどのように決まるのかは大きな問題だが、ここでは扱わない(この問題に焦点をあわせた議論としては、Abell(2005)を参照)。以下では、「再認内容」はすべて正しい再認内容を指す。抽象絵画にも正しい見方とそうでない見方がある以上、正しさの基準は形態内容にも言えるかもしれない。
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一方、形態内容における性質の密度は一定だと思われる。Goodman(1976)の「意味論的稠密性」の議論を参照。
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ここでの「性質」には、特定の質を持つこと(たとえば、赤い)に加えて、特定の種類に属すること(たとえば、りんごである)も含まれている。その結果として、この理論では、「描写対象は不特定のりんごである」という言い方はできない。不特定のりんごの絵は、不特定の何か(something)を描写対象とし、それに〈りんごである〉という描写性質を帰属させる絵である。これは、日常的な言葉づかいからすれば、少なからず不自然な言い方だろう。
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ここでの「対象」には出来事も含まれる。描写対象が出来事である場合、それに帰属されうる描写性質がどのようなものかは大きな問題だろう。たとえば、時間が関わる側面(たとえば変化)を絵が描けるかどうかについては議論の余地がある。ここでは、この問題は扱わない。
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例外的に、ふつうの写真の描写対象は、基本的に意図ではなく因果的に決まる。写真の描写対象は、基本的にモデル(つまり実際の被写体)である。ここでは扱わないが、実写のフィクション映画の描写対象については、さらに複雑な議論を必要とする。
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ある絵が個別者xの絵であるためには、その絵はxに似ていなければならない(少なくとも、その絵を見てそこにxが描かれていることを見分けられなければならない)と考える人がいるかもしれない。わたしはこの立場をとらない。というのも、その立場をとると、〈xを描いた絵にはまったく見えない、xを描いた絵〉の説明が困難になるからである。たとえば、小さい子どもが親を描いた絵は、しばしばそのような絵である。そして、子どもが自分で描いた絵について「これはお母さんの絵だ」と意図していれば、その絵の主題はそれ以上でも以下でもない。もちろん、描き手の意図にアクセスするのに、その絵のうちに何が見てとれるかが大いに寄与するケースは少なからずあるだろう。しかし、その種のアクセス経路を欠いた絵はしばしばあるし、それ以外の経路で(タイトルなどを通して)意図にアクセスできる場合もある。描写対象の同定についての非意図主義的な説明は、Lopes(1996: ch.5)を参照。なお、描写対象は描き手の意図によって決まると言えるとしても、描写性質がどのように決まるかは一筋縄ではいかない問題である。Hyman(2012: 138ff.)はこの非対称性を取り上げている。
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Wollheim(1987: 63)の例を借りれば、たとえばハンス・ホフマンの《Pompeii》は形態内容を持つ抽象画であり、バーネット・ニューマンの《Vir Heroics Sublimis》は形態内容を持たない抽象画と言えるかもしれない。もちろん、両者とも形態内容を持つという考えもありうる。それは作品解釈の問題である。
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この種の絵が「抽象的」と呼ばれることはままあるが(e.g. Beardsley 1981: 285f.)、これは最悪の用語法だろう。本来の語義はともかく、通常は再認内容を持たない絵が「抽象画」と呼ばれるからである。
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いく人かの論者(e.g. Goodman 1976)の主張とはちがって、この区別は、虚構的対象の絵と実在物の絵の区別とは独立である。フィクションの絵にも、特定の対象を描くものと不特定の対象を描くものとがある。
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Kulvicki(2006)はゴッホの《アルルの寝室》の諸バージョンの関係について前者の解釈をとっているが、想定される作者の意図やこの絵の受容の慣習の観点からすればきわめて不自然な解釈だろう。この不自然な解釈は、明らかにモデルと描写対象の同一視から生じている。なお、Kulvickiは、自身の「透明性」概念の例示のためにこの作品とその解釈を持ち出しているわけだが、わたしは、その「透明性」概念の定義(およびそれを使った画像システムの定義)自体に異論があるわけではない。
References
- Abell, C. 2005. “Pictorial Implicature.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 63(1): 55–66.
- Beardsley, M. C. 1981. “Representation in the Visual Arts.” In Aesthetics, 2nd editon, 267–317. Indianapolis: Hackett.(「視覚芸術における再現」相澤照明訳、西村清和編訳『分析美学基本論文集』所収、勁草書房、2015)
- Goodman, N. 1976. Languages of Art. 2nd edition. Indianapolis: Hackett.(『芸術の言語』戸澤義夫・松永伸司訳、慶應義塾大学出版会、2017)
- Haugeland, J. 1998. “Representational Genera.” In Having Thought, 171–206. Cambridge, MA: Harvard University Press.
- Hopkins, R. 1998. Picture, Image and Experience: A Philosophical Inquiry. Cambridge: Cambridge University Press.
- Hyman, J. 2012. “Depiction.” Royal Institute of Philosophy Supplement 71: 129–150.
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- 小熊正久. 2015. 「画像表象と中立性変様——フッサールにそくして」 小熊正久・清塚邦彦編『画像と知覚の哲学——現象学と分析哲学からの接近』所収、4–21. 東信堂.
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- Kurg, R.-N. 2014a. “Seeing-in as Three-fold Experience.” Postgraduate Journal of Aesthetics 11(1): 18–26.
- Kurg, R.-N. 2014b. “Edmund Husserl’s Theory of Image Consciousness, Aesthetic Consciousness, and Art.” PhD diss., University of Fribourg.
- Lopes, D. M. 1996. Understanding Pictures. Oxford: Oxford University Press.
- Nanay, B. 2016. Aesthetics as Philosophy of Perception. Oxford: Oxford University Press.
- 松永伸司. 2016. 「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1(2): 76–111.
- 高田敦史. 2014–2015. 「図像的フィクショナルキャラクターの問題」『Contemporary and Applied Philosophy』6: 16–36. Accessed September 25, 2017. https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/226263.
- Wollheim, R. 1987. Painting as an Art. Princeton: Princeton University Press.