画像表象のサーベイ論文の補足

Aug 13, 2012|美学・芸術の哲学

Holbein's anamorphic skull in The Ambassadors

画像表象のサーベイ論文(Kulvicki 2006b)のまとめについてよーわからんという反応がいくつかあったので、Kulvickiの構造説の内容を多少補足しつつ、ついでに思うところをいくつか書いておきます。

これまでのあらすじ:

骨だけ内容と肉づき内容の区別について

この概念自体はHaugelandが提示したものだが、ここではKulvickiによる理解に限定する。

まず、骨だけ内容と肉づき内容の区別は、画像以外の表象、たとえば言語的記述にも見られるものだとされる。以下の記述を例にとろう:

  • Johnny went to bed with a frown and without his supper.
    ジョニーはふくれっつらで夕食を食べずに寝てしまった。

この文はかなりリッチな肉づき内容を持っており、それを完全に特定するには、ジョニーがふくれっつらであることと夕食をとらなかったこととのつながりや、ジョニーが子どもなのか子どものように描かれているだけなのか、といったことについての解釈が必要になる。つまり、肉づき内容は、その文がほのめかしている(imply, implicate, suggest, allude)ことも含めた内容であり、それを解釈する読み手に依存する。

一方、この文の骨だけ内容は、ある人物ジョニーが寝に行き、そのとき彼はふくれっつらをしており、かつ彼は夕食をとっていなかった、ということだけである(なお、骨だけ/肉づきの区別は、文字通り/比喩的の区別ではない)。

画像の内容も、記述と同様に不確定(indeterminate)な部分が多い。あるアルバムの中に入っている写真が、家族のメンバーを表しているのか、よくできたマネキンを表しているのかは、その写真をみただけでは特定されない。これらの可能な解釈のそれぞれが画像の肉づき内容とされる。

しかし、その写真は、線遠近法の観点からみれば、特定の色や明るさや空間的特徴についてのなんらかの定まった情報を持っている。これは、その画像を線遠近法のもとにみる場合の異なる諸々の解釈のすべてが共通に持つものである。これが画像の骨だけ内容とされる(以上、Kulvicki 2006a, 122-124の説明による)。

パノフスキーは、イコノグラフィーなどを介した第二段階の「慣習的主題」以前の第一段階の主題を「自然的主題」と呼んだわけだが、Kulvickiが言う画像の骨だけ内容は、自然的主題よりもさらに一段階抽象的(というかより前認識的)であるように思われる。つまり、自然的主題は、「人に矢が刺さってる」とか「人の頭がのった盆を女の子が持っている」とかそういうレベルの内容だが、骨だけ内容は、「どういう色と形状のものがどういうふうに配置されているか」、「それらにどのように光があたっているか」といった、描かれたものの見えのレベルな気がする。

骨だけ内容は、もちろんたんなる画像表面上の色とかたち(Kulvickiの用語法では統語論のレベル、伝統的には「形式」などと呼ばれるもの)とは区別されなければならないが、骨だけ内容が抽象的すぎるとその区別がほとんどなくなってくるような気もする。統語論的要素と骨だけ内容のちがいは、最終的には、それが画像の平面上での見えなのか、描かれた空間上での見えなのか、というちがいしかないのかもしれない。

透明性について

Kulvickiによれば、ある表象システムSが透明であるとは、〈あるものをSにおいて表象する表象R1〉と〈R1をSにおいて表象する表象R2〉が統語論的に同一である、ということである。また、統語論的同一性は意味論的同一性を含意するから、透明な表象システムにおいては、ある表象の内容と、その表象の表象の内容は一致する(Kulvicki 2006a, 53ff.)。

というわけで、透明性の定義は、統語論的同一性の定義に依存している。

ここで、統語論的に同一であるとは、「統語タイプ」(syntactic types)が同じということである。統語タイプの同一性は、そのトークンがもつ「統語論的に関与的な諸性質」(SRPs)にスーパーヴィーンしている。統語タイプのそれぞれには、ひとつの「意味タイプ」(semantic types)が対応している(ibid., 14-15; 30-31)。

統語タイプの例としては、言語における単語とかがわかりやすい。"likeness"と"likeness"と"likeness"は同じ統語タイプの異なるトークンであり、"likene55"は("likeness"により似ているにもかかわらず)異なる統語タイプのトークンである(ibid., 14-15)。このシステムにおけるSRPsはトークンの特定の形状であって、色とか大きさとかフォントごとの特徴とかはその単語の同一性にとって関与的でない。

画像システムについても統語タイプを言えるが、SRPsがまあまあ多い点(相対的充満)、ちょっとしたSRPsの変化が統語タイプのちがいにつながる点(統語論的敏感)といった特徴がある。


ここまでだと、まあたしかにそうかもというかんじになるが、ある統語タイプの同一性を(したがってSRPsを)理論的にどうやって保証するのかを考えだすと、心もとなくなってくる。

もちろんKulvickiもこの点については予防している(ibid., 56-57)。Kulvickiの理屈にしたがえば、意味論的に異なれば統語論的にも異なるので、ある表象トークンの特定の性質の変化がその表象の内容(意味タイプ)に変化をもたらすならば、その性質はSRPであると言える。

とはいえ、この理屈だと、統語タイプとSRPsの同定は、結局のところ内容(意味タイプ)の同一性と差異についてのなんらかの直観ないし合意に訴えざるを得ないように思われる。記号論における古典的な換入テスト(commutation test)の理屈とだいたい同じものだろうから理論的な手続きとしてはありなのかなとも思うし個人的にはそれでいいと思うんだけど、つっこまれやすい部分だろうなという気はする。

References

  • Kulvicki, J. (2006a). On Images: Their Structure and Content. Oxford: Oxford University Press.
  • Kulvicki, J. (2006b). "Pictorial Representation." Philosophy Compass 1(6): 535-546.
  • パノフスキー, E. (2002). 『イコノロジー研究〈上〉』浅野他訳, ちくま学芸文庫.