立派なゲーム研究者になるための10の心得
Dec 05, 2019|ゲーム研究
オンラインジャーナル『Game Studies』のチーフエディターであるエスペン・オーセットが、新しい号で「立派なゲーム研究者になるための10の心得」という副題のエッセイを書いていた。
- Espen Aarseth, "Game Studies: How to Play -- Ten Play-Tips for the Aspiring Game-Studies Scholar," Game Studies 19, no. 2 (2019), http://gamestudies.org/1902/articles/howtoplay.
いろいろ面白かったので以下適当な抄訳。ゲーム研究に関心ある方はどうぞ。
1. 「ルドロジー対ナラトロジー」に言及するべからず
「ルドロジー対ナラトロジー」という常套句は、書き手がゲームスタディーズについて多少の知識があることを示すのに使われるわけだが、書き手は例外なくそうした「戦い」があった根拠を示さないし、たいていはゲームが物語かどうかという問題にはまったく無関係な話をする。
おそらく書き手は、かつて「ナラトロジスト」と「ルドロジスト」なる派閥があって喧嘩していたとか、その論点は過去のものであって現代では折衷的な立場が必要だとか言いたいのだろうが、それは結局のところそうした派閥間の争いがあったという神話を広めているだけのことだ。
(この広まっている誤解の中身についてはここでは説明しない。詳しくはAarseth(2014)を参照のこと〔※〕。ひとつ言っておくと、いわゆる「ルドロジスト」は全員物語論(narratology)を使っていたし、逆にいわゆる「ナラトロジスト」はせいぜいアリストテレス〔の『詩学』〕に言及する程度だった。)
これはもちろんゲームと物語の関係について議論すべきことがないということではない。無意味な前置きをつける代わりに、自分が論じたい論点は何か、どの先行研究がその論点を取り上げているのか、先行研究に対する自分の独自性は何か、というのをはじめから書けばよいということである。
あとついでに「ゲーム産業はいまやハリウッドよりもでかい」みたいな枕もいらない。そんなことは誰でも知っている。
〔※ Espen Aarseth, "Ludology," in The Routledge Companion to Video Game Studies, eds. Mark J.P. Wolf and Bernard Perron (New York: Routledge, 2014), 185–189.〕
2. 他の研究者が自分と同じ背景知識を持っていると思うべからず
ゲーム研究者はさまざまな専門分野の研究者の集まりだ。大半の研究者はゲームスタディーズが本来の専門ではない。
自分が属する(ゲームスタディーズではない)分野向けにゲームについての論文を書く場合は、ゲームスタディーズについての(少なくともそういう分野が存在するということについての)簡単なイントロダクションを入れたほうがよい。
一方、ゲームスタディーズの業界向けに書く場合は、ゲームスタディーズの紹介はいらないが、自分の専門分野に関する説明をしたほうがよい。たとえば、わたし自身はたまたま物語論の教育を受けているが、大半のゲーム研究者は明らかにそうではない。それゆえ、読み手が物語論を理解していることを前提にしたような文章を書いてはいけない。
言葉遣いも問題になりがちだ。同じ言葉を使っていても、専門分野ごとに別の意味を持っていることもある。
とはいえ、その手の説明に論文の大半を費やすのはよくない。イントロダクションは簡潔に!
3. ある学会に本当に行きたい場合
学会発表の査読者の質はさまざまだ(ただのマヌケだったり、誤読していたり、真価がわからなかったり、疲れていたり)。なので、すばらしいアブストラクトがリジェクトされることはある。たとえば査読者が2人しかいない場合、片方がクソ査読をしたらそれだけで落ちてしまう。
そういうわけで、ある学会に本当に行きたいなら、複数のアブストラクト(2個がベター、4個がベスト)を送るべし。
それから、もし無茶な理由でリジェクトされたら文句を言うべし! それが査読のクオリティを改善するための参考になるからだ。文句を言わないと何も改善されない。
4. 次の点で産業と関係を持つべからず
お金
インテグリティを維持したいなら企業からお金をもらうな。たとえば、ゲーム中毒について公共的に発言する研究者が、ゲーム産業から報酬や助成を得ていたらまずいだろう。ゲームデザイン研究者ならそれほど問題ないだろうが、ゲームが社会に及ぼす影響に関する世間の誤解を正すような研究をしている場合は、研究者が財政的に独立していることは決定的に重要である。
秘密保持契約
成果を発表したいなら契約に注意しよう。大学(とくに工科系の)においてすら産業界とのコラボレーションへの圧力があるが、何か契約書にサインするときは〔研究の公開に関する項目について〕十分に気をつけたほうがよい。
統計
企業の統計データを使うな。企業がどこからその数字を得たのか考えてみよう。自社のマーケティング部門? どういう人がゲームをしているのか、どんなゲームがプレイされているのか、などなどについての企業レポートが毎年出されるが、そうしたレポートは科学的とは言えない。それはゲーム産業をより良く見せるためのものかもしれないのだ。
データの取り方、レポートの書き方にも問題がある。たとえば、著者の名前がない、「ゲーマー」の定義がない、方法についての検討がない、データサンプリングについての情報がない、などなど。
とはいえ残念なことに、ゲームスタディーズはいまのところ統計に関して十分な独立性を実現できないのだが。
5. 限定抜きに「ゲーム」という言葉を使うべからず
ビデオゲームのことを意味するのにたんに「ゲーム」と言う人は少なくない。これは非常にまぎらわしい。ビデオゲームのことを意味したいなら「ビデオゲーム」と言えばよい。逆に、デジタルゲーム、コンピュータゲーム、ボードゲーム、TRPG、LARPといったすべての種類のゲームを意味したいなら、そのような限定をつける必要がある。
6. 個々のゲームに注目し、具体例を挙げるべし
ゲーム一般/ビデオゲーム一般について論じないほうがよい。本誌のエディターの立場から言うと、何か特定のゲームに注目していない(あるいは具体的なゲームの名前を挙げない)論文を出版することはほとんどない。
7. 論文を投稿するまえに調べるべし
まあたしかに誰も「『スカイリム』におけるX」については書いていないかもしれないが、『スカイリム』について書いている論文はある。それも先行研究のひとつだ。先行研究との関連づけがないと論文を評価できない。
あるいは、Xは別の論文ではYと呼ばれているかもしれない。たとえば、インタラクション、行為者性、ユーザー機能、アフォーダンスといった言葉が、だいたい同じような意味で使われていることはありえる。
常套句「Xについてはこれまで論じられてこなかった」を使いたくなったら危険信号だ。ふつうは探せばある。(あなたはググらなくても査読者はググるのだ!) というわけで、「Xについての先行研究を探したが見あたらなかった。一方で次のような研究はあった…」と誠実に書きましょう。
8. どこに研究を発表するか
ゲームスタディーズには従来の形式にはとらわれない発表の方法がいろいろある。たとえば、本誌のようにオープンアクセスのジャーナルや、〔DiGRAが出しているような〕オープンアクセスのプロシーディングスがある。これらを認めない地域や機関や「権威ある」指標があるかもしれないが、幸いゲームスタディーズの仲間はそうした評価を気にせずにあなたの論文を読んで引用するだろう。
ヨーロッパでは、Google Scholarやオープンアクセスは学術的な認知のデファクトスタンダードである。この点で、少なくともわたしの周りではオープンアクセスの媒体で発表することにたいした問題はない。他の地域でも同じようになればよいと思っている。論文の価値は、発表する場ではなくその内容で決まるのだから。
9. (可能なら)所属機関から外に出るべし
あなたが博士課程の学生なら、まず博士号をとろう(ゲームを研究するのを許してくれたことを感謝しつつ)。それから可能なら別の場所に移って、そこでゲームスタディーズを立ち上げるのに貢献しよう。
10. 横断的であれ
先に書いたように、ゲームは根本的に学際的な現象だが、同時に文化横断的な研究領域でもある。ゲームスタディーズにはさまざまな研究分野の研究者や学生がいるが、それだけでなく、さまざまな文化的・個人的な背景を持った研究者や学生がいる(言語、ジェンダー、民族、地理、金銭的な補助の有無など)。
この多様性に対してもっとインクルーシブであるにはどうすればいいか。この問題は主に英語圏で論じられてきたが、まさにその点に難しい問題がある。つまり、英語が学術業界における圧倒的に支配的な言語であることによって生み出された不平等さをどう緩和するのかという問題を、英語のネイティブスピーカーに任せてしまっていいのかということだ。
わたしはそれはよくないと思っている。もしあなたが、英語が母語でない研究者であり、〔英語が支配する学術業界にあって〕周縁に位置するという自覚があるなら、あなたと同じ母語を話す研究者たちに彼ら自身の研究が持つ特別な価値について自覚するように促してほしい。(彼らの多くはそのことについて考えたことがないはずなので。)
学際性も難しい問題だ。自分とちがう分野の人との協働は力を与えてくれるものだが、一方でたんなる地獄にもなりえる。研究者は、自分と同じ方法を使う研究者を信頼しがちだ。だとすると、分野を横断したかたちで信頼を築くにはどうすればいいのか。答えはゲームスタディーズを通じて得られるだろう。ゲームスタディーズは、つねに信頼の構築が模索される場なのだ。
以下感想。1, 2, 5, 6, 7はふつうに同意する。その他は一般論としてはそうかもしれないが、環境や動機によってけっこう話が変わるかなという気がする。
1の「ルドロジー対ナラトロジー論争」については日本語の文献やネット上の言説でもたびたび言及されるが、オーセットが書いているように、そんな論争はなかった(少なくとも「論争」と呼べるような実態はなかった)というのが通説になっている。わたしもこの件については『ゲーム研究の手引き』やTwitterなどでたびたび書いているが、なかなか通説が広まらないので困惑している。
この「論争」の実質とその背後に想定されるモチベーションについては、以下の論集に所収の拙論で多少書いているので、興味のある方はどうぞ。